謀影私議―陰に潜む復讐の密談
収容所の日々は、濁った長江の水のように、ゆっくりと澱んで流れていく。
労働が終わる夕暮れは、雲の隙間から淡い赤みが漏れ、泥の地面に薄い影を伸ばす。日が沈むごとに冷気が地から立ち昇り、木柵の柱や鉄条網に湿り気がまとわりつく。
森川雪は汲んできた汚水を桶から捨て、肩の力を抜いて息をついた。掌は薪割りでできた傷が裂け、泥水が滲んでひりひりと疼く。袖の看護婦腕章は汚れで黒ずみ、元の白さは跡形もない。
捕虜の間には密かな囁きが広がり始めていた。
故郷への思い、戦況の噂、収容所の看守たちへの恨み。中には軍の宣伝を信じ、「皇国は必ず勝つ」と呟く者もいる。そんな声を聞くたび、雪の胸は重く沈む。自分もかつて、同じ言葉を聞かされて育った。だが戦場で見た血と屍が、その言葉の虚しさを教えている。
一人の中年の軍曹が、雪のそばへ歩み寄った。彼は戦場で左腕を失い、残った手で地面の泥を掻きながら、低い声で囁く。
「お前は女だ。看護婦だから、殺しはしなかったのだろう。だが敵の土地に踏み込んだ以上、同じ罪だ。」
雪は顔を上げず、黙って聞いていた。否定も弁明も、無意味に思えた。罪の境界など、戦火の中では曖昧に溶けてしまう。誰が悪く誰が無実か、血に染まった土地の上では簡単に分けられはしない。
そのとき、背後から足音が近づく。
厳硯秋だった。
夕闇に包まれた広場を、ゆっくりと渡ってくる。彼は労働の監視に来たのではない。ただ、捕虜たちの暮らしぶりを確かめに来たらしい。軍服には埃が付き、疲れが顔の輪郭に滲んでいる。南京の悪夢が、夜になるたび彼を苛むのだろう。
軍曹は話を止め、顔を伏せた。
厳硯秋は二人の前で足を止め、暫く黙って雪を眺める。彼女の傷ついた掌、汚れきった腕章、曇った瞳を見届ける。
「負傷したか」
短い問いかけだ。叱責でも同情でもない、ただ事実を確かめる声。
雪は小さく頷いた。
「薪を割って、傷が開いただけです。大したことはありません。」
言葉はぎこちない。敵国の将校に話すという奇妙な状況に、言葉が喉に詰まる。
厳硯秋は懐から小さな包みを取り出し、地面に置いた。簡単な包帯と消毒薬だ。
「看護の心得があるなら、自分で処置しろ。」
それだけ言うと、彼はもう一度雪を見て、そのまま足を運び去った。何の感慨も口にしない。慈悲を見せたわけでも、恩を売ろうとしたわけでもない。戦場に生きる人間として、傷を放置してはならない、その一点だけを伝えたのだ。
雪は地面の包みを見つめた。長江から吹く風が、包みの紙の端をそっと揺らす。
敵が渡した薬。敵の手からもたらされた救い。この矛盾が、彼女の心の奥を揺さぶる。
だがその一幕は、木柵の陰から馬宝玶に見られていた。
彼の瞳に冷たい光が宿る。厳硯秋が捕虜、特に日本の女看護婦に便宜を図ったことを、見逃さなかった。南京の恨みを胸に秘めた彼にとって、それは許し難い弱さに見える。復讐の思いが、ますます濃くなっていく。
一方、遠く日本軍の陣地では、森川雪の名が記録に載せられていた。
戦闘で行方不明となった看護婦。敵軍に捕らえられ、敵将と私的に言葉を交わした者。軍の報告書には、「敵に心を寄せ、皇国を裏切った叛人」と書き込まれる。故郷の北海道に届く知らせにも、その汚名が刻まれる。雪自身は、自分がすでに祖国から裏切り者の烙印を押されたことを知らない。
夕闇が次第に濃くなり、収容所の灯りが薄く点る。
雪は包帯を手に取り、傷ついた掌を包む。薬の冷たさが傷口に沁みる。
遠くから砲声が微かに響き、空は重い雲に覆われ、まもなく夜が全てを呑み込む。
檻の中にいる者も、檻の外に立つ者も、誰もがこの戦争に縛られ、逃れる術を知らない。




