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番外編、私のお嬢様

スタンレイ視点




 未だに彼女がその足で立っていることが、夢ではないかと錯覚することがある。

 明るい陽の下で愛する花々に囲まれ、「スタンレイ」と私に笑顔を向けてくれるその姿が、幻なのではないかと。

 しかしそれは幻影などではない。

 彼女はあの辛い闘病生活を、恐ろしい手術を乗り切った。

 もう、眠りにつく彼女の目が二度と開かないのではないかと恐れることはない。苦しみに耐えきれずに両親やダーナを呼んで泣くその声を聞くことも。

 その事実に、私は未だに涙が出そうな時がある。











 その数年はフローレンスお嬢様にとって怒涛の日々だっただろうが、それは私にとっても同じだった。

 術後、お嬢様は医者も卒倒する速さで回復した。

 その手術を受けなければ数年ももたない様態で、術前以上の状態に持っていける確率すら低い手術で、彼女は見事に医者から今はもう治療は必要ないという言葉と、奇跡という言葉を引き出した。

 彼女の中の爆弾は、手術のおかげでずっとずっと先まで、もしかすると天寿を全うするまで耐えてくれるかもしれない。

 医者の言葉を証明するように、細い細い触れるだけで折れそうだった手足には少しずつ肉がつき始め、青白かったその頬も感情豊かに朱に染まるようになった。

 本来なら十六歳で参加する王都で行われるお披露目会にも、彼女は十八歳で参加することができた。

 少し前までベッドから起き上がることができなかっただなんて、そんなこと誰も信じられないくらいすらりと伸びた背筋と自信に満ちた表情。死神をも打ち倒した奇跡の娘は、年下の少女たちに囲まれながらも、その凛とした美しさを僅かも翳らせることなく周囲の男たちを虜にした。

 領に帰ってからもいくつもの縁談が届き、その中でも彼女の体の手術痕すら受け入れ熱心に求婚してきた男を、旦那様は婚約者に選んだ。

 もちろん慎重に身辺調査をして、彼が女遊びもギャンブルもしない誠実で聡明な男なのかを確認して、最後にお嬢様にも相手の顔写真を見せて、彼女が「素敵な人」と少し恥ずかしそうに笑って、それが決定打となった。

 あちらの両親が心配する子供を産める体なのかを検査し、それに異常がなければ来年、暑さが本格的になる前にお嬢様は王都にいる男の元へ嫁ぐことになる。

 すぐそばで破天荒な言動と咲き誇る花のような笑顔を見ることができなくなるのは寂しいが、その何倍何十倍、何百倍の喜びに私は満ち溢れていた。

 彼女はきっと幸せになれる。その日をどれだけ待ちわびたことか。

 しかしその数ヶ月後。

 彼女の人生と私の人生は、ほぼ同時にグラスをひっくり返したように反転し、真っ逆さまに落ちることになる。

 彼女が子を成せない体であると判明したのは、私を跡取りにするつもりでいると父が旦那様に話をしに来た、そのたった二日前のことだった。

 即刻の破談を覚悟して送った報告に、お嬢様の婚約者はどうにかしてみせると驚きの返信を寄越した。

 弟妹や縁戚から養子を取ろうと粘ってくれていたようだが、彼の両親からの反対が強かったようだ。結局届いたのは、破談の手紙だった。

 旦那様から渡されたそれを、私は呆然と見下ろす。

 この男が最後の望みだった。彼なら、あれほどまでにお嬢様に惚れ込んでいた彼なら、どんなことがあってもお嬢様を幸せにしてくれると思っていた。


「仕方のないことだ。むしろ、よくここまで粘ってくれたと思うよ」


 ソファに座り、組んだ手に額を載せていた旦那様が顔を上げ、力なく言った。

 震える息を呑む。縁談の申し込みはまだいくつも残ってる。しかしそこから最低限の条件にすら満たない男たちを弾いていくと、残るのはお嬢様の父御である旦那様よりも年上の男たちだけだった。

 娘以上に歳の離れた令嬢を後妻として娶る。それがどういう意味なのかもちろん分かっている。愛玩用だ。

 屋敷にやってきてお嬢様を盗み見る年寄りたちの、(ねぶ)るような視線を思い出す。どうやって可愛がるのかなんて、想像するのもおぞましかった。

 手紙を持つ手に力がこもる。ぐしゃりと紙が歪んで、それをそばに立っていた奥方様がそっと私の手から取った。

 呆然と彼女の顔を見下ろす。


「彼が最後の望みでしたものね。私も悔しいわ、スタンレイ」


 お嬢様とよく似た目元を悲しげに伏せて、彼女は手紙を封筒に戻した。

 旦那様が地の底に響くような息を吐く。


「私だってな、フローレンスが可愛くて仕方がない。病弱で手がかかった分、いっとう可愛い。婚家で辛い目にあうくらいなら、手元に残しておきたいんだ」


 彼は何度も額を撫でて、そのまま顔も上げられなくなったようだ。


「だがな、私もいつまでも元気でいるわけではない。もうじき王都にいる長男がここに帰ってきて、いずれ私の跡を継ぐことになる。スタンレイ、お前も知っているだろう。長男の嫁はなかなかに気が強い。私や妻が亡き後、残ったフローレンスを可愛がったりはしないだろう。それこそ、どんな目にあうか分からない。……女ひとりで、生きていける世ではないだろう……」


 奥方様に渡された封筒を、旦那様は手紙の山の一番上へと放った。

 その隣には、後妻にと望む男たちからの手紙が整頓されて置いてある。


「お待ちください……」


 その手紙を、私は手で押さえる。


「あと二ヶ月、いえ、あとひと月で構いません。私に時間をくださいませんか」


 分かっている。二十歳を超えればますます条件が悪くなる。彼女を想っているからこそ、旦那様が焦る理由も分かる。

 そして私にももう時間がない。

 気が狂いそうだった。

 まだアーリス商会を背負うという現実すら受け入れられていない。一生を捧げると誓った主人の元を離れ、幸せになってほしいと願い続けたお嬢様の婚約も、振り出しどころかそれ以下だ。

 そんな状態でたったひとりここを離れ、アーリスを継がなければならないなんて。


「……分かった。何人か人をやるから、それを使え」

「ありがとうございます」


 頭を下げながら、すぐに脳内で予定を組み立てる。

 南部にまだ手を出していない旦那様の遠い縁戚がいたはずだ。アーリス商会の支社長を務めるものは爵位は持たずとも上流階級の資産家も多い。次期社長権限でその辺りも探ってみよう。隣国にまで手を伸ばすのは、ひと月では到底足りない。

 とにかく時間との勝負だと顔を上げる。そんな私を止めたのは旦那様だった。


「お前は本当に、フローレンスをよく思ってくれているな」


 彼は少しほつれた髪を撫でつけ、疲れ切った笑顔を見せた。


「お前が貰ってくれたら一番だな」


 冗談めかしたその言葉に、目を丸くする。

 少しの間見つめ合って、彼の「冗談だからな?」という言葉にゆっくりと首を横に振った。

 全く思いつきもしなかった。

 もし。

 もし、お嬢様がアーリス家に嫁げば。

 顔を上げ、震える唇を開く。


「恐れながら、閣下」

「……スタンレイ」

「アーリス家なら、お嬢様に不自由な暮らしはさせません。私がアーリス商会を継げば、お嬢様の体に万が一のことがあったとしても、ここで受けていたものと同じ水準の医療を施して差し上げることができます。私なら……お嬢様がどういう時に体調を崩されるのか分かります。私なら……!」

「スタンレイ、座れ」


 冷静な声でそう言って、旦那様は向かいのソファを指さした。

 この執務室で、客用のソファに座ったことはない。商家の嫡男としての私と話がしたいと、そう思ってくれているのだろう。

 頭を下げて、ソファに浅く腰を下ろす。


「お前が結婚をせずに、私に一生を尽くすつもりでいてくれたことは知っている」

「はい」

「しかしな、お前の人生には転機が訪れた。お前には妻を娶り、そして我が子に囲まれて過ごすという人生を選ぶ権利ができた」

「それは誰かにとってのかけがえのない幸せかもしれませんが、私にとっての幸せではありません」


 彼女の人柄、その弱さ、そしてそれ以上の強さに魅了され、ずっとそばで見守ってきた。

 ただただ辛かった十九年間は、これからの人生全てが幸せでないと釣り合わない。

 彼女は幸せになるべき人だ。

 そしてもし私が彼女を幸せにすることができるのなら。


「……もし」


 顔を上げる。そう呟いたのは奥方様だった。


「もし、スタンレイ……あなたが、あの子のそばにいてくれたら」

「マーリーン」


 遮るように旦那様に名を呼ばれ、奥方様は口元を手で覆う。その頬を涙が流れ落ち、彼女は顔を覆って俯いてしまった。

 思わず立ち上がろうとしたのを、旦那様が手のひらで止める。彼女の手を引いてその肩を抱きながら、旦那様はもう一度私を見据えた。


「少し考える時間を作ろう」

「……承知いたしました。一晩考えます」

「一ヶ月だ」


 長過ぎる。その間、お嬢様は不安と絶望で俯いたままだろう。表情で不満を示したが、彼は首を横に振った。


「一ヶ月考えて、それでもお前の考えが変わらないのなら、もう一度話をしよう。それまで他の縁談は保留にしておく」

「……かしこまりました」


 立ち上がって、もう一度深く頭を下げる。踵を返そうとした背中に「スタンレイ」と旦那様の声がかけられた。


「私たちを見ていたら分かるだろう? 子は……血を分けた子供というのは、それはもう可愛くて愛しいものだ」


 もちろん、よく分かっている。十年も彼らのそばにいて、どんなふうに彼らが我が子を愛し慈しんできたのか、よく知っている。


「私たちは、十年も尽くしてくれたお前自身の幸せも願っているよ」


 まだ顔を覆ったまま俯いている奥方様が、その言葉に何度も大きく頷く。言葉に詰まって、感謝の気持ちを伝えるために胸に手を当て頭を下げた。


「……ありがとうございます。一ヶ月、よくよく考えます」


 顔を上げて、扉を開く。


「失礼します」


 閉じかけた扉の隙間から、ソファに泣き崩れる奥方様と彼女をそっと胸に抱き寄せる旦那様が見えた。











 病気が発覚し婚約が破談になってから、お嬢様はずっと俯いて口数も少ない。最近は食欲も落ちてきているらしい。何でもいいから少しでも口に入れてほしいと、せっせと彼女の元に通っては好物の焼き菓子を進め、その気を紛らわせる。

 できる限りお嬢様のそばに付き添い、引き継ぎのための書類を制作し、通常の業務も行う。

 それと同時に、跡取りの必要ない貴族との縁談も諦めずに進める。アーリス家よりも条件のいい家があれば、もちろんそちらの方がいいからだ。

 寝る暇もないくらいだったが、結果は芳しくない。

 財力のない男、女癖の悪い男など論外だ。愛妾としてなら養ってやるなんていう馬鹿げた返信を破って丸めて暖炉に投げ捨てて、窓の外を見るともう東の空は白んでいた。

 仮眠をとって、その日の仕事を開始する。

 昼過ぎに休憩をもらえることになり、昼食片手に使用人通路を進み、キッチンで保存しておいてもらった菓子を受け取った。一昨日街へ出た時にお嬢様へと買ったものだ。彼女はこの時間なら温室にいるだろう。

 予想通り温室のベンチでぼんやり空を見上げていたお嬢様に土産を渡す。彼女は最初はあまり乗り気ではなかったようだが、開封してくれたアイシェがこれはものすごく人気のお菓子でなかなか手に入らないと騒いでくれたおかげで、少し興味をもってくれたようだ。

 果物のジュレの入ったチョコレートをひとつ摘まむと、手が止まらなくなったらしい。アイシェにもひとつこっそり分けてやり、美味しそうに頬張るお嬢様をにこにこと見下ろしていると、ふと目が合った。


「あなたは食べないの?」

「ではひとつだけ」


 差し出された箱から一粒摘まむ。確かにアイシェが騒ぐのも理解できるくらい美味い。

 ハンカチで口元を拭っていると、じっと見上げる視線に気付いた。小首を傾げた私の顔に、お嬢様は手を伸ばす。

 何に触れようとしているのか分からないが腰を折ってされるがままになると、彼女は目の下、くっきりと色のついた隈を指でつついた。


「酷いことになってる」

「最低限の睡眠時間は確保していますよ」


 死なない程度の、と心の中で付け足す。


「あなたも大変なのね」

「それほどではありませんよ」

「嘘」


 前髪を払って私の頬を引っ張るように軽く摘まんで、お嬢様はもう一粒チョコレートを私の口の中に押し込む。

 そして俯いてしまった。


「何が大変なのか聞いても教えてくれないんでしょうけど……まあ、どうにかできるんでしょ、あなたなら」


 いつもの励ましに、今日はどこか自暴自棄な響きが含まれている。


「無理はしてほしくないけど、でも今までなんだかんだ上手くやってきたんだから、大丈夫よ」


 その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。『あなたこそ奇跡を起こしたのだから、これからふたつみっつ奇跡を起こすくらいどうってことないでしょう?』

 唇を噛む。何も教えられていない彼女に、今はまだ下手な慰めは残酷だ。


「そうですね。どうにかしてみますよ、必ず」


 自信を持って言い切った言葉に、お嬢様は私を見上げる。

 必ず幸せにしてみせる。もう少しだけ待っていてほしい。

 にこりと笑いかけると、釣られたのかその表情が緩む。彼女は眉尻を垂らして笑って、そして耐えきれなかったように破顔した。久しぶりに見たその笑顔に力が沸き立つ。そうだ。この顔を守りたかった。

 それからも、電話で、手紙で、近隣なら直接赴いて、彼女の幸せを必死に探す。

 いい返事なんてひとつもなかったが、それでも諦めない。ただ、タイムリミットだけはどう頑張っても避けることはできなかった。

 一ヶ月目の朝だ。

 ベッドに座り、まだ薄暗い窓の外をぼんやり眺める。

 どれだけ考えても、今お嬢様の目の前にある縁談で、彼女が自由に、そして安心して暮らせるのはアーリス家との縁談だけだった。

 本当にそれでいいのか。一ヶ月間自問自答し続けた言葉をまた繰り返す。本当にこれが、彼女にとっての最善なのか。

 その時、「まあ、どうにかなるでしょう」と、そんなお嬢様の声が聞こえた気がした。

「あれもこれも神様って人の思し召し、運命なんでしょ?」「大丈夫よスタンレイ、大丈夫」「何とかなる、死にはしないわ」

 これまで幾度となくお嬢様から受けた励ましが、脳内で鮮明に蘇って思わず笑みをこぼす。

 子を成せないお嬢様、子を必要とされない私。たった二日違いで、その運命が重なってしまった。


「人生なんて、なるようになる……」


 自分に言い聞かせるように声に出してみる。


「……なんとかなる」


 その気持ちを、旦那様と奥方様に伝える。ふたりは顔を合わせて頷きあって、それから真っ直ぐに私を見つめた。


「分かった。アーリス家との縁談を進めよう」

「はい」

「まずはお前の父親と話をつける。連絡をとってくれ」

「かしこまりました」


 実家へ連絡をすると、父はすぐにこちらへ来れるよう手配してくれた。

 断ることはないだろう。渋るふりをして優位に立とうとすることはあるかもしれないが、商売人にとって権力者との繋がりは喉から手が出るほど欲しいものだ。

 案の定父は様々な交渉を有利に運ぼうとする態度をとったが、彼の後ろではなく旦那様の後ろに立った私を見て、早々にそれを諦めたようだった。

 こうして、伯爵家とアーリス家の縁談は極々対等に結ばれることになった。

 これでいい。

 これでお嬢様は、何不自由なく過ごせるはずだ。

 今まで通り花に囲まれ笑っていられる。商業地区では何でも手に入るし、体調を崩せば最新の医療を受けることができる。

 何の心配もない。これまで辛かった分、穏やかに過ごせるはずだ。

 そのはずだ。

 そう、思っていたのに。


「私……あなたと結婚したくない」


 婚約を告げられた彼女の口から漏れたのは、そんな言葉だった。

 ざっと、体中の血が足へ向かって落ちていったのが分かった。なぜ、とそれは言葉にならない。

 俯いてしまった顔を見つめる。

 彼女の幸せを願っていたつもりだったのに。

 もしかするとそれは、独りよがりな思いだったのか。


「だって、私、子供が産めないのよ。私と結婚するなんて、あなたが可哀想……」


 今にも泣きそうな顔で、お嬢様は体を縮めてしまった。

 結婚したくないというその言葉は、何よりも私を気遣ってのものだった。

 子供、それは幸せと繁栄の象徴だ。貴族も平民も関係なく、ほとんどの人間がその誕生を喜び合う。

 でも違う。どうしたら彼女に伝わるのか。

 あなたにそんな顔をさせてしまうのなら、子供なんていらないのに、と。


「私、あなたのことが大好きよ。だから、あなたに不幸な結婚をさせたくない」

「お嬢様が幸せなら、私も幸せですよ」


 これまで何度も繰り返してきた言葉だった。何度も何度も。

 彼女なら私のその言葉を、信じてくれるはずだ。信じてくれたのだろう。

 ふたりは、もうすぐ婚約する男女、という関係になった。

 そうはいっても互いの距離感も接し方も変わっていないが、視線が合わないことが時々あることには気付いていた。

 彼女なりに思うことがあるのだろう。

 それに気付いていないふりをして、日々過酷になる業務をこなす。何日もお嬢様とまともに話をしていないと、頭の中が彼女のことでいっぱいになる。

 きちんと食べているだろうか。何か悩んでいないだろうか。またいたずらをしでかしてダーナを困らせていないだろうか。体調を崩したりしていないだろうか。

 ようやく時間が取れ――旦那様に無理やり取らされ――ダーナと約束をしていたダンスの練習のためにお嬢様の元へ急ぐ。

 彼女は私の顔を見てぱっと顔をほころばせて、ダンスの練習と聞いてがっかり肩を落として、しかしその様子は普段と変わりないように見えた。

 それなのにダーナの手拍子で踊るワルツは、これまでに比べて酷い出来だった。

 ステップを踏みながら彼女の顔を覗き込む。それはどういう表情だろう。焦っているような、動揺しているような。

 無理やり休憩に入りダーナに温かい飲み物を頼み、いつもと様子の違う彼女を注意深く見る。

 大きな環境の変化がある時は、お嬢様は体調を崩しやすい。彼女は大丈夫だと言っているが、本人が気付かない小さな不調が始まっているのかもしれない。

 水を数口飲んで、視線を感じてお嬢様を見下ろす。その目には微かな不安が宿っていた。


「……ねえスタンレイ」

「はい」


 少し緊張した面持ちで、彼女は何度か言葉を飲み込んだあと口を開いた。


「私と、キスするの?」


 目を見開く。

 それは、ダンスに誘う際に手の甲に口付けをする、その行為を言っているのだろうか。

 いや、きっと違う。

 首を竦めて耳までほんのり赤くしながら、彼女は続ける。


「だって、夫婦になったらキスをしたりするんでしょう? 私と結婚したら、あなた、私にキスするの?」


 どうやら彼女は、夫婦になったあとの話をしているらしい。彼女がアーリス家に嫁いだあとの、そう、私の妻になったあとの。

 何度も瞬きをする。

 それは。

 そんなこと。

 もちろん、するに決まっている。

 夫婦になるのだ。夫婦というものはそういうものだと認識している。

 これでも人間の男としての欲はある。結婚をすれば、この方が私の妻になれば、その唇にキスをするのだろう。

 その、柔らかそうな唇に。

 じっと見つめて、そして全身から冷や汗が噴き出したのが分かった。

 駄目だ。これ以上は駄目だ。

 今、何を想像しかけた。それは今は許されることではない。

 この話題は早急に終わらせなければならない。誤魔化すように笑顔を作る。


「どうなさったのですか? そんなことを聞いて……」


 いつものようにうまく笑えているだろうか。この動揺を悟られてはいないだろうか。

 質問から逃げようとしていることに気付いたのだろう。彼女は唇を尖らせて拗ねて見せて、それから少し俯いた。


「もしかしたらあなたは、仕事の延長線上だとか、父様への恩返しで私と結婚をするつもりなのかなと思って。私は子供を産めないから、その、キスとか……そういうことは、必要ないでしょう?」


 最後の方は消え入りそうな小さな声で、言い終わって彼女は完全に俯いてしまった。


「この結婚があなたの仕事でしかないのなら、私もそのつもりでいるから、だから」

「しますよ、キス」


 少し怒った声が出た。いや、実際に怒っている。彼女は体を震わせて私を見上げて、少し怯えた表情を見せた。

 仕事、恩返し。そんなつもりは全くなかった。

 ただ笑っていて欲しくて、ただ何の不安もない生活を送ってほしくて。

 ただ、あなたを幸せに。


「お嬢様が私の妻になったら、唇にキスをするし」


 ベンチに手をつく。顔が近付いて、彼女は全身を凍りつかせる。


「同じベッドで寝ますよ。夫婦になるのですから」


 その唇を奪い、白い首筋にキスをして、その華奢な体に触れ。そして。

 腹の奥底から醜い欲が沸き起こる。

 この人が、妻になれば。


「そ、う……」


 震えたその声に我に返る。

 怯えさせるつもりはなかった。体の中にある欲を見られないように目を逸らす。


「しかし今はまだ、私はチェンバレン伯爵閣下の従僕です。主のご息女に不埒な目を向けるなど言語道断。あまり私をお試しになりませんよう」


 これが彼女のいつものお遊びなら、少したちが悪い。

 しかし彼女は慌てたように首を横に振った。


「違うの。試したわけでも、からかったわけでもないのよ」


 もごもごと口を動かして、しかし彼女は言葉を見つけられなかったらしい。

 私が握り締めたままだったグラスを奪い取って、中身を一気に飲み干した。

 手の中に戻されたそのグラスに薄っすらついた赤い紅でさえ、今は私の心を搔き乱し混乱させる。


「だってあなた、ずっと平気そうな顔をしているから。私は、何だか意識してしまって、普通でいられないのに」

「……意識?」

「あなたと結婚すると決まってから、何だかあなたのそばにいたら緊張するの。私はこんなことになっているのに、あなたは全然変わらなくて……だから……あなたは私のこと、全く女として見ていないんだなって」


 確かに見ていなかった。彼女は幼くか弱い、守るべき人だった。過去形だ。過去形になってしまった。


「ああもう、私ばっかり照れて……今までこんな風になんてならなかったのに」


 彼女は耳まで赤くなった顔を拗ねたように背けて、落ち着きなく顔や髪に触れた。

 その横顔に、変化し始めたその表情に、ただただ困惑する。

 声をかけ損ねる。何と言えばいいのかわからない。

 そんな時、メイドを連れたダーナが帰ってきてくれた。ほっと彼女の顔が緩んだのが分かった。


「やめましょう、スタンレイ。この話はもう終わり、忘れて」


 忘れてだなんて、簡単に言ってくれるものだ。

 気付きたくなかった。

 お嬢様はアーリスに嫁ぐ。アーリスの私の元に。そう、私の妻に。そんな当たり前のことに気付きたくなんてなかった。

 私の小さくて華奢でか弱いお嬢様は、いつの間にこんなにも身長が伸びたのだろう。いつの間にこんなに柔らかで女性的な体つきになっていたのだろう。いつの間にこんなに、大人びた表情をするようになったのだろう。

 水色の丸い瞳が私を見つめる。

 少し拗ねて、気まずそうで、しかし私を真っ直ぐ見つめる彼女に手を差し出す。

 重ねられた彼女の手がひやりと冷たく感じたのは、おそらくこの手が熱く汗ばんでいるからだ。

 ぎゅっと握り締めてきた柔らかな手に体が跳ねそうになった。それを誤魔化すために、私は何ともないという顔をしながら、彼女の手を強く握り返した。






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