甘い金曜日
【新宿:フレンチ・景観レストラン 12:30】
金曜日の正午、陽射しが少し眩しい。浅野はレストランの入り口に立ち、何度もシャツの襟元を整えていた。手のひらには薄っすらと汗が滲んでいる。二人の対面は初めてではないが、彩静が「任務」以外で、自ら進んでランチを共にしようと言ってくれたのは今日が初めてだった。
「浅野君。」
静かだが聞き慣れた声が背後から響く。浅野が振り返った瞬間、彼の網膜は強い光を浴びたかのように白飛びし、その場に呆然と立ち尽くした。
目の前に現れた彩静は、息を呑むほどに美しかった。
普段はパーカーや地味な学生服を羽織り、フードを深く被って気配を消している彼女が、今日は珍しく深い紺色のワンピースを身に纏っていた。それは深夜の海のように深く、彼女の白い肌を透き通るほどに引き立てている。歩くたびに揺れる裾は、普段ゆったりとした服の下に隠されている、しなやかで力強い曲線をなぞっていた。
茶色の長髪は相変わらずトレードマークのポニーテールだが、今の装いでは戦うための束縛ではなく、凛とした大人の女性としての宣言のように見えた。
「……彩静、今日……すごく綺麗だ。」
浅野はしばらく沈黙した後、やっとの思いで真っ直ぐな賛辭を絞り出した。
「そう?……データ、じゃなくて暁先輩が、この服の彩度は私に合っているって。」
彩静は赤くなって顔を背け、居心地悪そうにスカートの裾を引っ張った。この服のために、彼女は鏡の前で「一般人のような歩き方」を30分も練習したのだ。
【レストラン内:窓際の席】
高層階にあるレストランからの景色は絶景だった。席に着くと、鼓動の高鳴りと緊張が入り混じった沈黙が流れる。
浅野は対面に座る彩静を見つめた。高級なカトラリーの銀色の反射の中で、彩静は少し窮屈そうにしていた。彼女が水に口をつける際、グラスの縁に添えられた指先は非常に綺麗に整えられている――それは、引き金を引く邪魔にならないための習慣だ。
「彩静、君にプレゼントがあるんだ。」
浅野はバッグから精巧な小さな紙袋を取り出した。
彩静は一瞬驚き、瞳に動揺が走る。「プレゼント?……今日は何も、お返しのデータ(贈り物)を用意していないわ。」
「お返しなんていらないよ。」浅野は笑って紙袋を差し出した。「カメラ機材の店で見かけて、君にぴったりだと思ったんだ。」
彩静が袋を開けると、そこには手作りのレザー製レンズキャップケースが入っていた。そこには小さな「S」の文字が刻まれている。彼女のコードネーム「青」の頭文字だ。
「いつか機会があれば、もっと遠くの場所に君を連れて行って写真を撮りたいんだ。」浅野は彼女の瞳を見つめ、かつてないほど真剣な口調で続けた。
「新宿の雨だけじゃなく、北海道の雪や沖縄の海……僕のファインダーの中を、全部君にあげたい。」
彩静はケースを握りしめ、革の温度を感じていた。彼女の住む世界はトンネルの闇と硝煙の苦味に満ちている。だが浅野は、カラー写真を使って彼女のために温かい未来を築こうとしていた。
「浅野君……」彩静は震える声で、静かに口を開いた。
「もし私のレンズが……一生モノクロの写真しか撮れなかったとしても、一緒に見てくれる?」
浅野は躊躇うことなく手を伸ばし、テーブルに置かれた彩静の手を優しく包み込んだ。
「それなら、僕が君の写真の『唯一の色』になるよ。」
【レストラン:メインディッシュ】
高級レストランの優雅な雰囲気の中、浅野はステーキを切りながらも、向かいに座る美しすぎる少女に視線を奪われていた。彼はついに、ずっと気になっていた質問を投げかけた。
「彩静、一つ聞いてもいいかな……少し唐突かもしれないけど。」浅野はナイフとフォークを置き、優しい口調で尋ねた。
「君と『レモンティー・ショップ』のみんなは、一体どういう関係なの? 今田先輩は高校の同級生だって言ってたけど、それ以上の深い絆があるような気がして。」
彩静はホタテのポワレを切っていた手を止めた。彼女の脳内の「防御壁」が即座に起動し、今田が以前用意した設定を高速で呼び出す。
「そ、それは……」彩静はしどろもどろになりながら、緊張で頬を赤らめた。それが浅野の目には、照れているように映る。
「今田君が言った通りよ。私たちは……同じ学校の出身なの。」
彼女は深呼吸をし、できるだけ自然なトーンを装った。
「今田、凜、そして私は……学校で同じ部活だったの。湊と暁先輩は、当時すごく面倒を見てくれた先輩たち。部活の仲が本当に良かったから、卒業後もあの店に集まるのが習慣になっているのよ。」
浅野は興味深げに聞き入った。「じゃあ、『青』っていうコードネームは? みんな時々そう呼んでるよね。」
「そ、れは部活の時のあだ名みたいなものよ……」彩静は視線を逸らし、不安げにテーブルクロスをいじった。
「昔の私は今よりも内向的で無表情だったから、みんなが『冷たい青色のイメージだ』って……それでその名前がついたの。本名を名乗るのが恥ずかしくて、ずっとその名前で通していたから、勘違いさせてしまったわね。」
この言葉は半分真実で、半分は嘘だ。今田、凜とは確かに「同期」であり、湊と暁も「先輩」だ。ただ、その「部活」の内容が、都市の影から平和を守ることだという点を除けば。
「なるほど、そういうことだったんだ。」浅野は納得したように微笑んだ。「道理で『戦友』のような雰囲気を感じるわけだ。ごめんね、何かミステリアスな背景があるのかもなんて疑っちゃって。想像力が豊かすぎたよ。」
自分を全幅の信頼で見つめる浅野の瞳を見て、彩静の心に強い罪悪感が込み上げた。
「浅野君……ずっと人見知りで、変な名前で呼ばれている私を、変だと思わない?」
浅野はテーブル越しに、彩静の手の甲を優しく叩いた。
「人見知りなのも君の一部だよ。僕にとって君は『後藤彩静』でも『青』でも、あの雨の日の新宿で、僕が一生フォーカスを合わせ続けたいと思った女の子であることに変わりはないんだ。」
彩静の目尻が熱くなった。彼女はプレゼントされたレザーケースを強く握りしめた。今この瞬間、彼女は何よりもこの「嘘」を守りたいと願った。いつか本当に、彼が言うような「普通の部活」の仲間になれる日まで。
【品川:エプソン アクアパーク 14:30】
水族館内の光は微かで、巨大な水槽に囲まれた深い青色の水が、二人の顔を揺らしていた。浅野は今日、異常なほど自制していた。カメラ狂の彼が、高価な機材をバッグの中に眠らせたまま、ファインダー越しではなく自分の瞳で、彩静の細かな表情を記録しようとしていた。
「彩静、あっちを見て!」浅野がマイワシの大群を指差す。
「……マイワシの群れ行動は、個体が捕食される確率を下げるための……」
彩静はつい口走ってしまい、慌てて言い直した。「……いえ、すごく壮観。銀色の流星みたいだわ。」
通路は狭く、濡れて滑りやすかった。イルカショーへ急ぐ子供たちが背後から駆け寄ってくる。
「危ない!」
浅野が素早く彼女の肩を抱き寄せた。彩静のバランス感覚なら簡単に避けられたはずだが、慣れないワンピースのせいで動作が遅れ、二人の体が重なった。
ドン。
彩静は浅野の胸の中に飛び込む形になった。石鹸の微かな香りと、浅野に伝わる彼女のしなやかで温かい体温。
「……浅野君の心拍、すごく速い。」
「それは……僕のシステムが完全に故障しているからだよ。」
浅野は自嘲気味に笑った。深い青の光の中で、二人の顔はすぐ近くにあった。
出口のショップで、浅野は対になったイルカのストラップを選んだ。
「これ、君に。僕はピンクで、君は青。今日の君のドレスみたいだし、深くて冷静だけど、本当は温かい君に似ている気がして。」
彩静はその小さな飾りを受け取った。彼女の身の回りには武器と道具しかない。これは彼女の人生で初めての、戦術的意味を持たない、けれど命をかけて守りたい宝物になった。
【水族館外:17:00】
出口を出ると、天気予報通りバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。灰色に煙る雨のカーテンが街の輪郭をぼかしていくが、それは同時に、二人だけの絶対的なプライベート空間を作り出していた。
「どうやら、相合い傘で行くしかなさそうだね。」
浅野は黒い折りたたみ傘を広げた。傘の面は決して大きくはなく、濡れないためには肩を並べて密着しなければならない。浅野は自然に手を伸ばし、彩静の肩を軽く抱き寄せ、自分のほうへと引き寄せた。
彩静は浅野の腕の力強さと、深い紺色のワンピース越しに伝わってくる他人の熱量を感じていた。彼女の足取りは少し乱れ、頬の温度は先ほどの水族館でのハプニングの時よりもさらに高くなっていた。
二人は傘の下で沈黙したまま歩き続けた。傘を叩く雨音は、互いの激しい鼓動を完璧に覆い隠してくれた。この瞬間、新宿の街はまるで、この半径一メートルの小さな世界だけになってしまったかのようだった。
【駅:改札前】
ホームに滑り込んでくる電車の轟音が、デートの終わりを告げる。浅野が傘を閉じ、二人は雨の当たらない軒下に立った。空気は先ほどよりもさらに熱を帯び、じりじりと焦げ付くようだった。
「浅野君。」
浅野が別れの言葉を口にしようとしたその時、いつも受動的な彩静が一歩先んじた。彼女はうつむき、小さなカバンをぎゅっと握りしめた。その声は微かで、明らかに震えていたが、雨音を突き抜けてはっきりと響いた。
「あの……私、今日……本当に楽しかった。それに……また次回、あなたと出かけるのが、すごく……すごく楽しみなの。」
言い終えると、彩静はすべてのプロセッサの演算能力を使い果たしたかのように、さらに深くうつむいた。耳の付け根まで真っ赤になり、血が噴き出しそうなほどだった。
浅野は一瞬呆然としたが、すぐに目の前の少女――他人には氷のように冷たく接する彼女が、自分の前でこれほどまでに真実に努力している姿を見て、最高に輝く、深い愛情のこもった微笑みを浮かべた。
「僕もだよ、彩静。」浅野は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。「次は、もっと遠くの、もっと綺麗な場所へ写真を撮りに行こう。気をつけて帰ってね。着いたらメッセージをちょうだい。」
「うん……」
彩静は頷き、駅の中へと走り出した。エスカレーターに乗る瞬間に思わず振り返ると、浅野はまだ同じ場所に立って手を振っていた。
彼女は携帯についている青いイルカをそっと触った。心の中の「大好き」という言葉は、すでにコマンドライン上で準備完了している。あとは最後の一回、「ピントを合わせる」勇気を持つだけだった。
【彩静のマンション:21:00】
どうやって家に帰り着いたのか、彩静は自分でも覚えていなかった。ドアを閉め、冷たいドア板に背中を預けると、胸が激しく上下した。
部屋の中は静まり返り、携帯ケースに当たる青いイルカのストラップの澄んだ音だけが響いている。彼女の思考は今、猫にかき乱された毛糸玉のように混乱していた。浅野の温かい手、水族館の青い光、傘の下の至近距離での呼吸、そして別れ際のあの大胆な「次が楽しみ」という言葉。
「……私、何を言ってるの。本当に恥ずかしすぎるわ。」
彼女はよろよろとベッドへ向かい、枕に顔を埋めた。身体には残った興奮で微熱があり、それはどんな訓練や戦闘でも味わったことのない体感だった。彼女は顔を真っ赤にし、無意識にベッドの中で足をバタつかせた。鼻先には、まだ浅野のシャツの淡い香りが残っているような気がした。
(浅野君……今、私のことを考えてくれているのかな?)
本来なら弾道を分析するために使うべき脳内は、今やあの不器用なカメラマンの笑顔でいっぱいだった。彩静は体を丸め、荒い息をつきながら、胸から溢れ出しそうな恋心を必死に抑えようとした。これは彼女が一度も教わったことのない「生存任務」であり、彼女は明らかに、完膚なきまでに陥落していた。
【浅野の家:22:30】
彩静の葛藤とは裏腹に、浅野は「人生の絶頂期」とも言える興奮状態にいた。
「この進展……いける!絶対に決まりだ!」
彼はベッドにひっくり返り、天井を見上げてニヤニヤしていた。今日のデートは出来すぎなほど完璧だった。あの突然の雨さえも、神がかり的なアシストに思えた。彼はスマホを手に取り、「写真学科の悪友たち」という名のグループチャットを開くと、指先を素早く動かした。
浅野健二:「みんな!今日の後藤とのデート、マジで神回だった!相合い傘したし、向こうから次が楽しみだって言われたぞ!これ……ボッチ卒業の日も近い気がする!(水族館で撮った、魚群を見つめる彩静のピンぼけ横顔写真を添付)」
メッセージを送った後、浅野は親友たちからの称賛と嫉妬を心待ちにしていた。しかし、グループ内は死んだような静寂に包まれた。
一分後、最初のリプライが届いた。
葉山(Yuto):「……お前、忘れてるかもしれないけど、このグループでお前以外は全員彼女持ちだからな(うちの氷室も含めて)。」
友人A:「その程度の小学生レベルの進展で自慢かよ? 俺と彼女は今日、来年同棲するための家具のスタイルについて話し合ってたところだぞ。」
輝:「浅野さん……さやかが、後藤さん結構可愛いねって言ってるよ(彼女が自分の腕の中に寄り添っている写真を添付)」
浅野は画面を見て、得意げだった表情を一気に崩した。彼は思い出したのだ。この友人関係の中で、自分こそが最も奥手で進展の遅い「モブ」であったことを。
「……くっそ、お前らには彩静の可愛さが全然わかってないんだよ!」
彼は憤慨して画面を閉じ、枕を抱えてゴロゴロと転がった。ツッコミを入れられはしたが、スマホの画面に映る彩静のぼやけた横顔を見ているだけで、彼の心は甘い幸せで満たされていた。
(次は……絶対にあのベンチで、ちゃんと言葉にするんだ。)
【翌日 檸檬紅茶店:バックルーム】
「へぇ、彩静。浅野君とずいぶん甘い金曜日を過ごしたみたいじゃない。」
暁がロッカーに寄りかかり、昨日盗撮された二人の写真をもてあそびながらニヤリと笑う。
「暁先輩……言わないでください。あれは、通常のデータ交換です……」
「データ交換でそんなに顔が赤くなるの?」
暁は笑みを消し、真剣な眼差しで彩静に歩み寄った。
「聞きなさい、彩静。そろそろ考えなさい。その眩しいフラッシュライトの下に、実は『鮮血』が広がっているのだと、どうやって彼に明かすのかを。」
彩静の体が硬直した。
「一生隠し通すつもり? 浅野君はカメラマンよ。真実を捉える瞳を持っている。今の彼に見えているのは夕陽の中で輝くモデルとしての君だけど、いつかファインダー越しに、狙撃銃を構えて血に染まった君が現れたら……」
「……」
「彼を愛せば愛すほど、真実の重さは彼を押し潰すわ。これはバイトじゃない、命がけなの。彼がこの美しい夢の中で溺れ死ぬ前に、目覚めるチャンスをあげなさい。」
彩静はうつむいた。昨日の雨の中で微笑んでいた浅野の、温かくて純粋な手を思い出す。
「……分かっています。でも、怖いんです。もし彼が、あんな私を受け入れられないと言ったら……」
「それは彼の権利であり、あなたが背負うべきリスクよ。」暁は彩静を短く抱きしめた。「言葉を全部脳内に隠したままじゃ、お別れの時間すら短くなってしまうわ。まだ『呼吸』ができるうちに、どう切り出すか考えなさい。」




