試行
【高所:狙擊ポイント】
凍てつくような高台の上、狂風が彩静の長いポニーテールを激しくなびかせていた。彼女は狙撃鏡の後ろに伏し、彫像のように静かに呼吸を整えている。
「目標ロック。青、配置についたわ。」
彩静は低く報告した。その声は雪のように冷ややかだ。「白い死神」と呼ばれた零次がこの世を去り、暁と湊が隠居を選んだ今、彩靜はその神がかり的な狙撃の腕で、組織内公認の最強戦力となっていた。
バァン!
弾丸は千メートル先の闇を貫き、任務は完璧に遂行された。銃の回収、分解、起立。その一連の動作は芸術のように滑らかだった。
【翌日:ZERO-DELAY 本部】
彩静はいつものトレードマークである学生服を着て、ギターケース(銃袋)を背負いながら長い廊下を歩いていた。組織のトップクラスの戦力であるにもかかわらず、その茶色の瞳は、人混みを見ると無意識にわずかな戸惑いを浮かべる。
「見ろよ、後藤先輩だ……」
「殺し屋なのにあんなに綺麗なんて。それに、人を見る目がどこか優しいよな……」
「聞いたか? こないだサインを頼まれた時、顔を真っ赤にして逃げ出したらしいぜ。超可愛いよな!」
そう、ZERO-DELAY の中において、彩静はもはや単なる「怪物スナイパー」ではなかった。その清廉な雰囲気と、時折見せる恥ずかしがる表情が相まって、彼女は組織内で公認の**「シャイな女神」**となっていたのだ。
そこへ、一人の新人執行官が勇気を振り絞って彼女を呼び止めた。
「ご、後藤先輩! これ、僕が書いた任務報告書なんですけど……その、見ていただけないでしょうか……」
「あ……あの……」
彩静は突然目の前に現れた後輩を見つめ、白い頬は瞬く間に淡いピンク色に染まった。彼女は少し落ち着かない様子でギターケースのストラップを握りしめ、視線を床に落としながら小さな声で応えた。
「机に……置いておいてくれればいいから……。その、頑張って。」
言い終えると、彩静は軽く会釈し、急ぎ足でその場を去った。その様子を、通りかかった凜が見ていた。凜は帽子のつばを引き下げ、口の中でキャンディを転がしながら、不機嫌そうに吐き捨てた。
「おい、路人先輩。見なよ、あの新兵ども。あんな自爆寸前のシャイなスナイパーを崇拝するなんて、救いようがないね。」
今田は苦笑いしながら言った。
「それが彩静の魅力なんだろう。ところで凜、帽子が歪んでるぞ。」
「黙れ、路人先輩。歪んでるのはあんたの生え際でしょ。これ以上喋ったら、明日の特訓メニューにぶち込んでやるから。」
【彩静のロッカー前】
彩静はロッカーを閉め、火照った頬を叩いた。
(やっぱり……あんなに大勢に見られるのは、慣れないな……)
彼女は携帯を取り出し、浅野からのメッセージを確認した。そこには「会って大切な話をしたい」と書かれていた。
「大切な話……何かしら?」
浅野のことを思うと、彩静の顔には彼にしか見せない少女のような恥ずかしそうな笑みがこぼれた。組織の女神になることよりも、彼女は浅野のカメラの前で静かに座っているだけの女の子でありたかった。
【彩静の寓所:02:00】
部屋の明かりは消え、デスクの上の電気スタンドだけが微かな光を放っていた。彩静はゆったりとしたパジャマ姿でベッドの上に膝を抱えて座り、周りには浅野から送られた数枚の写真が散らばっていた。
彼女の脳内では、三つの異なるプログラムが激しく衝突していた。
1. 【プランA:告白】
「浅野君、実は……私はZERO-DELAYのスナイパーで、コードネームは『青』なの。」
彩静は浅野の表情を想像した――それは恐怖か、それとも嫌悪か? もし組織に機密漏洩が知れれば、司令の処決命令が容赦なく下されるだろう。
(ダメ……彼を危険にさらすわけにはいかない。それに……私も死にたくない……)
2. 【プランB:隠蔽】
このままシャイで、同じ写真が趣味の後藤さんを演じ続ける。けれど、暁先輩の言う通り、鮮血は隠しきれるものではない。嘘が暴かれた時、浅野が受ける傷は今の百倍になるだろう。
(これは浅野君に対して不公平だわ……私は『偽物』への愛を盗んでいるだけ……)
3. 【プランC:関係断絶】
告白される前に、彼の生活から完全に姿を消す。
「……っ、ダメ、ダメ、絶対ダメ!」
彩静は激しく頭を膝に埋め、泣きそうな声を漏らした。明日から浅野の笑顔が見られないと想像するだけで、胸が撃たれた時よりも痛んだ。
「うぅ……一体どうすればいいの……」
彩静の目尻が赤くなり、一粒の輝く涙がシーツの上に落ちた。彼女は組織の冷酷な女神であり、完璧な執行官だ。しかし今の彼女は、内疚と恐怖に押しつぶされそうな、ただの20歳の少女だった。
彼女は、身分を偽るために買ったカメラバッグを見つめた。その時、危険で大胆な考えが脳裏をよぎった。
「それとも……うっかり、一部だけ漏らしてみる?」
彩静は鼻をすすり、少しぼんやりとした瞳で自問自答した。
「何気なく、少しだけ見せるの……。例えば、私の驚異的な射撃の才能とか? あるいは『部活の延長』に見えるような危険な領域に彼を巻き込んでみるとか……。もし彼が、少しずつこの空気に慣れてくれたら……」
これは極めて危険なテストだ。もし浅野が恐怖を見せれば、すぐに手を引いて立ち去る。もし、浅野が……この凍てつく世界の一角を受け入れてくれたら?
【レモンティー・ショップ:二階休憩室 22:30】
「とにかく、そういうことなの……。どうすればいいか分からなくて……」
彩静はソファの隅で丸まっていた。普段なら千メートル先の標的を見抜くその茶色の瞳は、今は涙で潤んでいる。彼女は捨てられる恐怖から機密漏洩のリスクまで、葛藤を断続的に話し、最後には声が絶望で震えていた。
組織の新人たちに「冷酷な女神」と崇拝されている最強のスナイパーが、まるでお気に入りの玩具をなくした子供のように泣いている姿を見て、暁と凜は複雑な心境で顔を見合わせた。
「もう、彩静、泣かないで。これ以上泣いたら明日のデートで目が金魚みたいに腫れちゃうわよ。」
暁は優しく彩静の背中を叩いた。口調はお姉さんのように温かいが、その瞳の奥には不安も隠れていた。
「ちっ、全く……。」
凜は帽子のつばを引き寄せた。口は相変わらず悪いが、黙ってティッシュを彩静に差し出した。
「あんたのその『うっかり漏らす』なんて計画、穴だらけだよ。バレたら絶対あのジジイどもに監禁されるって。それに、そのカメラマンが腰抜かしたら、全部無駄になるでしょ?」
「でも……少しも教えないなんて……」彩静は鼻をすすり、沈んだ声で言った。「怖い……一生騙し続けるなんて、できない……」
休憩室に沈黙が流れた。この職業と「平凡な幸せ」の間には、底の見えない溝があることを彼女たちは痛いほど知っていた。
「どうやら、私たちの恋愛偏差値も、あの路人今田と大差ないみたいね。」
暁はため息をつき、突然目を輝かせて神秘的な微笑みを浮かべた。
「ねぇ、私たちがダメなら……湊に会わせてみない?」
凜は眉を上げた。「その提案、悪くないね。あの先輩、最近は紅茶ばかり淹れてて、自慢の口才を発揮する場所がなさそうだし。」
暁は頷いた。
「湊の頭は恐ろしいほど冴えてるわ。他人が何を考えているか一瞬で見抜く。湊に浅野君を観察させれば、最高に完璧な『フォーカス案』を出してくれるかもしれない。少なくとも、あの大学生に真実を受け止める器量があるかどうかは判断できるはずよ。」
彩静は呆然として顔を上げた。「湊先輩……助けてくれるかしら? 普段あんなに忙しいのに……」
「任せなさい。」
暁は颯爽と立ち上がり、長い髪をかき上げた。
「これはうちの最強スナイパーの一大事よ。もし手伝わないなんて言ったら、あの人が大事にしてるアナログレコードを全部傷だらけにしてやるわ。」
【翌日 レモンティー・ショップ:オフィス 09:00】
「はあ? 僕に処理しろって?」
湊は自分の鼻を指差し、いつもの余裕のある仮面が剥がれそうになっていた。彼は目の前の二人を見つめた――一人は普段プライドが高いのに今は手を合わせて拝み倒している凜。もう一人は、隣に座って何も言わないが、その瞳に『断ったら今夜は部屋に入れないと思え』という脅しを込めている暁。
「お願いします、湊店長! 私たちが思いつく中で、一番口が上手くて、EQ(情動知能)が高いのはあんたしかいないんだから。」
凜は珍しく声を和らげ、帽子の下から「助けて」と言わんばかりの視線を送っていた。
「見てよ、彩静があんなにオーバーヒートしてるんだよ。『純情な大学生にいかにして殺し屋の身分を受け入れさせるか』なんてミクロな心理戦、あんた以外にこなせる奴いないでしょ!」
湊は首を巡らせ、暁からの強烈な圧力を孕んだ視線を受け止めた。暁は優雅に髪をかき上げ、「分かってるわね?」と言わんばかりの冷笑を浮かべている。
「……分かった、分かったよ。引き受けるよ。これくらい、お安い御用だ。」
湊は仕方なく両手を挙げて降参し、自嘲気味にため息をついた。
「この僕が、店長だけでなく『恋愛アドバイザー』のバイトまでしなきゃならないのか?」
【当日午後:新宿中央公園 14:30】
浅野はフィルムカメラを手に、熱心に彩静の写真を撮っていた。
「彩静、もう少しだけ左を見て……。そう、その光だ、完璧だよ!」
浅野は眩しいほどの笑顔を見せた。
彩静は顔を赤らめ、不安げにスカートの裾を握りしめていた。彼女のポケットには、確かに「うっかり」落ちる予定の特殊な薬莢が入っていた。しかし彼女は今、緊張のあまり歩き方すらぎこちなくなっている。
「僕……ちょっと飲み物買ってくるよ。」
浅野は彩静の顔が赤いので、熱中症ではないかと心配し、近くの自動販売機を指差した。
浅野が去ってから数秒後のこと。
ダークグレーの優雅なトレンチコートを着て、メタルの細フレーム眼鏡をかけた男が、洋書を手に持ったまま、彩静の背後のベンチにごく自然な様子で座った。
「……湊先輩!?」彩静は驚いて飛び上がりそうになった。
「座りなさい、彩静。深呼吸。心拍数が高すぎるよ。」
湊は顔を上げず、ページをめくりながら、その声は玉のように滑らかだった。
「僕のほうを振り返っちゃダメだ。浅野君とのデートの雰囲気を保ちなさい。僕はただ、君たちの『ピント』を合わせに来ただけだよ。」
「でも、薬莢を準備したんです……」彩静は小さな声で呟いた。
「乱暴すぎる。そんなものは子猫を驚かせて逃がすだけだ。共犯者を招く道具じゃない。」
湊は本を閉じ、視界の端で二本の飲み物を持って戻ってくる浅野を捉えた。
「後で僕が彼と少し話す。もし僕すらあしらえないようなら、彼は君の世界に踏み込む資格はないということだ。」
浅野はベンチに戻り、彩静の隣に気品のある成熟した男性が座っているのを見て、足を止めた。
「あ、すみません。どなたですか?」浅野は礼儀正しく声をかけた。
湊は顔を上げ、お手本のような温かい微笑みを浮かべ、浅野に手を差し出した。
「こんにちは。あそこの紅茶店の店長です。近くで用事があって、ついでに挨拶に来たんですよ。君が浅野君だね? 彩静からよく話を聞いていますよ。」
浅野は恐縮しながらその手を握った。その瞬間、彼はこの男の眼差しが、温かい一方で、まるでX線検査機のように自分の魂の深淵までスキャンしているような感覚を覚えた。
「浅野君、どこの学生なのかな? 写真学科? おや、そのカメラ、僕も知っていますよ。ライカのクラシックモデルだ、いい趣味をしているね。」
湊の手が親しみ深く浅野の肩に置かれた。力は入っていないが、浅野が彩静のほうへ振り向くのを的確に阻む角度だ。彼の優雅な歌声のような喋りに、浅野は機械的に答えることしかできなかった。
「あ、はい……写真学科です。このカメラは……」
浅野はしどろもどろになりながら、完全に湊のペースに巻き込まれていった。
彩静はその場に立ち尽くし、浅野が買ってきてくれた飲み物を手にしたまま、デート相手が「店長先輩」に強引に連れ去られるのを呆然と見ていた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 店長、僕たちはこれから……」浅野は口を挟もうとした。
「ああ、彩静。」
湊は振り返り、非の打ちどころのない残念そうな表情を浮かべた。その口調はあまりに自然だった。
「忘れるところだった。さっき暁から連絡があって、店で急ぎの『データ修正』が必要なんだって。君は今日、先に戻らなきゃ。大丈夫、浅野君は僕に任せて。彼と写真の話でもしたいんだ――ついでに一杯飲みに行こう。」
「えっ? でも……」
浅野は呆然とし、彩静を見て、それから目の前の情熱的すぎる店長を見た。
「遠慮しないで、浅野君。この近くにいいバーを知っているんだ。飲みながら彩静の『子供の頃』の面白い話でもしようじゃないか。」
湊は微笑み、その瞳の奥に深い意味を込めて言った。
「君も……興味があるだろう?」
「一杯……ですか? その……店長さんのお誘いなら……」
浅野のような純粋で礼儀正しい大学生にとって、湊のような「EQモンスター」を断る術などなかった。彼は助けを求めるような視線を彩静に送りつつ、湊に半ば強引に肩を組まれ、公園の出口へと連れて行かれた。
【新宿:隠れ家バー 16:30】
バーの照明は暗く、ジャズが低く流れていた。
湊は浅野に度数の強いマティーニを注文し、自分は優雅にグラスの中のウイスキーを揺らした。彼はコートを脱ぎ、シャツの第一ボタンを外した。そこでようやく、温かい店長のイメージから、組織を畏怖させる副司令のモードへと切り替えた。
「浅野君。」
湊はグラスを置き、薄暗い光の中で鋭くなった眼差しで浅野のガードを貫こうとした。
「君は、彩静をどんな子だと思っている?」
浅野は酒を一口飲み、喉が焼けるような感覚を覚えながら、たどたどしく答えた。
「彼女は……シャイだけど、とても優しいです。時々、冷静すぎるように感じることもあるけど、それは自分を守るための方法なんだって分かっています。僕がこれまで会った中で、一番リアル(真実)で、一番美しい女の子です。」
「リアル、ね。」
湊はその言葉を反芻し、口角を挑発的に上げた。彼は浅野に身を寄せ、二人だけに聞こえる低い声で言った。
「もし僕が、君が毎日ピントを合わせているその顔が、ある巨大な『シャッター』の裏側にある偽像だと言ったら? もし、彼女の手が箸やペンを持つだけでなく、この街を一瞬で静まり返らせるような『何か』を握っているとしたら……。浅野君、君のカメラは、それでも彼女を撮り続けられるかな?」
浅野のグラスを持つ手が止まった。彼は湊の底知れない瞳を見つめ、背中の冷や汗がシャツを濡らしていくのを感じた。
暁、凜、今田、そして心配でたまらない彩静がバーの重厚なドアを押し開けた時、そこに広がっていた光景に全員の思考が一秒間停止した。
そこには、普段の優雅で冷徹な面影はどこへやら、豪快に浅野の肩を抱き、まるで長年の義兄弟のように寄り添う湊の姿があった。
「ちょっと! 湊先輩、浮気ですか?」
凜は帽子のつばを下げ、毒を吐きながらも、テーブルの酒瓶を素早くスキャンして、湊がこの大学生にどれほどの毒(酒)を盛ったかを判断しようとしていた。
その瞬間、湊が顔を上げた。その瞳には、一秒間だけ、絶対的な清廉さと冷徹さを湛えた精気――「神楽湊」としての眼差しが宿っていた。彼は駆けつけた一同を見やり、浅野から見えない角度でそっと「OK」の手信号を出した。
(テスト合格だ。この男、単純だが覚悟は決まっている。)
次の瞬間、湊の瞳は再び濁り、酔客を装って誇張ぎみにふらついた。彼は浅野の背中を叩き、大声で笑った。
「浅野君! さっき、後藤さんに会いたいって言ってたじゃないか! ほら、噂をすれば影だ! 彼女に付き合ってもらいなよ。この『お邪魔虫』な店長は退散するからさ!」
浅野はこの時すでに顔を真っ赤にし、朦朧とした瞳で突然現れた彩静を見つめ、だらしなく手を振った。
「さ、彩静……店長さん、めちゃくちゃいい人だよ……。『魂の陰影』の撮り方を教えてくれるって……」
湊はふらつきながら立ち上がり、彩静とすれ違うその一瞬、彼女だけに聞こえる極めて低い声で囁いた。
「彼は君が思っているより強い。あとは君次第だ。」
言い終えると、湊はそのまま隣の暁に倒れ込んだ。暁はそれを察して彼を受け止め、二人と凜、今田は壁を作るようにして、浅野が反応する前に素早く戦術的撤退を完了させた。
「さあ、お邪魔な『先輩たち』は店を閉める時間よ。浅野君、彩静を家まで送ってあげてね!」
暁は手を振り、満足げな笑みを浮かべてバーのドアを閉めた。
【バー:二人だけのボックス席】
照明は依然として暗く、浅野は酔いの回った頭で、ぼんやりと対面に座る彩静を見ていた。彩静の心臓は胸から飛び出しそうなほど高鳴り、浅野の無防備な笑顔を見つめる手のひらは汗でびっしょりだった。
「店長さん……いろいろ話してくれたよ。」
浅野はテーブルに突っ伏し、横目で彩静を見ながら、柔らかい、けれどかつてないほど真剣な口調で言った。
「彼女は昔、部活の中で……みんなを守る役割だったんだって。君の手、本当はすごく大変なんだね。」
彩静の体が硬直した。これが湊先輩の言う「テスト合格」の意味なのか?
「僕は店長に言ったんだ。影なんて気にしないって……。」
浅野は手を伸ばし、指先でそっと、テーブルに置かれた彩静の手の甲に触れた。
「だって、影がなければ……光には意味がないから。彩静、君は……何を守っているの?」
彩静は、アルコールのせいでどこか情熱的になった浅野の瞳を見つめ、目尻を濡らした。彼女はついに理解した。湊先輩は浅野を追い払おうとしたのではなく、浅野を「守護」という名の境界線へと招き入れたのだ。
【浅野家門前:昨晩 21:00】
彩静はようやくの思いで、浅野の自宅前まで彼を送り届けた。
「あの……彩静、実は僕……」
自宅のドアの前で、浅野は足を止めた。アルコールが勇気を膨らませ、同時に三半規管を狂わせていた。彼は街灯の光に照らされて柔らかく見える、頬を赤らめた少女を見つめ、心の中で一つの思いだけを抱いていた。
「本当に、可愛すぎる……。」
しかし、告白の言葉が出る前に、脳がシャットダウンの命令を下した。
「……? 浅野君?」
彩静が反応する間もなく、浅野は糸の切れた人形のように前方へ倒れ込み、あろうことか彩静の胸元にまともに顔を埋める形になった。それは最も気まずく、そして最も柔らかい場所だった。
「ん……柔らかい……いい匂いだ……」
浅野はそう呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。
「な、な、な……!!」
彩静はそのまま硬直した。脳のプロセッサは一瞬でオーバーヒートを起こす。胸に伝わる重みと、その熱い吐息。恥ずかしさのあまり、彼女は浅野を一本背負いで投げ飛ばしそうになった。
【浅野家寝室:翌日 08:30】
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、シーツを照らしていた。浅野は割れるような頭を抱えて起き上がり、喉の渇きを覚えた。
「うぅ……僕、昨日……どうやって帰ってきたんだ?」
彼は首を巡らせ、視点が定まった瞬間、屋根を突き破るような悲鳴を上げた。
「う、うわあああああ!!」
ベッドの端に、なんと彩静がいたのだ! 彼女はいつもの学生服姿だが、少し着崩れている。椅子の上で丸まって眠っていた彼女は、悲鳴に驚いて飛び起き、無意識に防御の姿勢を取った。しかし相手が浅野だと気づくと、その鋭い殺気は一瞬で霧散した。
「な、何が……何があったの? 僕、何かした!?」
浅野は布団を掴み、顔面蒼白になった。あの「柔らかい」感覚の記憶が、かすかに残っていたのだ。
「あ、あんた、よくそんなことが聞けるわね!」
彩静は浅野が目覚めたのを見て、昨晩の羞恥心と怒りが再燃した。彼女は頬をぷくっと膨らませ、驚いたフグのように怒ってみせると、視線を泳がせて浅野の胸元を直視できないでいた。
「あんた、昨日……いきなり私に倒れ込んできて、変なことばっかり言って! 私一人じゃ運べなくて、仕方なく……。」
彩静の声は次第に小さくなり、顔は真っ赤に染まった。
「……仕方なく、あんたの家のリビングのソファで(実際は半ば引きずるように寝室まで運んだが)、朝まで看病してあげたのよ……このエッチ!」
浅野は、このむくれていながらも爆発的に可愛い彩静の姿を見て、昨夜の断片的な記憶がようやく繋ぎ合わさった。彼は、告白こそ成功しなかったものの、予期せぬ形で「深い親密接触」を遂げてしまったことを悟った。
「ごめん! ぼ、僕、必ず責任取るから!」
浅野はベッドの上で土下座し、叫んだ。
「責任なんて……そんなデータ、じゃなくて、そんなこと……。」
彩静は両手を上に掲げ、泣きそうなほど恥ずかしい瞳を隠した。
「バカ……お腹空いた。朝ごはん、作って……。」
強風の中でも標的を射抜く女神の心拍数は、今や完全に制御不能に陥っていた。




