出会いと守りたいもの 2
深夜ということもあり、あたりはひっそりと静まり返っていた。
俺は焦る気持ちを抑えながら、案内されている広大な屋敷の薄暗い廊下を進む。
廊下の明かりが最小限になっているのは、無理を承知で人目を忍んで訪れたこちらへの配慮だろうと察せられる。
目の前を歩いているのは、特徴的な赤い髪の毛をした背の高い男──、ウェイレット侯爵だ。
イーズデイル王国における高位貴族の筆頭家門の当主であり、王都の中でも屈指の広さの敷地を有するこの侯爵邸の主。
こうして会うのは数年ぶりだが、その精悍さは健在で独特の存在感がある。
「──こちらです」
ウェイレット侯爵が抑えた声を発し、案内した先にある部屋のドアを開けて、俺を室内へと促す。
部屋の中を淡く照らすのは、壁際にあるオイルランプの明かりだけ。
室内に入ると、俺は目深に被っていたマントのフードを上げ、部屋の奥にある寝室へと続くドアのほうにさっと視線を走らせる。
「──けがの具合は?」
背後に向かって、努めて感情を抑えるように尋ねる。
「医師によれば、骨に異常はなく、幸いにも打撲程度とのことです」
「そうか……」
思わず安堵の息が漏れる。
リゼが王立貴族学院の階段から落ちたとの知らせを受けたのは、今日の夕方のこと。
学院に忍ばせている従者からその一報を聞いたとき、一瞬で目の前が真っ暗になった。
その後、追加の報告でひとまず命に別状はないと聞き、胸を撫で下ろしたが気が気ではなかった。
どうやらリゼは、アデライン嬢の指示でウェイレット侯爵邸に運ばれ、治療を受けたらしい。
ウェイレット侯爵は今、王国内の水面下で起こっている問題のせいで多忙を極めているのは知っている。
しかし、リゼの無事をこの目で確認しないことには安心できない。
俺は外出中の侯爵の居場所を調べ上げ、リゼのことを知らせて来た従者とは別の従者に指示をして、『今夜侯爵邸を非公式に尋ねたい』との手紙を持たせて送り出した。
突然の申し出に侯爵が驚き、急いで屋敷に戻って来たであろうことは容易に想像できたが、それでも慌てた様子をみじんも感じさせないところは、さすがは配下の多くの家門を束ねる当主と言えた。
ややあってから、侯爵が口を開く。
「今は深く眠っているようです。おそらく明日には目を覚ますのではとのことですが……、どうされますか?」
リゼの無事を確認しに来たものの、顔を見て安心したいと強く思う一方で、寝ているところに本人の許しもなく近づくのは、今さらながらためらいを覚えた。
しかしそれを見透かしたような侯爵の言葉に、ふっと肩の力が抜ける。やはり顔を見ずに帰るなんてできそうもない。
「……すまない」
そう言って侯爵の配慮に感謝しつつ、壁際にあったランプを手に取り、寝室へと足を踏み入れる。
背後の開けたままのドア付近、監視するように侯爵が立つ気配がしたが、あえて振り返りはしなかった。当主として屋敷に滞在している客人、さらには娘のアデライン嬢を助けた恩のある少女の身を預かる立場もあり、未婚の若い令嬢を男とふたりきりにするような状況までは容認できないのは当然だろう。
ベッド脇のサイドテーブルの上にランプを置く。ベッドのそばには椅子があった。おそらくアデライン嬢か看病する者がここに座って、付き添ってくれていたのだろうと思えた。
ベッドの上のリゼは静かな寝息を立てて、深く眠っていた。
「リゼ……」
ゆっくりと手を伸ばし、その丸い頬に触れる。
あたたかく吸いつくような感触、それをたしかめるようにそっとひと撫でする。
深く息を吐き出すと、ようやく無事を実感でき、安堵した。
惜しむようにその寝顔を目に焼きつけてから、切り替えるようにランプを手に持つとすっと立ち上がる。
「アデライン嬢は?」
寝室を出て、隣の部屋に戻ってから侯爵を仰ぎ見て尋ねる。
「今は自室で仮眠をとっています。付きっきりで看病して、片時もそばを離れようとしなかったようで……。侍女が何度も声がけして、少し前にようやく自室に下がったようです。この部屋は人払いしておりますのでご安心ください」
「そうか……。突然の申し出にもかかわらず、受け入れてくれ感謝する。ところで、なぜ彼女が階段から落ちたか知っているか?」
侯爵はわずかに逡巡するそぶりを見せたあとで、
「……娘は言葉を濁していたようですが、すれ違いざまにとある令嬢とぶつかった際に、階段から落ちそうになった自分を助けようとしたところ、リゼ嬢が代わりに足を踏み外してしまった、と」
慎重さも持ち合わせているアデライン嬢ならそう説明しそうだと思えた。確信が持てない状態で軽はずみなことは言えない自身の立場をきちんと理解している。
俺は侯爵を見つめ、
「そうかもしれない。でもその令嬢はアデライン嬢にわざとぶつかり、なぜか自ら階段から落ちようとしていたようにも見えた、という証言もある」
「──まさか」
侯爵は目を見開く。
「まだたしかなことは言えない。でも注意しておいたほうがいいだろう」
侯爵は考えるそぶりを見せ、すぐさま真剣な表情を浮かべると、
「ご忠告、感謝いたします」
俺は頷いて応えてから、マントのフードを目深に被り直す。
その後、侯爵のあとに続いて、来たときにも通った薄暗い廊下を戻る。
しばらくして着いた屋敷の裏口、そのドアをくぐると、待機を命じていた俺のふたり従者が両脇にぴたりと寄り添う。
俺は振り返り、戸口に立って見送ろうとしている侯爵に視線を向ける。
「──そうだ、ウェイレット侯爵」
今夜訪問した一番の目的はリゼだが、それ以外にも重要なことがあった。
「近々、狩りを楽しむご予定は?」




