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雨足が強まる深夜、古いアパートの床を叩く音が、室内の異様な静けさを際立たせていた。
ギイ、と玄関の古いドアが軋む。
鍵はかかっていたはずだが、プロの技か、あるいは強引な力任せか、錠前は音もなく外された。ドアが開き、黒いレインコートをまとった二人の男が冷たい外気とともに足を踏み入れる。
「……やっぱり、電気がついてるな」
リーダー格の男は驚いた様子を見せなかった。当然だ。彼らは澪が海から這い上がり、このアパートに潜伏していることを最初から突き止めて追ってきたのだから。男たちの顔にあるのは動揺ではなく、始末し損ねた獲物を今度こそ確実に消すという、冷酷な確認の笑みだった。
「しぶといガキだ。あのまま沈んでいれば楽だったのに、わざわざ這い上がってくるとはな」
もう一人の男が、レインコートのポケットから金属製の重いスパナを取り出しながら、一歩を踏み出す。
だが、男たちがリビングに足を踏み入れた瞬間、澪は微動だにせず、足元に隠していたものを掴んだ。
それは、部屋の隅に置かれていた赤い粉末消火器だった。
「――遅いよ」
澪が安全ピンを引き抜き、レバーを強く握りしめる。
シュボッ! という凄まじい音とともに、高圧の白煙が一斉に噴き出した。視界が一瞬にして真っ白な霧に包まれる。
「っ、なんだ……!?」
男たちが視界を奪われ、思わず腕で顔を覆ったその隙を、澪は見逃さなかった。
白煙を突き抜けて一歩踏み込んだ澪は、重い消火器の底を両手でしっかりと抱え込み、リーダー格の男の頭蓋めがけて全身の力を込めて振り下ろした。
ゴンッ! という鈍く重い音が、狭い部屋に響き渡る。
衝撃に耐えきれず、男は目を見開いたままその場に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
「うおっ……!?」
仲間が倒れた動揺と白煙の混乱の中、もう一人の男がパニックを起こし、手にしたスパナを振り回しながら澪へと突進してきた。
「澪ちゃん!」
恐怖に引きつりながらも、悠斗は持っていたすべての勇気を振り絞った。彼はあらかじめ足元に仕込んでおいた、すべすべとした古いカーペットの端を、全身の力で力一杯に引っ張り上げた。
「なにっ……!?」
突進してきた男の足元が、突然の足場の消失によって完全にバランスを崩す。
男は宙を舞うように派手に床へと転がり、盛大に背中を打ち付けた。
「今だ!」悠斗の鋭い声が飛ぶ。
床に這いつくばり、慌てて体勢を立て直そうとする男。その頸動脈の隙間めがけて、澪は容赦なく飛びかかった。
手に握られていたのは、あの夜、冷たい海の底で手首の結束バンドを断ち切った、母の形見の小さな髪留めだった。
金属の細いピンが、室内灯の光を冷たく、鋭く反射する。
「お返しの挨拶、忘れてたからさ」
澪がそのピンを男の首筋へと正確に突き立てた。急所を外さない絶妙な一撃。男は喉からかろうじて泡のような息を漏らし、そのまま白目を剥いて意識を手放した。
静寂が戻る。
部屋には、消火器の白い粉と、かすかな血の匂いが立ち込めていた。
床に倒れ伏す二人の男。
その傍らで、澪は乱れた髪をそっと耳にかけ、何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。その頬にはわずかに返り血がついているが、彼女の瞳はどこまでも澄み切っていた。
悠斗は足元のカーペットを握りしめたまま、荒い息を繰り返していた。手が震えて止まらない。人を傷つけたという事実と、目の前で繰り広げられた澪の圧倒的なまでの冷徹さが、彼の脳を焼き尽くしていた。
悠斗は、目の前にいる少女が自分にとって「守るべきか弱い存在」などではなく、自分よりもはるかに深い闇を抱えた捕食者なのだと、改めて思い知らされていた。
澪はそんな悠斗の前に歩み寄り、血に染まった頬のまま、愛おしそうに彼の胸に手を当てた。
「ねえ、悠斗くん。私たちの邪魔をするものは、もう誰もいないよ」
澪は、床に倒れもがいている二人の男に視線を向けると
「スーツケースを買ってこなきゃね」
そう言って、悠斗に微笑んだ。
外の世界から完全に切り離されたこの部屋で、二人の狂気はもはや誰にも止められない領域へと踏み出していた。




