あり得ない独り言は運命の始まり?
わたし、リゼ・ヨークがそんな悲劇に見舞われるまで、さかのぼること数刻前──。
「──きゃあっ‼︎」
突然聞こえた叫び声に、わたしは思わず足を止めた。
王立貴族学院の午前の授業が終わり、午後の授業が始まるまでのお昼休み。
教師から頼まれた書類を普段あまり近寄ることのない別棟に届けたあと、ものめずらしさから少し散策して帰ろうと思い、ひと気のない裏庭をうろうろしていたときだった。
わたしは足音を立てないように近づくと、木の陰から声のするほうをそっと覗く。
そこには誰かを取り囲んでいる様子の令嬢たちの姿が見えた。
「子爵家のくせに、ベイジル王太子殿下に気安く近寄るなんて、身のほどをわきまえなさいよ!」
「そうよ、そうよ! いったいどういう教育を受けていらっしゃるのかしら!」
「そういえば、子爵家の庶子で最近迎え入れられたんでしたわね。それなら貴族社会のことに疎くても仕方ありませんわねぇ」
くすくすと耳障りな嘲笑の声があたりに響く。
どうやら三人の令嬢が寄ってたかって、子爵家の庶子であるひとりの令嬢をいじめているようだった。
子爵家の庶子といえば、半年ほど前に学院に途中入学してきたバーリー子爵令嬢のミレイさましかいない。
イーズデイル王立貴族学院は、王国内の貴族の子息令嬢が十六歳から通う三年制の学院だ。途中入学する者はかなりめずらしく、第二学年が始まるタイミングで入学してきたミレイさまは、その入学時期や出自に加え、ミルキーブロンドの髪とローズピンク色の瞳のかわいらしい容姿なども相まって、いい意味でも悪い意味でも何かと話題になっていた。
貴族学院は家門に縛られず、学問の前ではみな平等をモットーとしているが、実際はそうではない。やはり家門の地位が高ければ高いほど周りは優遇するし、本人もそれ相応の待遇をされて当たり前だと思っているのが普通だ。
そのため、下位貴族に属する子爵家や男爵家の家門の生徒は出る杭は打たれることを早々に自覚し、波風を立てないように学院生活を送っている。弱小男爵家の娘でしかないわたしもそのひとりだ。
(はあ……)
わたしはそっと向こう側を盗み見て、心の中で盛大にため息を漏らす。
向こう側に見える三人の令嬢は、高位貴族になる伯爵家以上の家門の令嬢だ。わたしなど相手にもならないだろう。
でもだからといって遭遇してしまった以上、この状況を見て見ぬふりするわけにはいかない。
わたしは覚悟を決めて一歩を踏み出そうとした、そのとき──。
「──あなたたち、何をしているの」
さほど大きな声でないにもかかわらず、はっきりとよく通る声がした。
令嬢たちはぎくりとした様子で、後ろを振り返る。
「「「ア、アデラインさま!」」」
そこには一際存在感を放つ、ウェイレット侯爵家の息女アデラインさまが立っていた。
ウェイレット侯爵家といえば、この国における高位貴族の筆頭家門だ。家門の歴史は王家に並ぶほど古く、侯爵家が治める領地は王都をぐるりと守るように、王都に接する東部と北南の一部地域にまたがる。
そんなアデラインさまを前に、令嬢たちはややばつが悪そうに、
「この者はベイジル王太子殿下の婚約者がアデラインさまだと知っていながら、立場もわきまえず、殿下に近寄っているので注意していたのです」
「そうですわ! 婚約者がいる男性に対してあのような態度、許されません」
「このまま放っておけば、どんどん増長する一方ですわ!」
と、それぞれ言い訳を述べる。
すると子爵令嬢のミレイさまが横から口を挟むように、涙ながらに声を発する。
「そんな、わたしはただ……! ここではベイジルさまだっていち生徒ですよね! ならば友人のひとりとして接したっていいはずです!」
それに対して令嬢たちは青筋を立てて、すぐさま怒りをあらわにする。
「”ベイジルさま”ですって⁉︎」
「アデラインさまの前で、よくもそんな呼び方を!」
「立場をわきまえなさい!」
事態は沈静化するどころか、ますます悪化するばかりのようだ。
しかし令嬢たちが激怒するのも無理はない。
ベイジル王太子殿下はこの国の第一王子で王位継承順位が最も高い方になる。その方を気安く呼ぶなど、平等を謳っている学院内でも暗黙のルールとはいえ、許されることではない。
だからこそ、わたしはミレイさまのその態度に驚き、少しばかり目を丸くする。
ミレイさまはわたしと同じ十七歳で第二学年だが、クラスが違うのでこれまであまり接する機会はなかった。
噂では誰にでも分け隔てなく接する優しい方だと聞いていたが、実際にこうして見てみると、ものおじせず反論する様子や涙を浮かべてはいるもののその奥に覗く意志の強そうな瞳は、優しいというよりも自分本位の身勝手な感じが強いようにも見える。
そのとき、鋭く低い声がした。
「──何をやっているんだ」
はっと振り返った先に立っていたのは、今まさに口論の原因になっているベイジル王太子殿下、その人だった。
輝くようなプラチナブロンドの髪に、夜の空を連想させる深い青色の瞳。人目を引くほど目鼻立ちの整った容姿は、まさに物語に出てくる王子さまそのものだ。
「どうしたんだ! ミレイ嬢!」
ベイジル王太子殿下はあたりを見回したあとで、泣いているミレイさまに目を止めるとハッと息を呑み、すぐさま駆け寄る。
潤んだ瞳のミレイさまは、ベイジル王太子殿下に両手を伸ばし、
「ベイジルさま……」
としなだれかかる。
その様子は恋人に助けを求めるか弱い令嬢そのものだった。
(ああ、なるほど……)
わたしは瞬時に理解する。おそらくミレイさまは、すべてわかっていて計算でやっているのだ。
しかし、それに気づいていないであろうベイジル王太子殿下は、キッとアデラインさまをにらみつけ、
「彼女に何をしたんだ、アデライン!」
そう言って、怒りの矛先を自らの婚約者に向ける。
しかし、アデラインさまは眉ひとつ動かさず、
「……何もしておりませんわ」
と答える。
ベイジル王太子殿下は顔を歪め、「くっ! 白々しい、ミレイ嬢は泣いているではないか!」と侮蔑するようにあたりを見回しながら、「おおかた、きみがそこにいる令嬢たちに指図でもしたんだろう」
アデラインさまは無言のまま、殿下にじっと視線を向け続ける。
「はっ! 言い訳もしないのか! 昔はもっと可愛げがあったものを。行こう、ミレイ嬢」
ベイジル王太子殿下は眉間にしわを寄せ、吐き捨てるように言ったあとで、ミレイさまに手を差し出す。
ミレイさまは安堵するようにかわいらしく微笑む。そしてためらうことなく、この国の王太子である殿下の手のひらに自分の手をのせ、エスコートされながら歩き出し、その場をあとにする。
しばらくしてふたりの姿が見えなくなったあとで、アデラインさまはミレイさまに詰め寄っていた令嬢たちを振り返り、鋭い視線を向ける。
「あなたたち、勝手なことをしないでちょうだい」
令嬢たちはぐっとこらえるしぐさをしたものの、不満を抑えられない様子で、
「でも、アデラインさま! あの者の行為は許されるものではありません!」
「そうですわ! 先ほどだってアデラインさまの前で、あのようにベイジル王太子殿下にベタベタと触れて!」
「アデラインさまが何も仰らないから、あの者はどんどん図に乗っているのですわ! 今のうちに釘を刺しておかないとどんなことになるか!」
と声を荒げる。しかし、
「おだまりなさい! わたくしはそんなこと頼んだ覚えはありませんわ」
アデラインさまが一蹴する。
押し黙った令嬢たちひとりひとりに厳しい目を向けてから、
「よろしくて? 今後一切勝手なことは慎んでちょうだい」
令嬢たちは小さく口々に返事をする。
「わかったなら、もう行きなさい」
アデラインさまは、話は終わりとばかりに言った。
令嬢たちはうなだれるように、その場をあとにする。
(……なんだか、とんでもないものを見てしまった気がする)
わたしは心の中でつぶやき、そっと顔を覗かせ、向こう側にいるアデラインさまをうかがい見る。
陽の光が注ぐ木々の中でたたずむアデラインさまは、それだけで絵になっていた。
遠くを見るその表情は変わらないので、今どんな思いを抱いているのか、わたしにはわからなかった。
(婚約者がほかの令嬢と親しくしてるなんて、色々大変だよね……)
なんだか後味悪いものを感じながら、わたしはそっと立ち去ろうする。
しかし、次の瞬間──。
「くそめんどくさいですわね……」
アデラインさまのあり得ない独り言の暴言。それをうっかり聞いてしまったわたしは、こともあろうに明日からそばにいるようにと言い付かったのだった──。