ありがとうの言葉
──誰かが泣いている声がする。
とても悲しげな声だ。
(──泣かないで)
そう口にしようとしたが、なぜか声が出ない。
「──ごめ……、なさ、い……」
泣き声のほかに、断続的な言葉が耳に届く。
手の甲には、湿ったような感触。
まるで空から落ちてくる雨粒がぽつりぽつりと肌に当たるような感触だったが、冷たくはない。むしろあたたかいくらいだった。
くぐもっていたその声が、徐々にはっきりとしていく。
「──ごめんなさい……、リゼ嬢……、ごめんなさい」
(アデライン、さま……?)
「──本当にごめんなさい、わたくしのせいだわ。わたくしがあなたを巻き込んでしまったから……、本当にごめんなさい……」
これまで聞いたことのないほどに、ひどく感情が乱れている声だった。
激しい後悔にさいなまれているように、繰り返し謝罪の言葉を口にしている。
(──アデラインさま、どうしたんですか? 何をそんなに謝っているんですか?)
わたしは必死で言葉を出そうとするが、唇は縫い付けられているかのようにまったく動かない。
体も鉛のように重たい。
それでも抗うように渾身の力を振り絞ると、かろうじてまぶたが開いた。
ぼんやりとした視界に映る天井は、自分が滞在している下宿の見慣れたシミのある天井ではなかった。
ハアザミの草模様の精緻な意匠が隅まで施されており、高級さが際立っている。
どこだろう……、と不思議に思い見回そうとすると、ようやくわずかだが首が動いた。
ゆっくりと視界を動かす。
天蓋付きベッドの上に横たわっているのだとわかる。
分厚い天蓋カーテンは片側だけ開かれていて、窓から差し込む心地よい日差しがベッドまで届いている。
それを不思議な気持ちで眺める。
「……リゼ、嬢?」
ふいに自分を呼ぶ声がした。
ベッドの脇には、目を真っ赤にしたアデラインさまの姿があった。
「アデラインさま、どうしたん、──ッ‼︎」
驚いたわたしは、声を上げて体を起こそうと力を入れようとしたが、その瞬間全身に強い痛みが走り、力なく再びベッドの上に仰向けになる。
「じっとしていて、今お医者さまを呼ぶわ!」
アデラインさまはわたしの体に手を当て、押し留めるようにしながら後ろを振り返り、
「──誰か! お医者さまを呼んでちょうだい! 目を覚ましたわ!」
どうやらここは、アデラインさまのウェイレット侯爵邸のようだった。
しかしなぜこんな状況になっているのか、わたしはわけがわからず、アデラインさまに戸惑いの視線を向ける。
アデラインさまは苦しげに顔を歪め、
「……昨日、階段から落ちたのよ、覚えてない? 一晩も眠ったままで、このまま目が覚めなかったら本当にどうしようかと……。幸い大きなケガはしていないそうだけれど、体をあちこち打っているから、まだ横になっていたほうがいいわ」
アデラインさまはわたしの手を取ると、震える両手でぎゅっと握りしめる。
(ああ、そうだ……。たしかあのとき、ミレイさまが……)
わたしはぼんやりと思い出す。
昨日の放課後、アデラインさまとわたしが廊下を並んで歩いていたところ、わたしはたまたま同じクラスの令嬢に呼び止められた。
授業のことで立ち話をしていたら、急にミレイさまが現れて、アデラインさまの背中に不自然にぶつかったと思ったら、よろけるように階段から落ちそうになった。
(ミレイさまが落ちてけがでもすれば、アデラインさまのせいになる。それだけは避けなきゃって思ったんだっけ……)
そこでわたしは、ハッと気づくと、
「──そうだ、ミレイさまは⁉︎ 無事ですか⁉︎」
アデラインさまはわたしがそんなことを尋ねるとは思ってもいなかったのか、一瞬目を大きく見開いたものの、
「……ええ、無事よ。でもその代わりに、あなたが階段から落ちてしまうなんて」
嫌悪をにじませながら、怒りをこらえるように吐き出す。
アデラインさまが誰かに対して嫌悪や怒りをあらわにするなど、初めて見た。
わたしは驚きながらも深く息を吐き、ゆっくりと首を横に振る。
「いいんです、ミレイさまが無事なら。これでアデラインさまが危害を加えたことにはなりませんよね?」
わたしは精いっぱい微笑む。ずっと寝ていたからか、少しぎこちない笑顔になってしまう。
「あなたって……、本当に……」
アデラインさまは涙ぐみながらも、微笑み返してくれる。
わたしはアデラインさまの両手に包まれている自分の手をわずかに動かし、
「むしろわたしのほうこそ、すみませんでした……。あのとき、階段がある場所で立ち止まってしまうなんて……。本当にすみません……」
本当は頭を下げて謝りたいけれど、できないのが心苦しい。
あんなに気をつけていたのに、未然に防げなかったのは完全に自分の落ち度だ。
アデラインさまはゆっくりと首を横に振る。
「謝るのはわたしのほうよ……。リゼ嬢を巻き込んでしまって……」
あまりに苦しげに顔を歪めるので、わたしは胸が痛くなる。
「アデラインさま……」
そんなことないです、あと少し一緒にがんばりましょう、絶対に断罪を回避するんです、そう口にしたかったが、わたしの体力は限界だったようでまぶたが徐々に重くなる。
それに気づいたアデラインさまが、そっと手を伸ばし、眠りを促すようにわたしのまぶたの上に手のひらをのせた。
「ゆっくり休んでちょうだい」
(……あ、まだ言えてないのに)
わたしは眠気をこらえようとしたが、抗えなかった。
「……リゼ」
アデラインさまがつぶやいた。
(あ、名前……)
アデラインさまはそのとき初めて、わたしの名前を呼び捨てにした。
まるで友人として認めてもらえたみたいで、わたしはうれしくなる。しかし、
「……ごめんなさい。……短い間だったけれど、本当にありがとう」
次いで聞こえた声は、とても悲しげだった。
何かの別れのような言葉に、わたしは不安に駆られたが、すでに意識は深い眠りに落ちていた──。




