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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第28話 二人きり──幕引き

 オムライス、美味しかった――最後に残した彩音の言葉はドアが閉められると共に空気へ溶けて消えた。


 金属の留め具が受け口にはまる、小さな音。たったそれだけの音が部屋の中に響いた。彩音の足音が廊下を遠ざかっていく。ヒールがコンクリートを叩く音が一歩ごとに薄くなり、ほどなくして、それも消えていった。


 部屋の中は静かなままで凛はソファに崩れるようにして座った。座ったというよりは膝から力が抜けて身体がソファに落ちたというのがただしいか。


 両手で顔を覆ってはその隙間から声が漏れだす。声を殺そうとしているのに抑えきれない感情が溢れて止まらない、嗚咽でもなく慟哭でもない呼吸の間に混じる、壊れた吐息のような音。


 凛は泣いていた。


 彩音との一年間の関係が終わった。自分の口で「別れてほしい」と「好きだった」と「我慢して愛されるのは嫌だ」といい切った。

 

 それもすべて自分の言葉で。誰かに言わされたのではなく自分の声で。それができたという安堵と、一年分の記憶がまだ体温を持って身体の中にあることの重さと、もっと早くこうすべきだったという後悔が、全部一緒に胸から溢れて涙になって目から出ていく。


 瀬名は何も言わずにそっと凛の隣へ寄り添った。


 「大丈夫?」とも「よく頑張ったね」とも言わない。大丈夫ではないことは凛の様子を見れば明らかであったし「頑張ったね」という言葉は凛を子ども扱いにするようだから。


 だから何も言わずに凛の背中に右手を置いた。肩甲骨の間を手のひらの重さだけを預けて、一緒にいるからねと伝えるように。


 凛が泣いている間も瀬名は動かなかった。背中に置いた手を動かさず、凛のリズムに合わせて呼吸した。しだいに時計が音を取り戻し、冷蔵庫のモーターの微かな唸りが聞こえ出す。窓の外を車が通り過ぎていく駆動音。日常の音が、少しずつ部屋に戻ってくる。


 どれくらいの時間が経ったのか。気がつけば凛の肩の震えがゆっくりと収まっていった。手で顔を覆ったまま、呼吸が深くなる。乱れていたリズムが整っていく。


 凛が顔を上げた。


 目が真っ赤で鼻先も赤い。睫毛が濡れて束になっている。いつものクールな凛の面影はどこにもない。泣いた後の幼い顔。それでも凛の目は瀬名を真っ直ぐに見つめていた。


 かすれた声が出た。


「⋯⋯瀬名は、ずっとこうするつもりだったの?」


 瀬名は少し間を置いた。凛の目を見たまま。


「⋯⋯うん」


 声は落ち着いていた。昨夜のベンチで涙を流した瀬名の声とは違う。あのときは感情が堰を切っていたが今の瀬名には、全てを通り過ぎた後の静けさがあった。鎧は昨夜脱いだから今日はもう裸のまま、凛の前にいる。


「最初から凛を奪うつもりだった。全部計画で、全部計算だったよ」


 「手段が狡かった」と告白したこと。あれは本当でも今日の言葉は一段深い。凛が彩音と別れた今だから言える瀬名の醜くて汚い深層 「都合の良い女」のポーズすら、もう残っていない。


「サークルの新歓で凛を見た日から、ずっと。写真を撮ったのも、暗室で話を聞いたのも、ココアを淹れたのも。全部、凛を手に入れるためだった」


 凛は黙って聞いている。瀬名から目を離さない。


「でも——途中から計画とかどうでもよくなった。それだけは昨日言ったことと同じ」


 瀬名の視線が凛の目の奥を捉えている。嘘がない、何重にも張り巡らされていた策略の層が全部剥がれた後の、欲望まじりの綺麗な瞳で。


「⋯⋯私にできるのは、これから先、凛を後悔させないことだけだよ」


 声が少し低くなった。感情が溢れるそうになるときの瀬名の声。でも今日は溢れてはいない。溢れる一歩手前で、ぎりぎり保っている。


「私は凛が好き。最初から好きだった。手段は最低だったけど、気持ちは本物」


 瞳が揺れる。


「——これだけは、信じて」


 凛は瀬名の顔を見つめていた。今日の瀬名は泣かない代わりに真摯な眼差しで凛を待っている。その目の中に凛は全部を見た。出会ってからこれまでの道のりを、策略と、本気と、鎧と、その下にあったものを。


 凛は右手をそっと伸ばして瀬名の左頬に指先を触れさせる。涙を拭う動作ではなかった。今日の瀬名は泣いていないから。ただ触れていたかった。瀬名の頬の輪郭を指先でたどるように。この人が、ここにいることを。この人の体温が、自分の指先に伝わることを確かめるように。


「⋯⋯知ってる」


 凛の声は小さい。いつも通りの言葉数の少ない凛の声。でもその声には今日一日で凛が獲得した全ての重さが乗っていた。


「瀬名が最低な女なの、知ってる。計算してたのも、狡いのも、全部知ってる」


 瀬名の呼吸が止まった。凛の指が頬の上で微かに動いた。


「でも——ブランケットかけてくれたのも知ってる」


 ソファで眠った凛にシャッターを押す代わりに瀬名がかけたブランケット。最初から凛は薄目で気づいていた。


「手紙読んで泣いたのも知ってる」


 記念日に渡せなかった手紙を瀬名が読んで視界が滲んだこと。目を赤くして「これを読んでもらえなかったの、私が一番悔しい」と言ってくれたこと。


「走ってきてくれたのも、知ってる」


 あの夜。「今日、ダメだった」というメッセージを見て、居ても立っても居られずに計算も策略もなく走ってきた瀬名。息は整えていたけど顔が赤らんでいて、髪が直りきっていなくて靴紐も結び直した跡があった瀬名。


「⋯⋯全部、知ってるよ」


 凛の指が瀬名の頬から離れた。代わりに凛の手が下りてきて瀬名の左手を取り、指を絡めた。


「だから、信じてる」


 瀬名は唇が震えて泣きそうになり、目をきつく閉じた。喉の奥から何かが昇ってくるのを、全身で押さえ込むのに必死で表情を取りつくろうことも出来ない。


 凛の言葉が瀬名の中を通り抜けていく。「全部知ってる」 策略も、本気も、鎧の下の重い感情も、全部。知っていて——「信じてる」と言ってくれる人が、ここにいる。


 瀬名はゆっくりと凛を引き寄せた。繋いだ手はそのままに、もう片方の腕を凛の肩に回して、腕の中に閉じ込めた。凛の髪に顔を埋めてただ腕に力を込めて、凛を抱きしめていた。


 それは支配の力ではなく、逃がさないという力でもなく、感謝に近い力の入り方だった。ここにいてくれてありがとう、認めてくれてありがとう。


 凛は瀬名の背中に手を回した。


 彩音の前では「守る側」だった凛、いつもエスコートする側、荷物を持つ側、瀬名の腕の中では「守られる側」だった凛。今、その区別が溶けている。どちらが守る側でもなく、どちらが守られる側でもない。ただ二人の体温が重なって一つの温度になっている。


 二人は長い時間そうしていた。凛の心臓の鼓動が瀬名の胸に伝わって瀬名の呼吸が凛の髪を微かに揺す。窓から差し込む白い光が、ソファの上の二人を静かに照らし続けていた。


 ふと瀬名が小さく笑った。鼻をすすりながら凛の肩口に額を預けたまま。


「⋯⋯あーあ、かっこ悪い。最高にかっこ悪い」


「⋯⋯そうでもない」


「慰めはいらない」


「慰めじゃない」


 凛が瀬名の肩口から顔を離して瀬名の目を見た。赤い目だけど泣いてはいない。でも泣く一歩手前の目。その目で笑っている瀬名は河川敷で凛を見つけたときの自信に満ちた瀬名とは全く違う人間に見えた。もっと小さくて、もっと柔らかくて、もっと——本物の顔をしていた。


「瀬名」


「ん」


「⋯⋯ありがとう」


「何に?」


「全部に」


 瀬名は凛の額に自分の額をくっつけた。昨夜のベンチと同じ距離。あのときは白い息が混ざったが今は部屋の暖かい空気が二人の間で静かに揺れているだけ。互いの瞳の中に互いの顔が映っている。近すぎて輪郭がぼやける距離。


「——こっちこそ」


 瀬名の声は小さくて凛にだけ聞こえる音量。吐息にかろうじて音が乗ったような声。


「凛が選んでくれて、ありがとう」


 凛の目が少しだけ細くなる。口元がほんの数ミリ上がったあの笑顔。瀬名が出会ったときからずっと追いかけてきた、凛の控えめな笑顔。


 瀬名が目を閉じて凛も目を閉じた。額が触れ合ったまま、唇が近づいた。どちらから寄せたのかはわからない。同時だったのかもしれない。


 唇が重なった――静かなキス。熱さはなく、初めてのキスのような甘さもなく。ただ温かくて、確かで、ここからが始まりだと告げるような。


 窓の外で冬の陽が傾き始めていた。十二月の午後の光が白から金色に変わりかけて、部屋の中の二人の輪郭を柔らかく縁取っていた。

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