7.たぶん、いちばん平和な頃でした
驚きましたわ。
まさか、トリアンリート殿下が教育係からの注意を素直に聞かれるなんて。そして、わたくしにきちんと挨拶なさるなんて。
まじまじと殿下を見ていると、その視線の種類に気が付かれたようで、その顔がぎゅうっと不機嫌さを増した。おっと不味いですわね。
「天気がよろしくて善うございました。本日は我が領地で作っております柑橘のケーキをご用意させていただいておりますわ」
「……ふん」
お好きでしたでしょう、柑橘。微笑んで見せれば、不愉快そうではあるもののそれ以上のことはなかった。
殿下の機嫌の案配はいまだによくわからないが、今はわたくしへの苛立ちよりもシレー子爵の持っている本への興味が勝っているのかもしれない。
その証拠に、本を受け取ったトリアンリート殿下はさっさと庭園へ進んでいく。
わたくしをエスコートする、という発想はいまだに無いらしい。それでも一応、わたくしを置き去りにするような歩幅ではなくなっているのは学習の成果だろう。
「邪魔はするなよ」
「御意に」
いつもの庭園に赴き、東屋に設えられた席に腰かけるや否や殿下は受け取ったばかりの本を開いてしまわれた。
よくあることなので特に気にはしていないし、読書中のトリアンリート殿下は静かで大人しいので、特に話題があるわけでもないわたくしたちの時間潰しには丁度良いので止めたことはない。
王宮の侍従たちからは「婚約者同士仲を深めるためのお時間ですのに」「ご令嬢としておもてなしする立場であることをお忘れなのかしら」と苦い顔をされているのは知っている。
けれど、そもそもわたくしは、トリアンリート殿下を公共の場にてサポートするために婚約者という地位を与えられたに過ぎない。
私生活についてのフォローはわたくしの役目ではないし、殿下に媚を売るつもりもないので、伝統として強制定期開催される「王族とその婚約者のお茶会」は、読書とおやつ休憩の時間と化している。
もちろんいつもそうしている訳ではなく、公式行事の前などは特訓の時間になるし、まったく会話が無いわけでもない。
時折、殿下からお読みになっている本の単語や用語などの解説を請われることもあり、そんな時は殿下のお隣で一緒に本を眺めていることもあった。
「何故、この場面で婦人が足を見せたことを叱られているのだ?」
「高貴な女性はみだりに足を見せてはならないからですわ。特にご結婚されている夫人は、旦那以外に足を見せることは不貞を疑われるくらいのはしたない行為ですのよ」
「ダンスの時は見えるではないか」
「スカートが翻って見えてしまうことと、スカートを持ち上げて見せることは同じだと思われます? 見えるとわかっていて裾の短いドレスを纏うというのは、そう言うことですわ」
「あー……」
例えを用いながら話せば、殿下も納得したようで、なるほど、とひとり呟いてまた視線を本へ戻して行く。
わたくしは国で最も高価な紅茶を心行くまで堪能しながら、その横顔を目の端で眺めた。
真剣に本を読んでいるトリアンリート殿下は、いつも不機嫌全開で、癇癪ばかり起こしていた姿が嘘のように静かだ。
食べながら読むと本が汚れる、と注意した時も素直に聞き入れ、ケーキや焼き菓子を食べる時はちゃんと従者に預けるようになった。
今のところこんなに聞き分けが良いのは本に関したことだけとはいえ、他の面も少しずつ改善が見えていて、なんだか感動してしまう。
公の場でも、わたくしがフォローしなくてはならない場面も、半分とまではいかないもののだいぶ少なくなった印象だ。
これまで事情を知っている範囲の人間に留めていた対面の挨拶を高位貴族全体へ行えるようになり、男爵位まで含めた貴族たち皆の前へ立つことも出来るようになった。
そうすると、彼の艶かな金の髪、意思の強そうなはっきりした目鼻立ち、手入れされた肌のなめらかさといった容貌の美しさが目立ってくるようになった。
身長も伸び、手足はすらりと長いので王族の絢爛な衣装もよく映えていて、見た目だけなら我が国最高の美少年と言っても過言ではない。
式典などでは、事情を知らない若い使用人たちや、社交界デビューしたての令嬢が殿下を見てぱっと頬を染めるのを良く見かける。
「……なんだ」
わたくしの視線に気付いて、殿下がいぶかしむように顔を上げた。
「そうやって大人しくされていると、まさしく物語の王子さまのようだと思いましたの」
「……愚かな。ようなではなく、俺は真に王子であるぞ」
「左様で」
プライベートな部分では相変わらずこんな有り様で、頻度は減ったものの癇癪もなくなってはいないし、暴言は語彙が上がったぶん辛辣になっている。
とてもではないが理想の王子様、とはいかないのだが、それはほとんどの人間が目する機会はないことだ。王宮がなるべくなら隠したいと思っていることを喧伝するような真似はしない。
それに、外面だけとはいえ生来の激しい気性を頑張って抑え込めるようになっては来たのだ。貯まるストレスを王子宮という自分の領域で発散しているのかもしれない。
あくまで契約としての婚約ではあるものの、一年の何割かを過ごしてきたのだ。手のかかる弟ぐらいには情がある。この程度の八つ当たりめいた癇癪は、まあ許容範囲ではないかしら。
「ヴェリアルデ」
「はい」
ぼんやり殿下を見ていると、不意に名前を呼ばれた。
いつの間にか本は閉じられ、陽を受けてきらめく鮮やかな新緑の目がまっすぐわたくしを見て、きゅっと眉根を寄せている。
「さっきから俺の顔を眺めて、何を考えている」
「いえ、もう学院へ入学する年だなんて、早いものだと思いまして」
「ふん。どうせ、入学式典が心配だなどと思っているんだろう。そろそろ俺の隣に侍るのは嫌気がさしてきたのではないか?」
殿下は挑発的に口角を上げたが、どこか自虐的にも聞こえる物言いに、わたくしはにっこり笑い返した。
「あら、殿下の成長を隣で見ているのは、案外楽しいものですわよ」
「チッ……そなたの生意気さは相変わらずだな」
不機嫌そうにしてはいても、食器に当たるでもなく紅茶を飲む姿は、初めて会った日に比べると見違えるように優雅だ。
この調子なら、学院へ入学してからも大きな問題を起こすことは少ないだろうと、わたくしも周囲も胸を撫で下ろしいた。
――が、当然ながら貴族社会というのは一枚岩ではない。
特に我がマンナーカノ王国は、元々は地方豪族が寄り集まった小国家連合に端を発する。そんな成りたち故に、元一国の主たる矜持も高く領主の自治権が強いため、貴族たちは自身の領地の利益を優先する傾向が強い。
各々の主義や利権に対する考え方も、国への帰属度合いも様々だ。
特に新興貴族になると、成り上がり思考が高いと言うと語弊があるが、伝統や格式をものともしない者もおり、保守的な高位貴族では考えもしないような大胆な手を打つこともあった。
どう言うことかと言うと、わたくしたちが貴族学院へ入学して、半年が経とうとしていた頃。
アウトナー男爵家の令嬢、シェリリエ・アウトナーがトリアンリート王子の恋人に名乗りをあげたのだ。




