22. すばらしい海へ
明日には祝言だ。朝、目が覚めた瞬間にトワがまず思ったのはそのことだった。トワが起きた気配に気づくと、魚はトワに巻き付いていた自らの長い体躯を離した。ただ、その後が違った。なぜか魚は人の姿になったのである。
「どうだ。今日はともに島を歩こうではないか」
魚が久しぶりに見せた人の姿に、正直なトワの鼓動が速くなった。畏怖を覚える美しさというのは、前触れもなく、かつ間近では破壊力が強すぎる。早鐘を打つ心の臓をトワはいまいましい思いで手で押さえた。
「ん? どうした?」
「あ。いえ。なんでもありません」
トワは急いで頭を切り替えた。
「ええと。お魚様はそのお姿でも外に行けますか? あの、外はかなり暑いですよ。日の光も強いですし」
「なにも問題ない」
「……そうですか。ではどこか行きたい場所とか見たいものはありますか?」
これに魚は意外な場所を指定した。
「浜へ行きたい。わたしとお前が出会った浜へ」
◇◇◇
トワと人型の魚は朝も早い時間に館を出た。お婆と、今日はカイジが部屋の外に待機していたが、「二人ででかけてくる」と魚が告げれば、何も問い返すこともなく黙って二人を見送った。魚に逆らえる者はここにはいないのである。
この時間帯、ほとんどの男たちは漁へと出かけており、女や子供たちはまだ眠っている。まれにトワと魚が歩く姿に遭遇する者もいるにはいたが、人でありながら人ならざる魚の稀有な外見に誰もが驚きを隠せないでいた。中には逃げるようにその場から去る者もいて、その後ろ姿をトワはさみしく思いながら見送った。
ただ、館から離れれば静かなものだった。空をニジドリが虹色の翼を広げて飛んでいく。柔らかに吹く風は肌をするりとなでていく。オオキビの葉がさわさわと揺れている。そして、今日も朝から暑かった。
この歩きなれた道を、昨日は高槻、今日は人型の魚と歩いていることが、トワには不思議に思えた。しかし、突然魚の嫁になれと言われてからというものの不思議への耐性があがっているようで特に違和感はなかった。それにこうして魚のそばにいるのは嫌いではなかった。昨夜も魚と海で泳ぐ夢を見たトワにとって、今の状況は夢の続きのようでもあった。
だからだろうか。浜に着き魚が本来の姿に戻っても、魚がその長く澄んだ体躯でトワを抱き込んでも驚かなかった。魚はトワを抱きしめ、間近で見つめると、静かに海の中へと入っていった。
そこには夢で見た光景が広がっていた。
寄ってくる幾多の小魚、青く輝く群れの中を魚はトワを抱いて進んでいく。沖へ、沖へと進んでいく。だがトワはちっとも怖くなかった。呼吸もできているし、寒くもない。疲れもない。何より魚がそばにいる。
魚と目が合って、トワはにこっと笑った。それに魚も笑い返した。そんな気がした。
やがて――全方位に一気に視界が広がった。
ゆうゆうと泳ぐ五頭のクジラ。眠るようにたゆたうマンボウ。急ぐマイワシの群れ、後を追うシマダイの群れ。名も知らぬ小魚たち。赤、黄、緑、銀。黒に橙。紫に白。めまいがしそうなほどにあふれかえる色彩の中をトワは魚に抱かれて進んでいく。
海面から降り注ぐ幾多の日の光の筋。ほのかに温かみを感じる海水。ここには幸せがあふれていた。いつまでいても飽きない。ずっとここにいたい。トワの胸に純粋な願いが生まれた。
「愛しい娘」
魚の声がいつになく優しく聞こえた。
「お前はずっとここで暮らせるよ」
◇◇◇
その頃、アキトは洞窟の入り口で竹を削り、弓を作っていた。弓矢があればどこからでも魚に火をつけられる。それに銛以外にも武器が増えれば心理的に心強い。やることが決まれば夜が明けるのを待ちきれず、アキトは熱心に作業に取り組んでいた。弓を作ったら次は矢も何本か作らねばならない。それから矢で火を放つ練習もしなくては。
アキトの気は急いていた。時間がないのにやることが多すぎるせいだ。だが焦りは禁物だ。これは漁ではないのだから。失敗は絶対にゆるされない。失敗すればなにもかも失ってしまう。
「……ふう」
アキトはいったん深く呼吸をした。それから意識して手元の動きを遅くしていった。
「そういえばアキトは弓がうまいんだよね」
アキトの作業を興味深そうに眺めていたヤドカリが、話しかける瞬間を狙っていたかのようにアキトに語りかけた。
「おいら、アキトが弓矢を使っているところを何度か視たことがあるよ」
「そうですね。けっこう自信はあります」
ヤドカリに笑いかけたアキトは、いったん手を止め、少し照れくさそうに頬をかいた。
「実は……トワにニジドリをあげていたんです」
鳥肉はこの島では貴重な珍味だ。だが島の男は魚を獲ることには長けていても、弓矢については不得手とする者の方が多かった。簡単に言えば、空を飛ぶ獲物に矢を命中させることは難しく、かつ、鳥肉はその労力に見合う食料とはみなされていなかったのである。とはいえ、この島でよく見かけるニジドリについては、どれだけ仕留められるかを競うことは娯楽の一種として認知されていた。ありていに言えば暇つぶしだ。
「へえ。そうなんだあ」
「ちなみにニジドリは、トワっていうより、トヨさんが好きなんです。トヨさんは海産物が苦手だから」
「ああ。そういえばそうだね」
「でもトヨさんが喜ぶとトワも喜ぶから。それで」
「ふうん。アキトって、ほんとトワが好きなんだね」
「はい」
笑みを浮かべながら竹を削るアキトには迷いがない。弱りきっていた昨晩とは大違いだ。そんなアキトを見るヤドカリも幸せそうに殻を揺らした。が、何やら思ったようで、ふいにお爺の方へと顔を向けた。
お爺は先ほどから難しそうな顔をして目をつむっていた。胡坐をかく姿は微動だにせず、今現在『視て』いるのだと察せられた。ヤドカリはそんなことをしなくても『視る』ことができるから、こうしてアキトと話していても、お爺と同じ景色を同時に視ることができていた。
魚とトワが海で泳いでいる。魚の長い体躯に包まれたトワは幸せそうな顔をしている。大丈夫なのだろうか――そう思うがヤドカリは何も言えずにいた。目の前にはトワを救うために一心不乱に竹を削るアキトがいて。一方、トワは魚に心をひらき始めているようで。……大丈夫なのだろうか。祝言は――魚を殺す日は明日だというのに。
◇◇◇




