SS1. これからはずっと一緒に -ヤドカリ-
御礼SS、三本。
まず始めは本編後のヤドカリや兄姉が登場します。
ヤドカリの朝は、早い。
「ふわああ。よく寝たなあ」
目覚めるや、ヤドカリがぐっと体を伸ばした。ヤドカリが寝床として愛用している欠けた椀は、ちょっと狭い。でもその狭さが逆によかったりする。広いと、なんとなく落ち着かないのだ。
ヤドカリのすぐそばではお爺がぐっすりと眠っている。この時間帯にお爺が起きていることはめったにない。だからヤドカリにとって、朝とはもっとも暇な時間だった。そう、『だった』である。過去形である。今日からは違うのである。
「ふふふ」
ヤドカリはお椀の中から這い出すと、いそいそと小屋を出た。
建てられたばかりでまだ木の香りが漂う小屋を出れば、潮の香りがすぐそこまで届くほど海は近い。すでに太陽は姿を見せており、白みがかった朝特有の日光を受けて左右に広がる海面が柔らかな輝きを放っていた。
その海に向かって何やら祈りを捧げている人物がいる。お婆だ。聖者であったお婆は日が昇る様を見守ることを昔からの日課としているという。それを昨夜聞いたヤドカリは、寝る直前だというのに内心興奮した。だから今朝も目を覚ました瞬間からわくわくしていた。
今日からは朝だって、きっと楽しくなる。
「トカリ姉ちゃん。おはよう!」
「おお。おはよう」
額に当てていたまじない骨をおろしたお婆が戸惑ったようにはにかんだ。
昨日この洞窟に移り住んできたばかりなのもあり、お婆の態度はどこか硬い。ヨンドの魚が巻き起こした一件ではあれほど自由にものを言っていたくせに、今のお婆からは少女のような初々しさすら感じられる。
「ウカリは起きるのが早いんじゃのう」
「トカリ姉ちゃんほどじゃないよ。ね、もうお祈りは終わった? 終わったらおいらと遊んでくれる?」
「遊ぶ?」
お婆がぱちくりと目をしばたいた。
「遊ぶといっても、何をしたらいいのか、わしにはさっぱりわからんが」
「だったら沖に出てみない? 舟、こげる?」
「少しなら。よし、今から行ってみるかえ?」
「やったー!」
歓喜の声をあげるや、ヤドカリが軽快な動作でお婆の肩まで一気に駆け上がった。
「では早速、しゅっぱーつ!」
*
自分で言っていたとおり、お婆は舟をこぎなれていなかった。のろのろと進む舟は、この調子ではあまり遠くへは行けないだろう。だがヤドカリの心は躍っていた。
「ふふん、ふんふーん」
感情を隠すことを知らないから、浮かれるヤドカリの気持ちは、小刻みに揺れる殻や軽快な鼻歌などからバレバレだ。そうなると櫂を扱うお婆の手にも自然と力が入るというものである。
「海ってやっぱり広いねー。朝だと特に気持ちいいや」
「そうじゃのう」
いつしか、お婆も櫂を動かす手を止めてきらめく海面に見入っていた。やがて遠く船着き場の方から、一隻、また一隻と漁船が出てきた。島の一日も始まろうとしているのだ。あの船のどれかにアキトがいて、コウヤがいて、そして船着き場にほど近い飯屋では今日もトワがきりきりと働くのだろう。
島での騒動はつい最近のことのようで、随分昔のようにもヤドカリには思えた。あれと同じ体験をもう一度したいとは思えないが、二度と経験できないと思うとそれもまたちょっとさみしい。複雑な心境である。
「どうしたんじゃ」
「えっ? ううん、なんでもないよ」
「そうかえ?」
「うん。ちょっと考え事をしていただけ。そういえば聞いてくれる?」
お婆から探るような視線を受け、ヤドカリは話をすり替えるべく、適当に思ったことを口にした。
「おいらさ、眠るときは狭い場所でないと落ち着かないの。でもね、出かけるのも好きなんだ。こうして海の真ん中にいるのもすごく好き。広くてもすごく落ち着く。どうしてなのかなあ」
「ふうむ」
お婆はしばし考えた後、言った。
「それはおぬしがヨンドだからじゃろうなあ。ヤドカリは海を好む。だが赤ん坊は布で包まれると安心してよく眠るもんじゃ」
「ええっ。それっておいらが人間としては赤ん坊のころから成長していないってこと?」
「そうかもそれんのう」
からからと笑いだしたお婆のことをヤドカリがじとっと睨んだ。だがしばらくすると、ヤドカリもおかしくなってきて一緒に笑っていた。
「ははっ。そっかあ。おいら、まだ赤ん坊なんだ。だったら今まで以上にトカリ姉ちゃんに甘えちゃおっと」
「ん?」
お婆がきょとんとした顔になった。だがしばらくするとその頬がほんのりと赤く染まった。そして視線をそっと下げ、つぶやいた。
「……おぬしがそうしたいならそうすればええわ」
「そうする! トカリ姉ちゃん、大好き!」
お婆の肩でヤドカリがぴょんぴょんと跳ねた。すると二人が乗る小舟の周囲で小魚たちも何匹か跳ねた。ヨンドに同調した小魚たちの歓喜の踊りは、ヨンドであるヤドカリ自身をさらに喜ばせ、それを見たお婆もつられて笑みを深めたのであった。
*
洞窟内、薄っぺらい布団にくるまってお爺が眠っている。いや、実はもう目は覚めていて、瞼を閉じて姉と弟の様子を『視て』いる最中だった。
姉も、弟も、小魚までも。みんなが喜び、笑っている。なんともすばらしい光景ではないか。今日からはこのすばらしい光景が日常となるのだ。今日も明日も、あさっても。いつまでも続くのだ――。
瞼を閉じたまま、お爺の口角がゆるりと持ち上がる。やがてお爺は力を解くと、のっそりと体を起こした。二人が戻ってきたらすぐに食べられるよう、朝餉の準備をするために。昨日の時点で用意しておいたモズクとアオサはお婆の好物で、酢の物と汁に仕立てるお爺の顔には終始笑みが浮かんでいた。
*
「おおっ! シカリ! うまいぞ! おぬし、料理が得意なんじゃな」
「おいらも! おいらもおかわりするっ!」
*
いつまでも、いつまでも。
この三人が幸せに暮らせますように――。




