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潮待ちのレール ― 冬灯の坂 ―  作者: たむ


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第五章 澄江の上り坂

 冬の上り坂には、手に持っているものより、持って帰っているもののほうが重く出ることがある。


 魚の包み。

 味噌。

 乾物。

 野菜。

 市場から宿へ戻る人の手には、たしかにそうした荷がある。

 だが春口の坂を見ていると、ときどきそれだけでは説明のつかない重さが足に出る。

 外で見た顔。

 港で聞いた短い会話。

 夜の名残。

 橋の向こうで少し遅れた気持ち。

 そうした目に見えないものもまた、人はちゃんと持って上ってくるのだろう。

 澄江は、そういう上り坂の人だったのかもしれないと、第九作のここまで来て湊は強く思い始めていた。


 朝食のあと、汐里は帳場の奥からもう一冊、薄い記録帳を持ってきた。

 澄江の買い出し控えの続きらしい。

 前回見た「橋の向こうで少し遅れる」という文より、さらに日々の細部が多い。


「これ」

 汐里が言う。

「市場へ行く日だけじゃなくて」

「ええ」

「戻ってきたあとのことまで少し書いてあるんです」

「どんな」

 帳面を受け取ると、仕入れの品目の横や欄外に、小さくこうあった。


 ――坂の途中で包みを持ち替える。

 ――重いからではなく、考えごとを切るため。

 ――港のことを持ったまま帳場へ入ると、声がずれる。

 ――息を一度深くしてから戸を開ける。

 ――上り坂は、帰るためというより、宿へ戻る顔を整える時間かもしれない。


「すごいですね」

 湊が思わず言う。

「母」

 汐里も低く繰り返した。

「かなり分かってたんですね」

「ええ。しかも、かなり身体で」

「“包みを持ち替える”って」

「……」

「それだけで、もう一つの橋みたいです」

「橋」

「ええ。気持ちを切るための、小さな所作として」


 その一文で、第八作の橋と第九作の坂が深いところでつながった。

 橋は、時間を渡す場所だった。

 坂では、その渡った時間を身体に引き受ける。

 そして澄江は、包みを持ち替えるというごく小さな所作で、さらにもう一度気持ちを切っていたのだろう。

 港のことを持ったまま帳場へ入ると、声がずれる。

 その感覚があまりにも具体で、澄江の一日が急に手触りを持つ。


「相沢さん」

 汐里が帳面をのぞき込みながら言う。

「はい」

「母って、ずっと“宿の人”になる努力をしていたのかもしれませんね」

「どういう意味で」

「自然にできていたんじゃなくて」

「ええ」

「市場や港や橋で持ってきたものを、一回ずつ整え直してから帳場に立っていた」

「……」

「だからあんなに静かだった」

「そうですね」

「最初から静かな人だったというより」

「静かになるための上り坂を持っていた」

「はい」


 その理解は、澄江という人物をまた少し更新した。

 第四作では、澄江は静かな宿の主だった。

 だが第九作まで来ると、その静けさは性格ではなく、日々の上り坂と小さな所作によってようやく整えられたものとして見えてくる。

 それは、とても人間的だった。

 疲れも、迷いも、港のことも、外で見たものも、そのままでは帳場へ入れない。

 だから坂の途中で包みを持ち替え、息を深くして、宿へ戻る顔を作る。

 そういう一日の技術として、澄江の静けさはあったのだろう。


 昼前、汐里は実際に市場へ行くというので、湊も付き添った。

 今日は冬の空が高く、光はあるが気温は上がらない。

 橋を渡り、市場へ入る。

 第八作で見たように、市場の朝はもう迷っていられない側の朝だった。

 だが今は、第九作の視線が加わっている。

 ここで見たこと、聞いたこと、持ったものを、人はこのあと坂で宿へ運ぶのだ。

 市場と宿のあいだは、物だけではなく、気配の往復でもできているのだろう。


 魚屋で包みを受け取り、乾物屋で小さな袋を受け取り、最後に味噌屋の前で汐里は少しだけ足を止めた。

 何を迷っているのかと思ったが、そうではなかった。

 持っていた包みを、左手から右手へ静かに持ち替えただけだった。

 その瞬間、湊は思わず笑いそうになるのを堪えた。

 澄江と同じことを、彼女はすでに自然に始めているのだ。


「今」

 市場を出てから、湊が言う。

「はい」

「持ち替えましたね」

 汐里は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。

「やっぱり見てましたか」

「ええ」

「重かったので」

「だけですか」

「……それだけでもないかもしれません」

「どういう」

「市場の中で、少し頭が散るんです」

「魚屋さんの声とか」

「ええ。あと、今日は橋のことも考えていたし」

「はい」

「そのまま宿へ戻ると、うまく帳場に入れない気がして」

「だから持ち替えた」

「たぶん」


 その“たぶん”の言い方が、いかにも春口らしかった。

 人は、自分の小さな所作の意味をいつも明確に説明できるわけではない。

 だが、身体は先に知っている。

 包みを持ち替える。

 息を深くする。

 一度だけ振り返る。

 そうしたことで、自分の中の時間を少しずつ宿や家や帳場へ合わせていく。

 第九作は、そういう身体の知恵を描く巻なのだろう。


 橋を渡り、宿へ戻る坂に入る。

 冬の上りは、やはりきちんと重い。

 荷を持つと、それがよく分かる。

 だがその重さの中には、物理的な荷だけでなく、外の空気や会話や小さな疲れも混ざっている。

 汐里は歩幅を変えずに上っていたが、灯りの見えるあたりで一度だけ息を深くした。

 それもまた、澄江の記述そのものだった。


「今も」

 湊が言う。

「ええ」

「一度だけ深く息をしましたね」

「しましたか」

「はい」

「無意識です」

「でも」

「でも?」

「それがたぶん、お母さんの言う“宿へ戻る顔を整える”なんでしょうね」

「……」

 汐里は少し黙ってから、ゆっくり頷いた。

「そうかもしれません」

「港のことを持ったまま帳場へ入ると、声がずれる」

「ええ」

「その感じ、少し分かります」

「どういう意味で」

「外で見たものがまだ近いと、宿の中の声の高さにすぐ戻れないんです」

「……」

「だから坂が要る」

「はい」

「橋も要るし、坂も要る」

「そうですね」


 そのとき、坂の途中の家の二階窓が少しだけ開き、藤堂が顔を出した。

 こちらを見て、小さく手を上げる。

 それだけだ。

 だが、その“見ている”という事実が、春口の町らしく感じられた。

 誰かが見ている。

 止まりそうで止まらない上りも、包みを持ち替える手も、灯りの手前で深くなる息も。

 だから人は、完全には一人の勾配にはならないのかもしれなかった。


「見られてますね」

 汐里が少し笑う。

「ええ」

「でも、嫌じゃない」

「そうですね」

「母も、こういうふうに見られながら坂を上ったんでしょうか」

「たぶん」

 湊は答える。

「それでよかったんだと思います」

「どうして」

「宿だけが受け止めるんじゃなくて」

「ええ」

「町の途中でも、ちゃんと“春口の人”として見られていたから」

「……」

「澄江さんも、町の中にいた」

「そうですね」

 汐里は静かに頷いた。


 その言葉は、澄江をさらに宿の外へ出した。

 澄江は帳場の人であり、港の灯りの人であり、橋を渡る人であり、そして坂の途中で息を整える町の人でもあったのだ。

 そこまで見えると、彼女はもはや“物語の鍵”ではなく、本当に春口で冬を生きていた一人の女性として立ち上がってくる。


 宿へ戻ると、汐里は玄関で一度だけ荷を持ち直し、それから帳場の前へ入った。

 声をかける高さも、たしかに市場の中の声とは少し違う。

 高すぎず、低すぎず、夜の宿の灯りとも朝の市場とも別の、宿の昼の声だった。

 その調整が、いまは目に見えるような気がした。

 春口では、人は場所ごとに声まで少しずつ変えながら生きているのかもしれない。


 午後、湊は一人でノートを開き、第九作のここまでの中心がどこにあるかを考えていた。

 父の息。

 澄江の上り坂。

 坂の途中の窓。

 それらはすべて、“生活へ戻るための身体の作業”という一点へ集まりつつあるように思えた。

 大きな出来事のあとを生きるとは、理解や納得のことではないのだろう。

 上る。

 持ち替える。

 深く息をする。

 声を整える。

 そういうことの積み重ねなのだ。


 夜、ノートにはこう書いた。


 ――澄江の静けさは、生まれつきのものというより、坂の途中で包みを持ち替え、息を整え、宿へ戻る顔を作ることで毎日つくられていたのかもしれない。

 ――春口の上り坂は、人が外で見たものをそのまま帳場へ持ち込まないための時間でもある。

 ――父の息も、澄江の息も、その坂の途中で少し変わったのだろう。

 ――第九作では、人の過去が身体の作業として見え始めている。


 書き終えたあと、帳場のほうから、汐里が客に応じる声が聞こえた。

 澄江に似ている。

 けれど、もう汐里自身の声でもある。

 第九作は、ここからさらに“坂の途中で人が止まりやすい場所”へ進んでいく。

 上りきる前に一度だけ立ち止まる、あの場所の意味が、次には見えてくるのだろうと湊は思った。

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