21. アキトの決意
「ううむ。これといった動きがないのう」
館の様子をずっと視ていて疲れたのだろう、渋い顔をしていたお爺が肩をまわしながら立ち上がった。
「お前さんが見た帆船にいたのは柏原家の次男坊だ。もう宴も終わって自室でくつろいでおる。……おいおい。まだ暗い顔をしているのか。そんなにトワに言われたことが痛かったかのう」
洞窟に戻って以来、アキトは膝を抱えて座っていた。
「……うるさい。なんでもかんでも視るな」
「そう言われてもなあ」
実際には島の中のすべてを同時に視ることなど不可能だ。お爺とて処理能力の限界がある。ただ、気にすべき人間というのはいるわけで、お爺の意識は自然とそちらへと向かってしまうのだ。今はその対象にトワとアキトも含まれていた。
眉をさげたお爺は本当に困った顔をしていたから、アキトもこれ以上責め続けるのは違うと思いなおし、姿勢を正した。
「なあ。今日は何が視えていたんだ?」
「今は次男坊同士で呑んでいるぞい。宴ではヨウガが柏原家に対して何か頼んでいるようだったな。それを聞いているコウヤがえらく渋い顔をしとった。そういえば次男坊二人は昼間にお魚様に会うてるぞ。まあ、そこにも特に違和感はなかったが……」
「なんだ。気になることがあるなら些細なことでもいいから教えてくれ」
「うむ。次男坊の二人がお魚様を前にしてやけに落ち着いていたのが気になってはおる。少なくとも柏原家はヨンドとの初対面に落ち着きすぎていたようにも思うんじゃが……まあ、こればっかりは個性や性格もあるからなあ。そういえばコウヤは大陸に長く滞在していたことがあったよな?」
「半年ばかりな。三年前のことだ」
「だから次男坊同士は親密なのだな。事前にコウヤから話を聞いていたのかもしれん。合点がいったわい」
「半年……か」
アキトが急に物思いにふけりだした。
「おお。どうした」
「……いや。俺とトワはもう十六年も一緒にいるんだなって思ってさ」
しんみりとしたアキトがまた膝を抱えてうつむいた。その途端、静観していたヤドカリが動いた。
「ああ! もう!」
ヤドカリはさささっとお爺の肩から駆け下るや、休むことなくアキトの背中を駆け上がっていく。そしてアキトの肩にたどりつくとためらいもなく耳たぶに鋭利なはさみを動かした。じゃきん、と。
「……いってえ!」
激痛にアキトが立ち上がった。ヤドカリはアキトの肩からひらりと飛び降るや、胸を張る代わりに殻をぐっと反らした姿勢になった。そしてアキトをきつく睨みつけた。
「アキト、さっきから暗くて最悪! なにうじうじしてんだよお!」
「しょうがないじゃないですか! 落ち込んでいるんだから!」
大声に大声で返す様は子供のけんかのようだ。ただ、アキトも限界だったのだ。だから痛みに任せて感情のままに言葉を発し続けた。
「今日、トワはお魚様の嫁になるって言ってたんだ! この島のために嫁になるって、あいつはそう決めてしまっていたんだ! 俺は……俺はそんなトワのためになにもできなくて……!」
にじんできた涙をアキトは乱暴に腕でぬぐった。
「ここにこうしている自分が嫌になる。ここでこうしてトワが俺以外の奴の嫁になるのを指をくわえて見てないといけない自分が心底嫌だ。でも俺が館に行ったって何もできやしない。たとえ無理やりトワを連れ出すことができても、そのせいで島が沈んだらトワのことだから一生苦しむに決まってる。たとえ俺が自分の意志でしたことだって言い張ったって、トワは自分のせいだって思うんだ」
アキトの涙にぬれた瞳がお爺とヤドカリを交互に見つめた。
「お爺。俺はどうしたらいいんだ。ヤドカリ様。俺に何ができるんでしょうか」
「……一つ、方法がなくもない」
お爺が放ったひとことに、アキトは目を見開き、ヤドカリがその場で跳ねた。
「ダメだよ! シカリ兄ちゃん!」
「ウカリ。わしは腹を決めたぞ」
ウカリ――その名は人であった頃一度として呼ばれたことのないヤドカリの人としての真名だった。
「ウカリもアキトを焚きつけたんだから少しは助けてくれないと困るわい」
「……シカリ兄ちゃん。でもトカリ姉ちゃんが」
「姉者もわかってくれる。わかってくれんでもやるがな」
「そんなあ」
「こんな理不尽なことが今後も続いていいわけがないんだ」
双子の姉とたもとを分かつ覚悟を示したお爺に、ヤドカリは黙り、アキトは勇気をもらった。
「お爺。教えてくれ。俺はどうすればいい。どうすればトワを救える。島を守れる」
真摯に教えを乞おうとするアキトには寸前までの弱気はなく、これにお爺が満足げにうなずいた。
「油だ」
「油?」
「黒油のことだわ」
「灯り用の油のことか。あれがどうしたんだ」
島の南の方でちょろちょろと湧き出る黒油は、食用油と違って粘度が高く、ややすえた匂いもするからあつかいにくい。ただ、燭台や松明に火をつける際には便利だから、油畑と呼ばれる湧き所は昔から島で大切に管理されていた。
「黒油を使ってヨンドを火だるまにするんじゃ。ガワは魚なんじゃから火が苦手に決まっておる。そしてガワが壊れればガワの中にいる魂はみな消えるはずじゃて」
ガワ――それは人の魂を取り込んだ海の生き物のことを指す。
「火を? でもヨンドを怒らせたらまずいだろう」
「島を沈められる前に殺せばいいんじゃ」
「ヨンドを……殺す」
ヨンドを殺すということは、この島では神を殺すことと同義だ。次期村長として育てられてきたアキトは事の重大さに言葉を失った。それでもアキトは震える心を押さえつけてお爺に訊ねた。
「そんなことが本当にできるのか。お魚様がどんな力を使うかもわからないのに」
失敗はゆるされない。失敗すればすべてが終わる。
「できるかどうか、こればっかりはわしにもわからん」
大げさなため息をついたお爺は、これまたわざとらしい動作で腕を組んでみせた。
「だがやるしかない。他に道はないんじゃ。違うか?」
「わかった」
アキトの切り替えは早かった。実際、祝言までには時間がない。
「なら俺がこれから黒油を獲りにいってくる。夜なら油畑に来るような奴もいないし」
大量の油が必要となると今すぐ動かなくては間に合わないだろう。だがアキトの提案にお爺が思いがけないことを言い出した。
「黒油はしかるべき場所にたんまりとあるから心配せんでええわ」
「どこに? なんで? そんな話、俺は聞いたことがないぞ」
怪訝そうなアキトをお爺は軽くいなした。
「まあ気にするな。さあ、それじゃあ今後のことについて計画をたてようじゃないか」
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