出会いと守りたいもの 1
「ずいぶんと顔を見るのは久しぶりだが、元気そうだな、レスター」
そう言いながら、父であるこのイーズデイル王国を統べる壮年の国王は鷹揚に笑う。
輝くようなプラチナブロンドの髪と深い青色の瞳の華やかな容姿をしている国王に対し、自分は王妃譲りの漆黒の髪に淡い空色の瞳だ。
「まだ戻る気はないのか?」
豪奢な椅子の肘掛けに肘をついた国王は、興味も含んだ見定めるような視線を向けてくる。
俺はまったく意に介さないように、わざとふっと微笑んで見せ、
「ええ、まったく。準備が整い次第、またすぐに出発します」
「そうか……」
国王はこれみよがしに大きく、はぁと息を吐き出す。
国王がそういう反応を見せるのも無理もないことだ。なぜなら、俺はこの国の第二王子という立場にあるにもかかわらず、八歳のころに王位継承権放棄を申し出て、周辺諸国への遊学と称してこの国を出たのだから。
以来、こうして顔を見せに来いと催促されるまでは、国に戻ってくることはほとんどない。
前回戻ってきたのは、一年以上も前だったか。
世界は広い。ひとつのところに留まっているだけではもったいない。見るべきもの、学ぶべきもの、それらは星の数ほどある。
それに──、と考えそうになり、すぐにそのことを頭から追い出す。気持ちを切り替え、
「今回一か月ほどは滞在しますので、その間王立図書館に通いたいのです。新しい蔵書も増えているでしょうし。内々に許可をいただけないでしょうか?」
国王はひとつ頷き、
「ああ、わかった。館長のメイソンにはお前が出入りする旨はすぐにでも伝えておこう」
「ありがとうございます」
「あと、お前がいつものように誰にも知らせず戻って来たのは知っているが、王妃にだけでも顔を見せてやれ。とても心配していた。お前の母親なのだから」
国王はやや憂いを帯びる表情を見せて言った。
「わかりました、あとで母上のところにも寄ります」
そう言われることはわかっていたので、俺は素直に頷く。
ややあってから、おもむろに国王が口を開き、
「レスターよ、ところで──」
「陛下」
言葉をさえぎるように、俺は続けて言った。
「私の希望は、この国を離れるときにお伝えしてから変わっていません」
「まだ何も言っておらん」
国王はすぐさま眉間に深いしわを寄せる。
「そうでしたか」
俺はしれっと答える。
「はぁ……」
「ベイジル兄上がいらっしゃいます」
俺は国王の目をまっすぐに見て言った。それがすべてだ。
「ああ、わかっている。だが、状況次第では──」
「そうならないよう願っています」
またもや俺は国王の言葉をさえぎった。
国王は呆れ返るように「お前なぁ」と言いながら、ままならない息子の俺の態度にまたも盛大なため息を漏らした。
翌朝、俺は朝一番にイーズデイル王立図書館を訪れていた。
周辺諸国を回ってみてわかったことだが、この国の王立図書館は広い大陸の中でも一、二を争うほどの蔵書数を誇り、さらには現在では絶版になっている書物や年代記などの記録の写本、禁書と呼ばれる類のものまで、さまざまな種類のものが保管されている点でも抜きん出ている。
そのため、こうして王国に一時的に戻ったときには必ず訪れて、新たに増えた蔵書で気になったものには必ず目を通すようにしている。
気になる本をいくつも抱えて陣取ったのは、数名が座れる閲覧用の大きな机の一角。
ペラペラと本のページをめくるが、この国にいるからか、いつもは頭の隅に追いやっていることがちらちら顔を覗かせ、思考の邪魔をする。
この国の王位は、兄であるベイジルが継ぐ。国を任せるに足る才能のある人物かどうかはさておき、継承順位から言ってもそれが妥当だ。
俺は王位にはみじんも興味がない。
(まあ、国王になるべき兄上が自分に不足しているものもわからず、それを他者に補ってもらっていることにも気づかないままなのがいいとは言えないだろうけど……。でも俺がわざわざ指摘してやることじゃないしな……)
それこそあのプライドの高い兄のことだ、少しでも指摘しようものなら、ものすごい剣幕でまくし立ててくるのは目に見えている。
国王は兄に不足している知力や思慮深さ、人脈、それらを強力な後ろ盾を持つ優秀な侯爵家令嬢のアデラインを王妃に据えることで補おうと考えているのはあきらかだった。
もし兄に何かあれば、スペアである自分が役割を果たさなければならないが、そうならないかぎりは不要だ。先のことなど誰にもわからないが、今は国王のもと安定した治世が築かれている。王位継承権を持つ者がふたりもいれば、無用な後継者争いを生む火種になりかねない。それだけは避けたかった。
現に俺がこの国にいたころ、幼い俺に目をつけ、国王の目の届かないところで祭り上げようとする輩がすり寄ってきたことは一度や二度ではない。
だからこそ、俺は早々に王位継承権を放棄する申し出をして、国を出た。
国王としては使える駒は多いほうがいいというのはわかる。でも何度問われようと、俺の気持ちが変わることはない。
俺はそれ以上考えるのを止め、本の内容に集中する。
それからはずっと読み続け、気づけばもう夕方近くになっていた。
机の上には、すでに読み終えた本がいくつも積まれている。腕を伸ばして凝り固まった体を少しほぐしてから、本を返却するついでに新たな本を探そうと席を立つ。
閉館まではまだずいぶんと時間はあるが、そろそろ滞在先に戻ったほうがいいだろう。確認事項や処理しなければいけないこともある。本は貸し出しを依頼して持ち出しすれば、あとは夜にでも読める。
いつもそばにいる護衛の従者ふたりのうち、連れてきているひとりは図書館にいるときだけは外で待機させている。そばをうろうろされるのは気が散るからだ。
ふと書架の上段のほうに目を向けると、気になる本があった。
背伸びをして手を伸ばすが届かない。
年齢を重ねるとともに体も成長していたが、十四歳の体はまだ大人にはほど遠い。
俺はあたりを見回し、書架の各所に用意されている梯子を探す。
すぐそばにあった梯子を移動させてのぼり、上段の本を取る。すると、少し離れた場所にも気になる本があった。
また梯子を移動させるのは面倒だったので、梯子につかまったまま、手を伸ばす。なんとか届きそうだった。
しかし、あと少しというとき、ぐらりと揺れてバランスを崩してしまう。
落ちる──。
とっさに床にぶつかる衝撃に備えたが、その前に何かが自分の体を受け止めた。
それでも床に体がドサッとぶつかる衝撃があり、続いて、ドサドサッと本が床に落ちた音がする。
「うっ、あいたた──」
自分ではない別の誰かのうめき声が聞こえて、ハッとして振り返ると、そこには俺の体を背後から抱きとめるようにしている少女がいた。
(は──? なんだこいつ?)
少女はすぐに上半身を起こすと、
「きみ! 大丈夫⁉︎ けがはない⁉︎」
大袈裟なくらいに心配して、俺の体を手当たり次第にベタベタと触ってくる。
「触るな!」
俺はその無遠慮な手を振り払うと、立ち上がる。
真正面に立つと、少女は俺よりも少し背が高く、おそらくいくらか年上なのだろうと思われたが、それが妙に苛ついた。
俺とそう変わらない年齢。なのに細い女の体で、俺を助けようとするなんて。
バカかこいつ、と思う。腕でも折れたらどうするんだ。
自分の不注意を棚に上げて、思わず怒鳴りそうになるのをこらえる。
少女はばつが悪そうに手を引っ込め、チラチラと俺を見る。
「あ、えっと、ごめんね……? けがしてないか心配だったから。でも大丈夫そう、だね?」
その態度を見て俺は、ああ、そうか、と思い、とたんに頭は冷静になる。
(俺が第二王子であると知っている者なのかもしれない)
だから身をていして助けた。こちらの身分を知るなりすり寄ってくるのは、めずらしいことではない。
その考えに思い至ると、急速に冷めていく。
「──なにが望みだ」
俺はわざと大仰な態度で言ってやった。
しかし相手は間抜けな顔で、ぽかんとしている。
「へ?」
「顔はあまり知られていないはずだが、館長にでも聞いたのか。俺だとわかっていて助けたんだろ、望みはなんだ」
「望み? え?」
少女はわけがわからないといったそぶりでうろたえ始める。そのわざとらしい態度が俺をより苛立たせる。
(この期に及んで白々しいな)
「早く言え」
面倒くさくなった俺はぞんざいに言い放つ。
すると少女は、ハッと何かに気づいたようなしぐさを見せると、
「あ! そうだね、じゃあ、もう危ないことしないでね! 今度こそけがしたら大変だよ」
そう言ってぐいっと俺の手を取ると、俺の小指に自分の華奢な小指に絡ませ、強引に指切りをさせる。
「は──?」
突然のことで、俺はあ然とする。
「はい、お姉さんと〜、約束〜、ね〜っ!」
少女は調子外れのよくわからない自作の歌を歌い終えると、あっさりと小指を離す。
床に散らばっていた本を素早く拾い上げ、傷がないか確認すると「はい、どうぞ」と言って俺に差し出す。
「あ、仕事の途中なんだった、もう行くね!」
そう言い残し、さっさとその場からいなくなった。
「──は?」
しばらくしたあとで、俺はもう一度つぶやいた。離れた小指がやけに熱く感じるのは気のせいに違いない。
それから図書館を訪れるたび、あの少女になんとなく声をかけるようになった。
少女の名前は、リゼ・ヨーク。
東端部にあるヨーク男爵家の娘で、王立貴族学院に通っている。
第二学年に進級したばかりの十七歳。俺よりも三つ年上。ああ見えて成績は上位。
生活費を稼ぐため、授業が終わったあとと休日の午前中に図書館で働いている。
底抜けにお人好しで、馬鹿みたいに素直なやつ──。
でも何も考えていないわけじゃなくて、色々と深く自分の中で考えて悩んで、最善を探す努力ができるやつ。
気づけば、王国に滞在すると言っていた一か月が経過していた。
なぜか離れがたくて、もう少し、もう少しと自分に言い訳をして、国を出るのを先延ばしにした。
国王は俺の行動に驚き、興味深そうに理由をしつこく尋ねてきたが無視しておいた。
常にそばにいる俺の従者たちですら不審がり、あろうことか本人に向かって偽物じゃないかと疑ってくるほどだった。
俺は自分の中に芽生えた初めての感情に戸惑ったが、それをはっきりと自覚するにはそう時間はかからなかった──。




