━━━案件01 飛野竜司郎 かりそめの海を漂う━━━
飛野竜司郎[ひの りゅうしろう]は海の中を漂っていた。
……いや、どうやら竜司郎が知っている海ではない。竜司郎は呼吸もできたし、眼は開けていても痛くないし、味覚も塩辛さを少しも感じていなかったのだ。
顔だけはどうにか動かせるようだが、首も体も脱力したまま動かない。目線だけを泳がせて見渡しても、魚もいなければくらげも微生物も、海藻も岩礁も見えなかった。
まだ意識が完全に覚醒していないからなのか、竜司郎は不思議と恐怖も不安も感じなかった。代わりに竜司郎を包み込む奇妙な安心感と浮遊感。
そんな竜司郎を、水面と思われるはるか上方でゆらめく、月とも太陽とも判別できない光源が竜司郎を見下ろしていた。
(大森建設の社員旅行で行ったダイビングの時……こんな感じの景色を見た気がする……)
(……いや大森建設は七年前に廃業して……俺は取引先だったOS物流に引き取られたんだ……)
(そこで……それなりに上手く勤続して七年めの今年はトレーラー免許も取って大型重機の回送もできるようになって……)
(たしか……今日はお得意さんから急遽仕事を頼まれて……俺が休日出勤でコンテナハウスを届けに行ったんだっけ……)
そこまで考えて、竜司郎は急速に意識が覚醒していくのを感じた。
(そうだ!俺はコンテナハウスを無事に届けて、帰り道は何時も使ってる国道からショートカットしようと峠を使ったんだ……!)
(所長が、午後は倉庫業務をしてたことにしてやるから、半ドンで帰っていいって言ってくれて、それで俺はちょっとでも早く帰ろうとショートカットを思いついて、そこで狸を轢きそうになって……!)
(でも変だ。あの時、狸を避けてぶつかったガードレールは、基礎が劣化してて俺はトラッククレーンごと谷に転落したはず……!)
矢継ぎ早に湧きあがる直近の記憶。
キャビン内を舞う伝票とバインダーと筆記用具……フロントガラスに激突するスマホとタブレット……助手席で跳ね回るトラッククレーンのリモコンと作業用ヘルメット……。
車外には、ぐにゃりと曲がったガードレール。反転する道路と切り立った崖。人ごとのようにこちらを見ている狸。不思議と思い出せない落下の瞬間と衝撃と苦痛……。
覚醒した意識の衝動のままに上体を起こして周囲を確認しようと試みたが、体は相変わらず動かないままだ。
竜司郎は現状動かせる口を何度か開閉させた。大声でも出してみるか。竜司郎が肺を膨らませたその時、竜司郎の鼓膜に声が届いた。
「目覚めましたか?。飛野竜司郎」
女性の声だった。
声は光源から放たれたようにも聞こえたし、すぐ近くで発せられたようにも聞こえた。竜司郎は動かない体の代わりに眼だけを必死に動かしてみたが、周囲には誰もいない。
竜司郎は最初に声を感じた光源に目線を向けて声をかけることにした。
「はい。目覚めました。貴女の声も聞こえています」
「私は、あなたのいた世界を統括する管理者の一人です。通俗的に言えば女神、とでも言いましょうか。これからあなたの置かれた状況と、これからを説明したいと思います」
「いた世界……ですか?」
「そうです。あなたの魂は、あなたのいた世界の肉体から切り離され、このかりそめの海に移されました」
「…………」
死んだということか……?。
竜司郎は不思議と落ち着いていた。あの高さからトラックごと転落したら助かるはずもない。
だが今はどうだ。竜司郎は自我も意識もはっきりと、自分と、この海と、女神を称する女性の声を認識しているのだ。
かりそめの海。そう女神さまは言った。生と死の境界に存在する世界だとでもいうのだろうか。そういえば女神さまは『これから』と言った。
と言うことは死以外の結末、いや、死以外の選択肢が示されるということなのだろうか?。
「原因は、あなたが轢きかけた狸にあります。かの狸が原因で飛野竜司郎、あなたの生命に我々の知的生命管理体制から外れたアクシデントが起こってしまったのです」
困ったものです、と言いたげな女神の声。
困っているのは俺の方だ。そう言いかけた竜司郎だが、人間の上位存在であろう女神さまを称する女性の手前、勤めて冷静に応対した。
「つまり、俺は本来まだ死ぬことはなかったはずなのに、あの峠の道に狸がいたばっかりにイレギュラーな死に目に遭った……と?」
「そうです。ですが、死と言う表現は適切ではありません。このようなイレギュラーは極めて希少ですが、起こりうる事象として我々にも相応の救済措置を設けているのです」
「それが、このかりそめの海だと?」
「はい。知的生命管理体制のイレギュラーによって世界から切り離された生命は、一時このかりそめの海に移され、そこで今後の去就を選択すべく準備をすることとなっているのです」
「ってことは、俺はもう元の現実世界には戻れないんですか?」
「……残念ながら、現世界の飛野竜司郎の肉体は、もう魂を接続し生命を維持することはできません」
「そう、ですか……」
竜司郎は嘆息した。体が動くなら首を垂れるか、天を仰いでいるところだった。実際に現世での死を告げられると、やはり心中に安らかならざるさざ波が打ち寄せた。




