第一章 磨けば売れる
第一章 磨けば売れる
炊飯器が鳴るより先に、三浦航平は目を覚ました。
隣の布団から、小さな足が一本はみ出している。陽太の足だった。昨夜はちゃんと縦に寝ていたはずなのに、今はほとんど横向きになっていた。
その向こうで、小春が布団を抱えて眠っている。
航平は自分の腹から陽太の足を下ろし、そっと立ち上がった。
台所には、母の真紀がいた。仕事に出る支度を済ませ、卵焼きを切っている。
「おはよう。まだ寝ててええのに」
「起きてもうた。父さんは?」
「さっき出た。あんたのお弁当、もうできるで」
航平は食器棚から茶碗を出した。
「今日、帰り遅い?」
「六時半くらいかな。あんた、バイトは?」
「五時から。小春ら帰ってきたら、おやつ出してから行くわ」
「助かる。晩ご飯は昨日のカレーあるから、温めるだけでええよ」
母が弁当箱に蓋をした。
「文化祭のプリント、冷蔵庫に貼っといてな。休み取れるか聞いてみるから」
「まだ先やで」
「先やから聞けるんやろ」
それはそうだった。
母を送り出し、双子を起こした。小春はすぐに起きたが、陽太は「もう起きてる」と言ったまま目を閉じていた。
「起きてる人は立てます」
「足が寝てる」
「ほな、足も起こして」
朝食を食べさせ、ランドセルの中を確認する。陽太の筆箱に消しゴムがなかったので探すと、本人のパジャマのポケットから出てきた。
なぜそんなところに入れたのか聞きたいところだったが、時計を見てやめた。
双子を送り出してから、航平も家を出た。
*
その日の日本史の授業は、学校の近くにある遺跡の見学だった。
昼前の日差しの下、航平たちは整備された道を歩いた。先生が説明板の前で立ち止まる。
昔、この辺りには大きな集落があったらしい。
どんな家に住んでいたか。どんな道具を使っていたか。説明を聞きながら、航平は広い芝生を眺めた。
「三浦、眠そうやな」
隣の級友が小声で言った。
「眠い」
「昨日もバイト?」
「うん」
「今日も?」
「うん」
「よう働くなあ」
航平は曖昧に笑った。
働けるなら、もう少し働いてもよかった。
高校を辞めたら、と口にしたことはある。父にも母にも反対された。高校までは出なさい。それは二人とも同じだった。
それなら通うしかない。通う以上、勉強もしなければもったいない。
昨夜、机に向かっていたら、陽太が算数のプリントを持ってきた。自分の課題の横で、十までの足し算を一緒に数えた。
あれは眠かった。
先生の説明が終わり、一行が歩き始める。
航平も続こうとして、道の端に落ちているものに気づいた。
最初は小さな石に見えた。
土のついたそれは、片側が丸く膨らみ、反対側が細く曲がっている。丸い側には穴があった。
拾い上げ、指で土を払った。
勾玉。
教科書で見たものと似ていた。
本物だろうか。それとも、誰かが落とした土産物か。
緑がかった表面はくすんでいたが、日に当てると少し艶が見えた。
磨いたら、売れるんちゃうか。
航平はもう一度、石をひっくり返した。
丸い部分に細い線が入っている。傷かもしれない。けれど、形はちゃんとしていた。
「三浦、置いてくで」
先ほどの級友に呼ばれた。
「今行く」
航平は勾玉を制服のポケットへ入れ、小走りで追いついた。
*
帰宅した航平を、小春が玄関まで迎えに来た。
「兄ちゃん、陽太が牛乳こぼした」
「拭いた?」
「拭いた。ほんで、靴下で踏んだ」
居間から陽太が出てきた。片足だけ裸足だった。
航平は鞄を置いた。
「まず靴下、洗濯かご。床、もう一回拭こか」
床を拭き、おやつを出し、双子が持ち帰ったプリントを確認した。母への連絡を書いた紙をテーブルに置いて、バイトへ向かう。
勾玉のことを思い出したのは、夜になってからだった。
家族で夕飯を食べ、風呂を済ませたあと、制服のポケットから取り出した。
「何それ」
父が尋ねた。
「今日、落ちてた。石」
「変わった形やな」
父はそう言って、洗った食器を棚に戻した。
航平は台所で勾玉を水洗いした。土が落ちると、思っていたよりきれいだった。
売れたら、牛乳と卵くらい買えるだろうか。
自分の机へ持っていき、古いタオルで水気を拭いた。
もう少し光れば、値段も上がるかもしれない。
丸い部分を、タオルで何度かこすった。
「……あの」
すぐそばで声がした。
「小春、もう寝る時間――」
顔を上げた航平は、言葉を止めた。
机の横に、女が立っていた。
見たことのない服を着ている。ゆったりした袖から両手を少しだけ出し、落ち着かない様子で重ねていた。
母ではない。
もちろん、小春でもない。
航平は椅子に座ったまま、女を見た。
窓は閉まっている。部屋の入口も、航平の座る場所から見える。誰も入ってきた覚えはなかった。
女と目が合った。
女のほうが、びくりと肩を揺らした。
「す、すみません」
航平は女から目を離さず、廊下へ声をかけた。
「母ちゃん、不審者おんねんけどー」
「えっ、何て?」
「知らん人、俺の部屋におる」
ばたばたと足音が近づいた。
「不審者どこや!」
母が部屋の入口に現れた。片手にハンガーを握っている。
女が身を縮めた。
航平はその女を指さした。
「ここ」
母が指の先を見た。
続いて航平を見た。
もう一度、指の先を見た。
「……誰もおらんやん」
「おるやん。ここに」
女は母と航平を交互に見て、袖の中へ両手を引っ込めた。
母はハンガーを下ろした。
「なんや、航平。エイプリルフールはとうに過ぎてんで。それに、その嘘はセンスないわ〜」
「いや、嘘ちゃうねんけど」
「こっちは洗濯物片づけてんねん。びっくりさせんといて」
母はハンガーを持ったまま、居間へ戻っていった。
航平はしばらく入口を見ていた。
それから、まだ机の横にいる女を見た。
航平は女に向き直った。
「……母ちゃんには、あんた見えてへんの?」
「……分かりません」
「あんた、何なん」
女は困ったように口を結んだ。
しばらく待つと、ようやく小さな声が返ってきた。
「卑弥呼、と申します」
航平は黙った。
教科書の女王が頭に浮かぶ。
それから、目の前の女を見た。
女はもう、床を見ていた。
「卑弥呼って、あの?」
「あの卑弥呼かと言われますと、あなたの卑弥呼と私の卑弥呼が同一であるかは分かりかねます」
「邪馬台国の卑弥呼?」
「ええと、多分。弟が国の名前は邪馬台国と言ってましたので、そこの卑弥呼で間違いはないかと」
机の上の勾玉に、航平は視線を落とした。
女もそれを見た。
「そちら、私の……」
航平は勾玉を持ち上げた。
「ほな、これ本物なん?」
女が小さくうなずく。
航平は細いヒビを眺め、もう一度ひっくり返した。
「……売れるかな」
女が、初めてまともに航平の顔を見た。




