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コレデオシマイ

明治になって勝は安房守の安房から安芳と名のった。アホウという言葉をもじっている。


戊辰戦争が終わり旧幕府勢力は新政府軍によって一掃された。勝は新政府下で職を得ているが、国事に大きく関わることはなく、静岡において旧幕臣たちの生活援助に明け暮れていた。


徳川家ゆかりの静岡には当主や家臣たちが暮らしており、勝も移住していた。彼は静岡の茶業に注目し、開墾が不可能とされていた台地を旧幕臣たちに開墾させた。


また勝は内乱の危機が去ってからも慶喜の名誉回復につとめている。それは旧徳川家臣としての忘れてはならない役目であった。


明治25年(1892年)、勝の長男である小鹿が亡くなった際には

「勝家は徳川に奉還したい」

といって慶喜の末子を貰いたいと頼み込んだ。慶喜は勝が自分を恨んでいるものと思っていたから、そこまで自分のことを思っていたと知り感涙した。


明治32年(1899年)には慶喜は参内を許され、天皇に拝謁した。その裏で勝も奔走している。これにより慶喜の朝敵の汚名が取り除かれたといっていい。


これを受けて勝は

「俺の役目はもうこれで終わったのだから、明日のことは若い人に頼むよ」

といって翌年に本当に亡くなっている。勝にとっては旧主家である徳川を支え、慶喜の汚名を注ぐことが人生最後の大仕事だったのである。


勝という人は偽悪的なところがあるから

「俺は徳川のために尽くす」

などとはっきりとはいわず、だから誤解を招いて恨まれるのだが、本心では近代国家のためとはいえ旧主家を政権からおりさせた後ろめたさがあったかもしれない。


また勝は西南戦争に敗れて世を去った西郷隆盛の名誉回復のためにも動いている。勝からすればともに江戸無血開城を成し遂げた同志である。彼は西郷の墓と記念碑を建てており、記念碑は移されて洗足池の勝の墓所の隣に置かれている。


晩年の勝は赤坂氷川の屋敷にて幕末維新期の人物評や時勢への意見、人生訓などを多く話しており、それが今に残っている。


勝は日本が欧米列強と肩を並べ始める中で、日本がアジアを脱してその上に軍事力で君臨しようとするのは傲慢であると考えていた。彼は黒船が来た頃から日本と清と朝鮮の同盟を想定していたくらいである。アジア諸国が対等な関係で連合することが必要と考えており、日本の大国化に人々が酔っていた時代にあって、一人冷静に世の動きを眺めていた。


彼は次のように述べている。

「今の廟堂に立つ政治家とか言ふ人たちは、日本とか、朝鮮とか、支那とか、オロシアとかいつて、これを別々に見て外交のかけひきをするから、やり損なひが多い。おれは、国々を別々に見るといふことはしないで、東洋の二字の上より何事も打算するよ」


また中国や朝鮮との交流が日本の歴史の中で大事であったことから、お互いに影響し合ってきた隣国同士で争うべきではないということを主張した。


そしてそのために軍備を強めることにも批判的であった。

「軍備拡張のことだが、それはもとより出来ることなら、拡張もしなければなるまいが、しかし法外な拡張をして貰つては人民が困るよ」


そして人々が日本の勝利に熱狂した日清戦争には反対の立場を貫いている。

「日清戦争はおれは大反対だつたよ。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人か分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ」


「おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ」


「日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだろうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」


薩長の専制となったいわゆる藩閥政治に対しても批判の立場を続け、

「長門人薩摩隼人のこの頃や我が末の代にかはらざりけり」

と詠んでこれでは幕府の頃と変わらないという皮肉を込めた。


勝が理想としたのは長崎でカッテンディーケから教わり、自らの目でアメリカにて確認した共和政治である。こんな世にするためにここまでやってきたわけではないという思いがあった。


さらに彼は足尾銅山鉱毒事件についても言及していて、「旧幕は野蛮で今日は文明ださうだ」と明治政府の対応を皮肉ったうえで、「元が間違つてるんだ」と批判した。


明治32年(1899年)1月19日、脳溢血により勝は亡くなった。享年77である。


晩年の勝が過ごした洗足池に彼の墓がある。墓は五輪塔で「海舟」の二字しか彫られていない。それは墓に自分の肩書を入れるのが通常であった当時にしては珍しいものだった。


死の直前、彼は

「コレデオシマイ」

といって笑みを浮かべたという。それが最期の言葉であった。


人間生きていたら多くの困難を味わうが、結局のところ生まれて死ぬという事実があるに過ぎない。どれだけの地位を得ようが得まいが、皆いつかは灰になるだけの存在である。難しく考えずに肩の力を抜いて暇潰しだと思って生きていけばいい、勝海舟という男からはそんな粋さを感じる。


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