小料理屋『桔梗』の約束(後日談)
第五幕:
新聞報道から数日後。
雨のあがった川崎の夜。
工場の煙突から上がる炎が、遠くの夜空を静かに、しかし確かに焦がしている。
下町の喧騒から少し離れた路地裏に、ぽっと温かい光を灯す、小さな看板があった。
そこには、楷書体で『小料理屋 桔梗』の文字。
暖簾をくぐると、磨き上げられた白木のカウンターの奥から、出汁の芳醇な香りが漂ってくる。
「お待たせいたしました。淡路の鱧でございます。今が一番、脂が乗って美味い時期でしてね」
白衣の襟を正し、無骨な手で差し出したのは、見事な職人技で一寸の狂いもなく細かく骨切りされた、透き通るような鱧の身だった。
この店の若きご亭主は、京都の名門『ウェスティン都ホテル京都』の日本料理で死ぬ気で修行を積んだ、筋金入りの頑張り屋だった。
あえて華やかな京都に残らず、「俺は、川崎の泥臭い下町で、油にまみれて日本の成長を支えてきた職人たちにこそ、本物の鱧しゃぶを食べてほしいんだ」と実家を継いだ男である。
カウンターの端には、マツエがどっかと座り、ビールを煽っていた。
「ちょっと、大将。
あんた相変わらずいい腕してるわねえ。
ウェスティンで揉まれただけはあるわよ。
私の知り合いで、あんたが一番の頑張り屋さんだよ、本当に」
「へえ、マツエさん、ありがとうございます。そう言ってもらえると修行した甲斐があります」
ご亭主は照れくさそうに笑いながら、新しく入ってきた二人組の客に深く頭を下げた。
入ってきたのは、アカネと、その正面に座る一人の人物―
あの日、3年前にアカネ
「そんなうまい話はない」
「成田に実体はない」
と、シンプルな言葉で地上に引き留めてくれた、かけがえのない『友人 ノゾミ』だった。
「すごいね……川崎に、こんな綺麗な日本料理屋があったんだ」
友人は、目の前の鱧の美しさに、少しだけ気後れしたように微笑んだ。
「いいから、食べなよ。
ここの鱧しゃぶ、お父さんが、大きな仕事をやり遂げたときに、よくお母さんを連れてきてたお店なの」
アカネは、いつもの商社パーソンとしての鋭いマシーンのような顔を完全に消し去り、少しだけ悪戯っぽく、しかし心からの優しい笑みを浮かべて、鍋の出汁に鱧の身をさっとくぐらせた。
出汁の中で、親指ほどの鱧の身がパッと、まるで白い牡丹の花のように鮮やかに開く。
「ほら、熱いうちに」
アカネは、友人の小皿にそれを取り分けてあげた。
友人がそれを口に運び、
「うわ、美味しい……! 骨が全然当たらない。すごいな、これ」と目を輝かせる。
その湯気の向こう側で、アカネは、自分の前に置かれた冷たい冷酒のグラスをそっと見つめた。
「あのね、今日あんたをここに連れてきたのはさ、ずっと言わなきゃいけないことがあったから」
「え? 何? 改まって」
「3年前、私がヴィヴィアンのバッグをネットショップで買って、3万8千円騙し取られたの、覚えてる?」
「あ、あったね! あんたが珍しく、ものすごく悔しがって、三井住友銀行の窓口に怒鳴り込んだやつでしょ? 結局、口座に1万円しか残ってなくて、戻ってきたの数百円だったっていう」
「そう、それ」
アカネは静かにグラスを傾けた。
「あの数百円の残高を見たとき、私ね、身に染みて学んだの。どんなに綺麗なホームページがあっても、どんなにお上の認可やテレビCMという『看板』が立派でも、中身が伴っていないものは、いつか必ず破綻して、最後には空っぽになるって [読売新聞の報道]。現金を先払いで振り込んじゃ、絶対にダメなんだって。ネットショップは全部『現金引き換え(代引き)』にしなきゃダメだってさ」
友人は、鱧を咀嚼しながら
「うん、あんたあの後から、買い物は全部代引きにしてるもんね。プロの商社パーソンが代引きなんて、ちょっと面白いけど、一番確実だよね」と笑った。
「そうよ、一番確実。……でもね、本当に伝えたかったのは、その先」
アカネの目が、真っ直ぐに友人を見据えた。
「あのヴィヴィアンの3万8千円の痛みが、私の心に『防衛センサー』を植え付けてくれた。
だからこそ、3年前、お母さんが
『こまった大家さん』に300万円を突っ込もうとしたとき、あんたが放った『そんなうまい話はない』『成田に実体はない』っていう、ただそれだけのシンプルな分析力を、私は100%素直に、信じて立ち止まることができたの」
友人の箸が、ピタリと止まった。
「もし、あのときあんたが私を止めてくれなかったら、そして、私がその言葉を聞き流していたら……今ごろ、うちのお母さんも、近所のマツエさんも、総額二千八百億の泥舟の中に沈んで、世間から『自業自得だ』『嫉妬だ』って、袋叩きに遭う地獄の真っ只中にいたはずなのよ [新聞の報道]。
お父さんが、川崎の冷たい工場で、油にまみれて手を真っ黒にして遺してくれた、あの大事な三百万円は、今ごろただのゴミ屑になって、風に舞ってた」
アカネの瞳から、一筋の、熱い涙が頬を伝って落ちた。
「私の3万8千円は、数百円になっちゃった。
あのお金がそのまま戻ってきたら、ここでね、鱧しゃぶを、桔梗に連れて来て、奢るって、あの夜からずっと心に決めてたんだよ。
お金は戻らなかった
…だけどね、あんたが守ってくれた三百万円が、今、こうして、私たちの手元に『本物の実体』として残ってる。だからさ……」
アカネは涙を拭い、最高の、凛とした笑顔で、
米焼酎のグラスを掲げた。
「あのときの3万8千円の代わりに、お父さんの三百万円の重みを使って、最高の鱧しゃぶを、あんたに奢らせて、
…本当に、ありがとう。
あんたは私の人生の、最高の、本物の監査法人よ」
友人 ノゾミは、少し照れくさそうに、でも、とても誇らしげに自分のグラスを掲げ、アカネのグラスとカチン、と心地よい音を響かせた。
カウンターの奥では、マツエは、とり天をかじり、大ジョキのビールを呑みながら、その光景を満足そうに眺めている。
ご亭主は静かに、二人のために新しい出汁を注ぎ足した。
鱧しゃぶの〆は、にゅうめんで、よろしいですか?
アカネは、ハイ、おねがいします。と返答した。
暖簾をくぐり、笑顔で夜風の中へ出てくる、
アカネと友人 ノゾミ。
二人の背中を、京都で修業を積んだ頑張り屋のご亭主が、深く頭を下げて見送っている。
二人も、お辞儀を返した。
友人 ノゾミが「本当に美味しかった、ありがとう」とアカネの顔を見る。
アカネは、夜空を見上げながら、そっと微笑んだ。
アカネは、思った
「看板という名の嘘に惑わされず、
実体という名の本物を見抜くこと。
それが、この不条理な時代を生き抜く、人間の唯一の武器である。
今夜も、川崎の街には、確かな生活の灯がともり続ける。」
「よっし!もう一軒いこうよ、ノゾミ!」
父ゆずりの、威勢の良さが、川崎の夜空に響いた。




