第29話 エピローグ:冬の朝
一月の朝日は低い角度から差し込む。
カーテンの隙間を縫って窓からベッドの上までまっすぐに伸びた光の筋が、凛の黒髪を暖かい色に染めていた。瀬名は先に目が覚めて、枕に頬を押しつけたまま隣の寝顔を見ていた。
長い睫毛が頬に影を落として唇が薄く開いて呼吸のたびに微かに動いている。眉間の皺は消えていて口元には力が入っていない。シャッターを押せなかった寝顔と同じ顔。あの夕方とこの朝は季節も光も違うけれど、凛の寝顔の無防備さだけは同じだ。
瀬名はサイドテーブルのスマホに手を伸ばしかけて、止めた。指が宙に浮いたまま、一秒。それからゆっくりと手を引き戻し、スマホをテーブルの上に置いたままにした。
この顔は記録するものではなくなった。写真フォルダの中に閉じ込める一枚ではなく、毎朝、隣で見るものだから。目が覚めて、首を傾けて、すぐそこにある温度。それを知ってしまったらシャッターの音で壊す気にはなれない。
代わりに凛の前髪にそっと触れた。指先で額にかかった髪を横に流すと凛の眉がかすかに動いた。睫毛が震えて、瞼がゆっくりとひらいていく。焦点が合うまでの数秒間、ぼんやりとした切れ長の目が、瀬名の顔を認識して——凛の耳が、うっすらと赤くなった。
「⋯⋯おはよう、瀬名」
寝起きの声は低くて少し掠れていて、昼間の声よりもっと柔らかい。瀬名はこの声が好きだ。
「おはよう。今日も可愛い寝顔だった」
「⋯⋯毎回言う」
「毎回可愛いからね」
凛が目を逸らした。布団の端を引き上げて鼻の下まで隠すが耳の赤さだけは隠しきれていない。瀬名はその反応を見て笑った。何ヶ月経っても「今日も可愛い」と言われるたびに耳を赤くする凛のことを、瀬名はたぶん一生からかい続けるだろうし、一生愛おしいと思い続けるだろう。
布団の中で凛の手が瀬名の手を探した。指が触れて、絡まった。凛の指は温かい。冬の朝なのに、もう冷たくない。
「⋯⋯瀬名」
「ん?」
「今日、どこ撮りに行く?」
撮影の予定を聞いてくる凛の声には迷いがない。瀬名から「行こう」と誘われるのを待つのではなく「どこ行く?」と二人で撮りに行くことが前提になっている。日常として組み込まれている。瀬名はその変化を噛みしめながら、少し考えた。
「初詣の神社とか。朝の光がいい感じだと思う」
「⋯⋯うん、いいね」
短い承認と肯定。以前の凛なら「⋯⋯うん」だけで終わっていたかもしれない。あるいは「瀬名が行きたいなら」と自分の意見を隠したかもしれない。たった三文字の「いいね」は凛にとっては十分に能動的な返事で、瀬名にはその重さがわかる。
神社の境内に朝日が落ちていた。
冬の光は鋭くて透明で、石畳の上に杉の木の影を長く引いている。参拝客はまばらで手水舎の水が凍りかけていた。吐く息は白く、空気が冷たくて澄んでいて目に映るものすべてがその輪郭を際立たせている。
凛がカメラを構えた。
一眼レフを持ち上げ、ファインダーを覗き、石段の上から差し込む朝日を捉えようとしている。膝を少し曲げて低い位置からアングルを探る凛の姿勢は真剣そのもので、周囲の音が凛の中で消えているのが横から見てもわかった。シャッターを切る。一枚。角度を変えてもう一枚。液晶を確認して、小さく頷く。
瀬名は少し離れた場所から、その横顔を見ていた。
四月の河川敷。水面の反射を撮るためにしゃがみ込んでいた凛の横顔を、瀬名は望遠レンズ越しに一枚だけ撮った。あのときの凛は瀬名のことをまったく知らなかった。瀬名の存在に気づいてもいなかった。
中性的で整った横顔。少年のようで少年ではない、少女のようで少女ではない、性別の境界を拒否したような美しさ。心臓が跳ねて「この子がほしい」と思った。
今、神社の境内でカメラを構えている凛の横顔は、あの日と同じ角度をしている。切れ長の目、すっと通った鼻筋、ファインダーを覗くときの真剣な眉。でもあの日にはなかったものがある。口元のわずかな柔らかさ。肩の力の抜け方。ときどき瀬名の方を振り返って目尻が緩む瞬間。
凛が振り返った。
朝日を背に、瀬名を見て、口元がほんの数ミリ上がった。
瀬名はスマホを構えて今度はシャッターを押した。
撮れた写真を凛に見せる。画面の中の凛が金色の朝の光に包まれて笑っている。控えめな笑み。でも確かに、笑っている。
凛が画面を覗き込んだ。数秒、画面の中の自分を見つめて、少しだけ目を見開いた。
「⋯⋯私、こんな顔してるんだ」
同じ言葉だった。瀬名が撮った写真を初めて渡したとき凛は同じことを言った。あのときの声は驚きに満ちていた。自分でも知らない自分の顔に出会った衝撃。瀬名のレンズに映る自分が、自分の認識とまるで違うことへの戸惑い。
「瀬名が見る私は、私じゃないみたいだね」
今の凛の声には驚きがない。代わりに柔らかい確認がある。瀬名に見られている自分を、もう知っている。知っていて受け入れている。「こんな顔」をしている自分が、瀬名の隣にいるときの自分なのだと、わかっている。
「凛は凛でしょ」
瀬名はそのことに気づきながら微笑んだ。
境内を二人で歩く。石畳を並んで踏みながら凛が杉の木の幹に朝日が当たっている角度を見つけてカメラを構え、瀬名がその横で手を後ろに組んで待つ。凛がシャッターを切り、液晶を確認し、首を傾げ、もう一枚撮る。その繰り返し、特別なことは何もない。ただの一月の朝の、ただの撮影散歩。
でもこの「ただそれだけ」が、半年前の瀬名 蒼には想像もできなかったものだった。
凛を見たとき瀬名は手に入れたい。自分のものにしたい。攻略して、支配して、あらゆる角度から味わい尽くしたいと思った。それが瀬名の欲望の形で、欲望の形が変わることなど想定していなかったから。
でも、変わった。
この子は私の「もの」ではない。私の隣にいてくれる人だ。凛が自分の足で歩いて自分の声で「瀬名がいい」と言って、自分の意志でここにいる。そのことの尊さを十分に理解している。
だから、ちゃんとしなければならない。この子が明日も、その次の日も、隣にいたいと思い続けてくれるように。手を抜いたら終わる。怠慢に堕ちたら終わる。それを知っているから——約束した。
凛がカメラを下ろして、瀬名の方を見た。
「⋯⋯瀬名、撮らないの?」
「今日は凛を見てるだけで満足」
「⋯⋯また大げさ」
「大げさじゃないよ。事実」
凛の耳が赤くなった。「⋯⋯まったく、もう」と呟いて目を逸らした。
瀬名は笑った。
——最高だ。
心の中でそう思った。声に出さなくてもこの笑みだけで十分に伝わる。攻略者の笑みではなく、恋人の笑み。所有の喜びではなく共にいることの幸福。その違いを瀬名はようやく掴み取った。
冬の朝の光が白くて、空気が冷たくて、隣を歩く凛の肩が瀬名の肩にときどき触れる。それだけの朝を、明日も、明後日も、重ねていく。




