それはお告げのように
──暗闇に包まれる寝室。
うっすらと開いたカーテンの隙間からは、かすかな月光が室内に届いている。
ミルキーブロンドの髪とローズピンク色の瞳を持つ少女は、ベッドの上で膝を抱え、無意識にガリガリと親指の爪を噛み続けている。
『お前さえ生まれてこなければ──っ!』
自分の母親だという女の呪詛のような叫び声が、いまだ耳に張り付き、夜になると時々こうして自分を攻め立てる。
「……知らない、知らないっ! だって、わたしはこの世界の人間じゃないもの!」
勢いよく振り払った少女の手が、ベッド脇に置いてあったガラス製の水差しに当たる。
水差しは壁にぶつかった衝撃で、ガシャンッと大きな音を立てて割れた。
少女の母親だという女は子爵家当主の子どもを身籠ったが、平民の女が貴族の家に迎え入れられるはずもなく、門前払いされ、やがてひとりで産んだ。母子だけの暮らしは貧しく、日々の食べ物にも困るほど。そのため、女はお荷物でしかない娘の少女をひどく恨んだ。
ある日、女に殴られた際に柱に頭を強く打ちつけたとき、少女は唐突に思い出した。
この世界とはまったく異なる世界──。
そこでの少女は、恋愛小説を読むのが好きな普通の女子高校生だった。優しい両親、時々ケンカもするがなんだかんだ憎めない弟、仲のよい友人、好きな人だっていた。すべてが懐かしく、苦しいほどに自分が生きる世界はそちらだと感じる。
なのに、なぜか自分は過去に遡ったかのような大きな格差のある文明の遅れた時代にいて、貧しい暮らしを強いられ、『ミレイ』という名の少女として生きている。
激しい違和感、その一方で、どこかで見たような既視感──。
そして気づく。
自分が読んでいたお気に入りの恋愛小説の中の世界にそっくりだということを──。
一度気づいてしまえば、すべてのつじつまが合っていく。
『ミレイ』という少女も、ミルキーブロンドの髪とローズピンク色の瞳も、イーズデイル王国という名の国も、王都にある王立貴族学院も──。すべてが記憶の中にあるものと同じだった。
『……もしかして小説どおりにストーリーが進めば、元の世界に戻れる?』
少女が読んだことのある本の中には、小説の中の世界に転生したヒロインがストーリーどおりに行動し、決められたエンディングを無事に迎えることで、元の世界に戻れたという内容のものがあった。
『きっとそうに違いない──』
少女は強く確信する。
ここは小説の中の世界で、自分はたまたまここに転生しただけにすぎない。
『小説と同じ決められたエンディングを迎えれば、元の世界に戻れるはず──』
だから、待った。
母とも呼べない女にどれほど罵倒され、手を上げられても、ひたすら息を殺して耐えた。
小説の中のヒロインである『ミレイ』は、王立貴族学院に入学できる十六歳になる前に、父親であるバーリー子爵が迎えに来るはずなのだから。迎え入れられた子爵家でも決して愛情を望めるような境遇ではないにしろ、貴族学院に入学できる身分にならなければすべてのストーリーは始まらない。
なぜなら王立貴族学院に入学することで、小説の中のヒーロー役であるこの国の第一王子のベイジルと出会えるのだから。
しかし少女が十六歳になっても、学院の入学時期が過ぎても、父親であるバーリー子爵が彼女を迎えに来ることはなかった。
何かがおかしかった。
それでも願うようにひたすら待ったが、何も変化は起こらなかった。
少女は待つのを諦め、自ら子爵邸を訪れた。
門前払いされそうになりながらも、父親であるバーリー子爵との対面を果たすと、侮蔑の視線を向ける子爵に対して『第一王子と結ばれる未来が見える』と語った。そしてそのほかにもいくつかの王都で起こる未来の出来事を予言してみせた。
野心高いバーリー子爵は、少女を使える駒だと判断し、養子として受け入れた。
存在すら忘れていた庶子の無用でしかなかった娘が第一王子と結ばれ、いずれ王妃となるなら、たかが子爵家と見下す連中を見返せるだけの地位を得られる。手がけている違法な事業もますます広げられるだろう。さらにゆくゆくは男児を授かることができたなら、祖父の立場として国にも関与できるはず。またとないものを手中に収められる未来を想像し、子爵はほくそ笑んだ。
そして、少女が予言したとおり、第一王子のベイジルは少女を見初め、婚約者である邪魔なウェイレット侯爵令嬢を避け始めた。
すべてが順調に進んでいると思われた。
それなのに──。
──ダンッ!
強い憤りをそのままに、少女はベッドの硬いヘッドボードに拳を打ちつける。
思っていたようにうまくストーリーが進んでいかない。小説のとおりに行動しているのに。
少女の唇が歪む。
「ああ、そうだわ、アデラインのせいよ。悪役令嬢のくせに……。あの女が悪役令嬢らしく振る舞わないから……っ! あいつが! あいつのせいで‼︎」
少女は激しい息遣いのままベッドを降りると、手元にあった枕を手当たり次第に叩きつけ、振り回す。枕が破け、中に詰められていた羽毛が部屋の中に舞い散る。
アハハハハッ! と狂ったように高笑いする。
ひとしきり笑ったあとで、少女の瞳がギラリと怪しく光った。
「そうよ、アデラインだけじゃないわ。あのリゼ・ヨークとかいう男爵令嬢が現れたせいよ! あんな脇役なんて小説には出てこなかったのにっ! あいつも邪魔ばかりして! わたしはただ元の世界に戻りたいだけなのに──ッ‼︎」
ふーふーと荒い息を繰り返す。
少女はふと動きを止め、ズタズタになった枕をポイッと放り投げる。
「ああ、そうよ、本来いるはずのない者がいるからおかしくなっているのよ、消してしまわないと……、フフフ」
それはとても正しいことだと思えた。
ベッドから降りると、少女はさも楽しげにくるくると回り始める。
薄いネグリジェの裾が宙を舞う。
『──明日は絶対に失敗してはならない、わかっているな』
少し前、重苦しい晩餐のあとで、バーリー子爵から冷ややかに放たれた言葉を思い出す。
その言葉に対して、少女は従順さを装い、
『はい、お父さま』
と答え、笑みを浮かべた。
いよいよ明日の夜、王立貴族学院の卒業パーティーが行われる──。
本来なら学年が違う少女は参加できないはずだが、第一王子のベイジルから特別に招待されている。
明日、ベイジルが悪役令嬢のアデラインとの婚約を破棄し、この小説のヒロインである『ミレイ』を選ぶ。
そして嫉妬に狂った悪役令嬢のアデラインが、ヒロインの『ミレイ』の命を狙う。それが決定打となって、悪役令嬢は断罪されるのだ。
それは覆らない。なぜなら、小説のラストはそうだと決められているのだから──。
頭の中にある記憶が揺るぎないお告げのように、明日の夜に起こるであろう光景を自らに示して見せる。
「アハハハハッ──! やっと元の世界に戻れる! やっと──ッ‼︎」




