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「……え?」
悠斗の喉から、間の抜けた声が漏れた。
思い描いていたのは、泣き叫ぶ姿、怯えて許しを乞う姿、あるいは冷酷に拒絶される姿のどれかだった。だが、目の前の少女は違う。ベッドの上に上品に両足を揃えて座り直すと、まるで親しい友人をもてなすかのように、首をかしげたのだ。
「そんなに驚かないでよ。せっかくのデートなのに、顔が真っ青だよ、悠斗くん」
澪は、自分の名前をいつの間に知ったのかという疑問さえ抱かせぬ自然な笑みで、悠斗の手首にそっと自分の手を重ねた。
冷たい。
けれど、その指先は驚くほどしっかりと悠斗の皮膚を捉えて離さない。
「ぼ、僕は……君を誘拐して……その、監禁して……」
「知ってるよ。だってお母さんいないもん、私。誰も探しに来ない。警察に駆け込んだって、どうせ『家出』で片付けられる時間帯でしょ? ……あ、でも、身代金くらいは要求できるのかな?」
ふふ、と澪は小さく笑った。その瞳の奥には、恐怖のかけらもない。あるのは、底知れない好奇心と、奇妙なまでの熱狂だけだった。
「違う、お金目当てじゃない! 僕はただ、君と……!」
「わかってる。好きだからでしょ?」
澪はベッドから軽やかに降りると、悠斗の部屋を見回した。
机の上に散らばる受験勉強の参考書、本棚の漫画、そして壁に貼られた趣味のポスター。一見して、どこににでもある冴えない高校生の部屋。だが、その一角には、さっきまで彼女を詰め込んでいた新品のハードケースが、無残な黒い影を落としている。
「ねえ、悠斗くん。あのスーツケース、90リットルだっけ?」
「……え、あ、うん」
「私、結構苦しかったな。膝が折れそうだった。今度から、もうちょっと大きいのにしてよね」
注文をつけるように言う澪に、悠斗は完全に気圧されていた。主導権は完全に奪われている。自分が拉致したはずなのに、まるでこの部屋の主は澪であるかのような錯覚さえ覚える。
「……怖くないの?」
悠斗が掠れた声で問うと、澪はぴたりと動きを止め、窓の外の薄闇に目をやった。
遠くで、始発の電車の音がごとりと響く。
「怖い? なんで? 私ね、一度死にかけたことがあるんだよね。本当の暗闇と、冷たさと、絶望を知ってるの。だから、これくらいじゃ驚かない」
澪は自分の首筋に触れた。そこには、うっすらと古い傷跡のようなものが残っているようにも見えた。
「それにさ」
澪は振り返り、悠斗の胸元に顔を寄せた。甘いシャンプーの匂いがする。
「私をこんなふうに狂おしく求めてくれたの、悠斗くんが初めてだもん。嬉しくないわけないじゃない」
その言葉に、悠斗の背中を悪寒のようなものが駆け上がった。それは恐怖ではなく、底知れない甘美な毒だった。「好きだ」という自分の感情が、彼女の手によって別の形に歪められ、溶かされていくような感覚。
「……じゃあさ」
悠斗は唾を飲み込み、震える声で言った。
「これから、どうする?」
澪は悪戯っ子のようにニヤリと笑い、自分の制服のブレザーを脱ぎ捨てた。中のワイシャツの胸元が少しだけ乱れる。
「決まってるでしょ。まずは朝ご飯。私、牛乳とパンが好きなの。あ、でも、悠斗くんの家にはないか。買い出しに行こうよ。もちろん、二人で手をつないでね」
「外に出るのか……? 警察に……」
「大丈夫。私が『優しい彼氏です』って顔してあげるから。もし変な素振りを見せたら……」
澪はクスリと笑い、ベッドの端に放置されていた、あのスーツケースに視線を投げた。
「次は、悠斗くんをそっちに入れてあげる。お返し、楽しみにしててね?」
拒絶する選択肢は、もう初めから用意されていなかった。
東京の端っこ、古いアパートの狭い部屋で、一線を超えた二人の奇妙な共同生活が、夜明けの光とともに静かに幕を開けた。




