第一話
※序盤は比較的ゆっくりとした進行になります。
06:45
電子アラームの音が、静まり返った朝を鋭く切り裂いた。
途切れることなく繰り返されるその音は、まるで本来なら隠されたままでいるはずの何かを、無理やり
暴き出そうとしているかのようだった。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
その音は、ただ身体を揺り起こしただけではない。
まだ完全には置き去りにできていない“何か”を、深い場所から引きずり上げていく。
夢の残滓――そんな生易しいものではなかった。
そこにあったのは、空間だ。
暗く。広く。
果てすら認識できない場所。
その中心に、一人の少年が立っていた。
身体はまっすぐ前を向いている。だが、その姿にはどこか空虚さがあった。意識だけが、自分自身の半歩後ろに取り残されているような感覚。
足元の感触はない。
空もない。
方角すら存在しない。
あるのは、沈黙した闇だけ。
――静かすぎるほどに。
まるで何かを待っているような、息を潜めた静寂。
そして――
コツ……コツ……
足音。
ゆっくりと。
一定のリズムで。
“距離”と呼ぶことすら曖昧な暗闇の奥から、こちらへ近づいてくる。
やがて、その闇の中から一つの影が姿を現した。
まるで最初からそこに存在していて、ただ今になって見えることを選んだだけのように。
女だった。
淡いピンク色の長い髪が、彼女の動きに合わせて静かに揺れる。光のない闇の中でさえ、その髪はかすかな輝きを帯びていた。
金色のフクロウの目を模した仮面が顔の一部を覆っている。
だが、その奥に覗くフューシャ色の瞳ははっきりと見えた。
鋭く。静かで。
――なぜか、異様なほどに“理解している”目。
長いドレスに軽装の鎧を重ねた姿は、不思議なほど優雅だった。
足音はない。
まるで彼女という存在そのものが、この空間の理から半ば外れているかのように。
女はゆっくりと近づいてくる。
「人間――」
その声は柔らかかった。
だが同時に、深い響きを持っていた。
まるで、この空間よりも遥か高次の場所から届いているような声。
「脆いと呼ばれるその器は……実のところ、あまりにも小さすぎただけ」
彼女は歩みを止めない。
「欲望も、意識も、選択も――」
静かな口調のまま、長い時間をかけて答えへ辿り着いた者のように続ける。
「それらは、無から生まれるものではない」
白い指先がゆっくりと持ち上がった。
そして、そっと彼の頬へ触れる。
意味のない愛撫にも似た、あまりにも自然な仕草。
「失敗ではないわ」
囁きは静かだった。
指先が顎の線をなぞり、そのまま首元へと滑っていく。
「あなたは、誤って生み出された存在なんかじゃない」
彼女はそのまま少年の背後へ回る。
吐息はほとんど聞こえない。
「むしろ――長く繰り返され続けたもの、その終着点……」
手が肩から腕へとゆっくり滑り落ちる。
急かすような動きではない。
ただ、自分の内にある衝動を自然に辿っているだけのようだった。
「……そして、それを断ち切る始まり」
再び彼女は動き、今度は少年の正面へ立つ。
距離は、息が触れ合いそうなほど近い。
その瞳は真っ直ぐに彼を見つめていた。
まるで、少年自身ですら見えていない“奥”を覗き込むように。
「混沌の波は、自然には止まらない」
彼女は静かに告げる。
「ただ待っているの……それを終わらせられるほど、“完全な存在”を」
沈黙。
やがて女は、わずかに身を屈めた。
顔が少年の首筋へ近づいていく。
唇が耳元に触れそうなほど近づき、その声は囁きへと変わった。
あまりにも近く。
まるで直接、意識の内側へ流れ込んでくるように。
「ねえ、人間――」
声音が変わる。
より深く。
より重く。
「多くの世界が……あなたを待っている」
かすかな吐息。
ほとんど感じ取れないほど微かな声。
「――彼と共に」
短い沈黙。
ほんの一瞬。
だが、その一拍だけで空間そのものの鼓動が止まったように感じられた。
「空虚の魔王の意志――その始まりを」
再び静寂が降りる。
そして――
「目覚めなさい……現実へ」
次の声は歪んでいた。
途切れ。重なり。
まるで二つの名前を、無理やり同時に吐き出しているように。
「アオ――カワ――ジアス――レイ――ノ――ラ――ヴィ――アズ――レン――ジ――」
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
その瞬間、すべてが砕け散った。
空間は音もなく崩壊する。
――
少年は勢いよく目を覚ました。
「はっ――!?」
目を見開き、途切れた息を乱したまま、身体を跳ね起こす。
まるで無理やり現実へ引き戻されたように。
次の瞬間、全身に重さがのしかかった。
「……今のは……なんだったんだ……?」
彼はゆっくりと頭へ手をやり、こめかみを押さえる。
逃げていく何かを掴もうとするように。
だが、残っていたのは――
内側からじわじわと広がっていく、鈍い痛みだけだった。
「んっ……なんでだよ……」
少年はかすれた声で小さく漏らした。
目を細める。
思い出そうとすればするほど、頭の奥がじわじわと痛みを増していくようだった。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
容赦なく、再びアラーム音が思考を断ち切る。
彼は眉を寄せた。
「はぁ……うるさ……」
まだ眠りと覚醒の狭間に取り残されたような、掠れた声。
起こしかけていた身体は、そのまま力を失ったように再びベッドへ沈み込む。
半ば投げやりに寝返りを打ち、乱暴な手つきで毛布を引き寄せた。
二重に重なったそれを、そのまま顔まで完全に被る。
毛布の下で手がだらりと動く。
当てもなく彷徨いながら、存在するのかも分からない“ちょうどいい姿勢”を探していた。
顔へ薄く押しつけられる布の感触。
暖かく。少し息苦しく。
けれど、それが心地いい。
あと数分だけでも、この世界そのものを無視できる気がした。
――これで全部、静かになる。
そんなふうに思ったのに。
アラームは止まる気配すら見せない。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
同じ音。
同じリズム。
変わらず正確で、その律儀さが逆に腹立たしかった。
「っざけんな……!」
今度はさっきよりはっきりした声が漏れる。
もっとも、毛布越しでまだくぐもってはいたが。
「分かった……分かったって……起きるから……」
嫌々身体を引きずるようにして、ようやく彼は動いた。
毛布を雑に引き下ろす。
現れたのは、寝起きそのままの気だるそうな顔だった。
半分しか開いていない目。
重たげな瞼。
そして、まだ完成しきっていない不機嫌そうな表情。
彼は半身を起こし、そのままベッドの上でぼんやり座り込む。
肩は少し落ち、眠気の残骸を無理やり背負っているようだった。
右手がゆっくり横へ伸びる。
ベッド脇の小さなテーブルへ触れ、指先がしばらく宙を探るように彷徨ったあと――ようやく音の元を掴んだ。
鳴るたびに小さく震えているデジタル時計。
カチッ。
その瞬間、アラーム音はぴたりと止んだ。
静寂。
しばらくの間、部屋に響いているのは彼自身の呼吸だけだった。
急に静かになった空間が、妙に広く感じられる。
朝の陽光が、透明な窓からゆっくり差し込んでいた。
薄いカーテンを透かした光が部屋全体へ柔らかく広がっていく。
宙を漂う細かな埃が光を受けてかすかに煌めき、さっきまで見ていたものとはあまりにも不釣り合いなほど穏やかな朝の景色を作り出していた。
少年は手の中のデジタル時計をぼんやり見つめる。
まだ現実へ意識を繋ぎ直しきれていないような目だった。
「お前、優しすぎるんだよな……」
小さく呟く。
口元がわずかに歪む。
呆れと諦めが半分ずつ混ざったような表情。
「でも……次はもっと静かなやつに替える」
そう言って時計を元の場所へ戻すと、彼はそのままベッドに座り続けた。
背中を丸め。
頭を垂れたまま。
少しだけ長い沈黙。
妙に間の抜けた静けさが部屋に落ちる。
やがて彼は大きく口を開けた。
「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
長い欠伸が、朝の冷気をまだ薄く残した部屋にゆっくり溶けていく。
窓の外では、小鳥たちがずっと前から楽しげに囀っていた。
軽やかな鳴き声があちこちで重なり合い、まるで今日がただの平凡な朝でしかないとでも言うように響いている。
朝日がさらに部屋の奥へ差し込み、細い光の線をベッドの上へ落としていた。
その中央にいるのは――
青川 蓮司。二十歳。
毛布に半分埋もれたまま、寝癖だらけの髪をあちこちへ跳ねさせている。
彼は片手で口元を隠しながら欠伸の余韻を噛み殺した。
起きたばかりの目には、朝の光が少しだけ眩しすぎた。
意識がゆっくりと戻ってくる。
何層にも重なった霧が、一枚ずつ剥がれていくように。
焦ることもなく。
ただ静かに。
「昨日の夜……マジで疲れてたんだな……」
ぽつりと漏れた声は、部屋の静けさに溶けるように小さかった。
まるで理由を考えるより先に、言葉だけが勝手に口から零れ落ちたようだった。
彼は片手を上げ、少し乱暴に目を擦る。
無理やり意識を覚醒へ引っ張り上げようとするみたいに。
「あー……そういや、今日何曜日だ?」
身体を少し傾け、ベッド脇の机へ視線を向ける。
先ほどまで鳴っていたデジタル時計の近くには、小さなカレンダーが掛けられていた。
まだ視界はぼやけていたが、それでも日付くらいならなんとか読める。
彼は目を細めた。
2022年12月3日。土曜日。
数秒の沈黙。
ただ日付を確認するだけにしては、少し長すぎる間だった。
「はぁ……土曜かよ……」
気の抜けた声が漏れる。
「次からは……毎日が日曜とか期待しねぇようにしないとな……」
長いため息。
そこに混じっていたのは、単なる眠気や疲労感ではなかった。
思い出せない何か。
あるいは、思い出したくない何か。
そんな曖昧な重さが、胸の奥に沈んでいる。
彼は短く息を吐き、少しだけ顔を背けた。
もう朝は始まってしまったのだと、無理やり納得しようとするように。
「だる……今日サボろっかな……」
だが、その気怠さは部屋の様子にもよく表れていた。
床にはコード類が雑に散らばり、VRヘッドセットは机の脇へ適当に放置されている。
薄暗く点灯したままのパソコンだけが、昨夜の活動がまだ終わっていないことを黙って物語っていた。
部屋の隅には食べ終えたインスタント食品の容器が積まれている。
生活感はある。
だが、それを丁寧に整えようという意思はどこにも感じられない。
蓮司自身も、そのことは理解していた。
別に他人を避けて生きているわけじゃない。
必要なら普通に人付き合いだってできる。
ただ――単純に、面倒くさがりなのだ。
そしてその性格を、もう長い間まともに矯正しようとしてこなかった。
二年前、彼は桜ヶ丘高校を特に問題もなく卒業した。
今では大学生だ。
もっとも、日常そのものは高校時代からほとんど変わっていない。
将来について考えるでもなく。
同年代の人間みたいにアルバイトを探すわけでもない。
蓮司はただ、自分だけの世界へ沈んでいた。
時間の流れが少しだけ遅くて、現実があまり多くを求めてこない場所へ。
ゲーム。
アニメ。
そして、余計なことを考えずに済むもの全部。
彼にとっては、それで十分だった。
少なくとも――今はまだ。
あるいは。
立ち止まって本気で考えたりしない限りは、それで済んでしまうだけなのかもしれない。
他人から見れば、そんな生き方はきっと情けなく映るだろう。
目的もないまま歩き続け、ただ日々を無駄に消費しているだけの人間。
そして蓮司自身も、そのことを理解している。
――だからこそ、嫌いだった。
彼はしばらくベッドの上で黙り込んでいた。
目はもう完全に覚めているのに、身体だけが動こうとしない。
視線は天井へ向けられたまま。
何も映していないようで、その実、思考だけが近づきたくない場所へ引っかかっているようだった。
やがて、深く長いため息が零れる。
最初から存在していなかった気力を、無理に集めようとしているみたいに。
彼はだるそうに手を動かし、身体へ半分絡みついていた毛布を押し退けた。
そのまま脇へ落ちる。
整えもしない。
見向きもしない。
蓮司はゆっくり身体をずらし、ベッドの端へ腰掛けた。
少し猫背のまま。
数秒、沈黙。
そしてようやく立ち上がる。
最初の一歩は少し不安定だった。
まだ完全には現実へ戻りきれていない人間の歩き方。
床を引きずるような足取りで、散らばったコードの間を進んでいく。
その存在にすら、ほとんど意識を向けないまま。
彼は気怠そうな足取りのまま、部屋の扉へ向かった。
急いでいるわけではない。
ただ、身体が習慣で動いているだけのような歩き方だった。
力の入っていない手がドアノブを掴み、そのまま回す。
カチャッ。
扉が開いた。
振り返ることはない。
散らかった部屋のことも、そのまま放置された空間のことも気にせず、蓮司はそのまま外へ出ていく。
背後でドアがゆっくり閉まり、小さな音を立てた。
ほとんど聞こえないくらい静かな音。
廊下を歩く足音が、かすかに響く。
そのリズムは遅く、ぼんやりしていて、まるで意識より先に身体だけが動いているみたいだった。
まだ半分眠っていて。
まだ半分――空っぽのまま。
しばらくして。
彼は洗面所の鏡の前に立っていた。
歯ブラシがゆっくりと口の中を動く。
その一方で、彼の視線は鏡へ映る自分自身へ向けられていた。
ぼさぼさの髪。
生活感の抜けきらない顔。
そして、なぜだか――少しだけ見慣れない。
彼はしばらく、そのまま動かなかった。
何かを探すように、自分の顔を見つめ続ける。
違和感がある。
曖昧で、薄くて。
けれど無視するには妙に引っかかる感覚。
今の自分の人生が、ただ脆い表面だけで成り立っているような。
その奥にもっと深い“何か”があって、自分は一度それを見たことがあるのに、もう思い出せない――そんな感覚だった。
「……惨めで、残酷で、どうしようもない……か」
小さな呟き。
自分にすら届いているのか怪しいほど微かな声。
そういう言葉を向けられることには、もう慣れていた。
自分みたいに部屋へ引きこもり、ゲームやフィクションの世界へ逃げ込んでばかりいる人間は、だいたい同じ目で見られる。
陰キャ。
根暗。
社会不適合。
蓮司は短く息を吐き、鏡の前で少しだけ立ち位置を変えた。
無意識のうちに、顔を近づける。
(まあ……生きてはいけてるしな)
そんなことを考えながら、自分の顔をじっと眺める。
本気で興味があるわけではない。
ただ、なんとなく確認しているだけ。
別に、悪くはない。
正直に言えば、同年代の男の中ではそれなりに整っている方だとは思う。
……たぶん。
少しくらいは。
口の中で歯ブラシの動きが止まる。
そして――家族のこと。
その瞬間、思考が不自然に途切れた。
まるで形になる前に、誰かに切り落とされたみたいに。
歯を磨く手もゆっくり鈍くなる。
両親は、ずっと昔に亡くなった。
彼が五歳の頃だ。
本来なら避けられたはずの、ありふれた事故。
けれど、それだけで全ては終わった。
制御を失ったコンテナトラック。
そして、自分が何をしたのか理解すらできないほど酔っていた運転手。
――終わりだった。
呆気なく。
短く。
そして残酷なくらい一瞬で。
本来なら、終わってはいけなかったものだったのに。
それ以来、蓮司は叔母と二人で暮らしている。
最後まで彼の傍に残り、今の彼になるまで育ててくれた、たった一人の家族。
「……はぁ」
長いため息が、静かに唇から漏れた。
力の抜けた、薄い吐息。
洗面台へ置かれたままの手。
その指先が、無意識に陶器の表面を一定のリズムで軽く叩いている。
まるで、自分にしか聞こえない何かに合わせるように。
「人生ってさ……リセットできたらいいのにな……」
掠れた声。
蛇口から落ちる水滴の音へ溶け込むくらい、小さな呟きだった。
彼は少しだけ首を傾け、鏡の中の自分を見る。
焦点の合っていない、どこか空っぽな視線。
(転生するとしたら……何になるんだろ)
口元がわずかに歪む。
笑ったわけじゃない。
どちらかといえば、無理やり形にした諦めに近かった。
(魔王……とか?)
(悪くないかもな)
静寂。
軽口のような言葉だった。
表面だけなら、ただの冗談に聞こえる。
――けれど、その奥には笑い切れない何かが沈んでいた。
あの日のことを思い出すたび、胸の底にはいつも何かが残る。
時間と共に鈍くなった悲しみだけじゃない。
もっと別の感情。
澱のように沈み続けているもの。
――憎しみ。
誰に向けたものなのか、彼自身にも分からない。
世界に対してなのか。
それとも、自分たちが壊したものにすら気づかないまま生きている人間たちに対してなのか。
分からない。
そしてたぶん、知りたいとも思っていなかった。
歯を磨く動きが止まる。
歯ブラシは、ただ手の中で静止したままだった。
だが。
彼の記憶から決して消えないものは、もう一つある。
もっと近くて。
もっと鋭くて。
もっと――個人的なもの。
鏡の中の視線がわずかに揺れる。
眉が小さく寄った。
長く埋もれていた記憶が、ゆっくりと水面へ浮かび上がってくるみたいに。
――そして。
彼の意識は、過去へ沈んでいった。
◇
あの日の空は、どこまでも青かった。
澄み切っていて。
あまりにも穏やかで。
まるで数時間後に起きる出来事なんて、最初からどうでもいいとでも言うように。
2018年11月18日。
日曜日。
午前9時。
空へ突き刺さるような高層ビルの前で、一人の少年が立ち止まっていた。
無意識のうちに顔を上げる。
――蓮司。
当時、まだ十六歳。
彼は目を細めながら、建物の頂上を見上げていた。
白を基調とした巨大なビル。
朝日を反射するその外壁は、現実感が薄いほど眩しく、まるで自分の知っている世界には存在してはいけない建造物みたいだった。
正面には、大きな文字が刻まれている。
『Fractured Control』
「うわぁ……すげぇ……」
感嘆の声が、思わずそのまま口から漏れた。
隠しきれない、純粋な驚き。
その隣で、赤髪の青年が小さく笑う。
鈴木。
ラフな雰囲気を纏った、スポーツマンらしい体格の青年だった。
彼は蓮司の肩を軽く――いや、少し強めに叩く。
「だろ?」
そのままニヤついた顔で横目を向け、からかうように眉を上げた。
「おいおい、そんな感動してんの、看板見ただけじゃねぇか? 蓮司」
「うぇっ、あ……」
突然の一撃に肩が跳ねる。
蓮司は反射的に頬を掻き、視線を逸らした。
明らかに、そういう弄りには慣れていない反応。
「なんだよ、その顔。固まりすぎだろ」
鈴木は目を細め、少しだけ身体を寄せながら笑った。
「い、いや……こういう場所に来るの、初めてだからさ……」
一度詰まった呼吸が、ゆっくり漏れる。
「まさか自分がグランドファイナルまで来れるなんて思ってなかったし……みんなと一緒に」
その言葉に嘘はなかった。
けれど声には、かすかな震えが混じっていた。
ただ緊張しているだけじゃない。
あの瞬間が、当時の彼には大きすぎたのだ。
自分でも上手く理解できないくらいに。
短い沈黙が落ちる。
少しだけ、気まずい間。
――次の瞬間。
「はぁ!? そんだけかよ!」
鈴木が腹を抱える勢いで笑い出した。
遠慮のない大声。
バシィッ!
そのまま蓮司の肩へ拳が飛ぶ。
軽く叩いただけのつもりなのだろうが、勢いが強すぎて身体が少し傾いた。
「こんな場所、ゲーマーなら誰でも知ってるだろ! 知らねぇ方がおかしいって!」
肩を震わせながら笑う。
「そんなガチガチになんなよ。もっと楽しめって!」
「っ……痛っ……もうちょい加減しろよ……」
蓮司は顔をしかめ、反射的に肩をさする。
じんじんと鈍い痛みが残っていた。
「ははっ! 今のなんて全然軽いだろ!」
その時、横から別の声が入った。
鈴木とは正反対の、落ち着いた低い声。
「ここまで来れたのは、お前のおかげでもある」
蓮司が振り向く。
そこには、いつも通り無表情な明が立っていた。
視線は真っ直ぐで、一切ぶれない。
まるで議論の余地もない事実を、そのまま口にしているだけみたいだった。
「お前が強くなかったら、俺たちのチームはここまで来れてない」
一拍。
わずかな沈黙が、その言葉の重さを自然に際立たせる。
「お前、もう世界トップ10プレイヤーだしな」
だがすぐに、明は小さく首を横へ振った。
「……いや。今なら、たぶん一位か」
蓮司の動きが止まる。
「ほんとそれ!」
すぐさま佐々木が勢いよく乗っかってきた。
目を輝かせながら、まるで自分のことみたいに嬉しそうに笑う。
「蓮司がいなかったら、絶対まだ下の方だったって! 色々教えてくれたのも全部お前だし!」
「二ヶ月でここまで来れたの、普通におかしいからな!」
平田も大きく頷く。
隠しきれない笑顔。
次々飛んでくる言葉に、蓮司は一瞬だけ居場所を見失いそうになった。
彼は再び頭を掻く。
今度はさっきより深く。
まるで視線から逃げるように。
「いや……さすがに言い過ぎだろ……」
鈴木がニヤリと笑い、腕を組む。
態度は軽い。
けれど、その目だけは冗談じゃなかった。
「変に謙遜すんなって。実際、お前がずっと勝たせてくれてたじゃねぇか」
そう言ってから、彼は少しだけ表情を緩めた。
さっきまでの茶化す笑みとは違う。
もっと自然で、素直な笑顔。
「マジでさ。お前と知り合えてよかったわ」
蓮司は言葉を返せなかった。
少しだけ、目元が柔らかくなる。
普段は閉じたままの何かが、ほんのわずかに開いた気がした。
大勢の人間が行き交う建物の前。
重なり合う足音。
次第に増えていく観客たちのざわめき。
そんな喧騒の中で、それよりもずっと鮮明に感じられるものがあった。
――温かい。
単純な感覚だった。
けれど、確かにそこにあった。
昔の自分たちが弱かったことなんて、どうでもいい。
他人から役立たずだと思われていることだって、今は気にならなかった。
なぜなら、初めて――
簡単には奪われないものを、彼は手に入れていたから。
仲間を。
そして、その瞬間だけは。
それだけで十分だと思えた。
まるで、この時間を一生忘れてはいけないとでもいうように。
――なのに、心のどこかでは。
逆に、忘れてしまう気がしていた。




