海の底へようこそ
蛸の腕に絡め取られたと思ったら別の空間に移動していた。
真っ黒だった視界が開けて、暗い水の中、水底の様な場所に居る事が分かったのはいいが、それどころではない。物凄い吐き気に襲われている。
空間を移動したせいか、滅茶苦茶になった三半規管が悲鳴を上げる。
「き、気持ち悪い、やばい、吐く……」
「おい、大丈夫か?」
「うぉぇえ」
「……」
地面であって地面ではない、そのまま水面となっている足元に、嘔吐した。
豪華な朝食が、無残な液体となって水面に溶け込んでいく。
どういう仕組みなのかは分からないが、床でないならば良かったと見当違いな事を思った。
たこさんは静かに横に立ったまま、オエオエ言う私を見つめていた。
なんかもう少しすることあるやろ、と思わんでもないが、そういう気遣いには疎そうな蛸である。
「うう、ちょっとスッキリした。水とかあるかな」
「水だな。真水でよいか?」
「うん」
黒い触腕をくるりと回すと、水の玉が現れる。私の頭と同じくらいの、丸い水の玉がふわふわとこちらに近付いてくる。
これをどうしろと?
あまりわがままを言っても仕方がないので、水の玉に頭を突っ込んだ。
口の中を濯いで、水の玉から頭を引っこ抜くと、なんとなく清潔になった気がする。
でも、風呂に入りたい。
それどころではなかったのを思い出して、尋ねる。
「ここ何処?」
「ここは私の魔領だ。地理的に説明するならば、お前の居た場所から北にある海の中にある。海底に一つの空間をつくって、そこを住処としている様な形だな」
海底に薄い膜で空間を作ったような場所だった。
地面は岩場ではなく、そのまま海面という形だが、水の下には岩場が見えていて、カラフルなサンゴ礁が広がっている。
空間の端は見えない。暗くなっているから見えないのか、広すぎて見えないのか分からない。
「かなり広いけど、全部家という感じなの?それとも、この辺り全体の領主みたいな扱いなの?」
「ふむ。そういうならば、全部私の家と言ったほうが近いな。ここに他の生き物は住んでいない。そこの水面を越えて向こうは海になっているだろう?そこには数多の生命がある。この場所は、私と彼らを区分する為の防波堤のようなものだ。私のようなものが外界と強く繋がっていては、理が乱れるからな」
「うん、分かったようで分からん!」
「そうだろうな」
大人が子供に、分からないだろうが説明してやらねば理解できぬからと教えるような言い方だ。その通りなのだろう。感覚的なものだが、この蛸足の魔法使いは私よりずっと長い時間存在している。
大きなホールの様な、真っ黒な空間を眺めて尋ねる。
「何も無いじゃん。いつも何してんの?」
「特に何かをするという事はない。強いて言うのならば、お前の夢に出ていた様に、外の世界を眺めているな。僅かにならば干渉もする。まあ、気紛れだ」
「暇そう!魔法使いならなんか色々出来るんでしょ?」
「ふむ、お前の色々なことが出来るというのが、物質的ものを創ることを想像しているのならそうだろうな。私達は世界の在り方を捻じ曲げることができる」
「楽しそうだけどそうでもないんだ?」
「お前の言葉を借りるなら、最初は楽しいが飽きる、という奴だ」
「そっかぁ。じゃあ、暇過ぎて話し相手欲しくなったの?」
「ふはは、そうだな。そうなのだろうな」
「他の人と話したり、遊んだりしないの?魔法使いは、まあ、厄介な人が多いんなら、人間は?」
「只人は皆、私を畏れる。それに、彼らもそこにいる魚たちと同じなのだ。私のような共に者と長く在ると自然のものから逸脱してしまう。人の営みを無闇に壊したくは無い」
「優しいんだね。私も危なかったりする?」
「お前はこの世界の理の外から来た。お前は魔法使いでは無いが、存在の在り方としては我々に近い。己れで変わろうとする以外、変容を受け付けぬ」
「うん?まあ、一緒にいても問題は無いという事でいい?」
「そうだ。だからこの場に連れてきた」
「なるほどねぇ、でも何もないの、私は困るよ」
「そうか、では何か用意しよう」
能面の様な顔を少し傾けて、それから真っ黒な空間を見た。目線の先から黒い靄が出現したかと思うと、それがあっという間に広がり小さな一軒家が現れた。
ログハウスのような家が、真っ黒な空間にぽつんと一つ。
暗いと思ったのか、彼がフウっと息を吐くと、その吐息が光の粒となって辺りを照らした。
家の周りだけが明るくなって、ライトアップされた様な形になる。
「い、家が出現した」
「気に入らぬか?」
「いや、大丈夫です。凄いね……」
「そうか?まあ、程度の差はあれど、こういう事が我々には出来るのだ。だから、若い魔法使いは己を絶対と思い込む。そして、世界の理を乱す」
「あー、ユリエルさんの事言ってる?」
「まあな。アレはまだ若い。しかし強過ぎる。強い力は自分さえも歪めてしまう。だから、自分に干渉できないお前を傍に置いておきたいのさ」
「はあ、まあ、なんでも思い通りに出来るのもつまらないし、不安になるってことね。若いから情緒も不安定になりがち的な?」
「そうだな。人の感覚的に言えば、それに近いと思うぞ」
ルリエルの事を思う。うつくしい灰色の魔法使い。青い目が空のように輝いていた彼。私に好意的だった彼を裏切るような形になってしまった事を悔いている。
「何にも言わないまま来ちゃったし、ユリエルさんから見ると、私がたこさんに攫われたみたいな認識になってそうだけど、話し合いとか出来るかな?」
「無理だな。そう思ったからお前も私と共にここに来たのだろう」
「だよね……。一緒に暮らさせてもらって、恩は感じてるから、ちゃんとお礼は言いたかったんだけど」
「ふむ。まあ気にするな、と言いたい所だが、あの灰色は執念深そうだから、向こうから来るやも知れぬ」
「あーたこさんから見てもそうなんだね」
「うむ。若い魔法使い故の過剰さかと思っていたが、奴のあれば性質だな。そうそう変わらぬぞ」
「更に話し合いが遠のいた……」
「まあ、気の済むまで、ここで考えながら過ごすが良い。奴のところに戻りたいと思うならばそれも良いだろう。勧めはせんがな。それに、そうだな、外を見たければ偶になら連れてゆこう。外界に影響を及ぼさぬ程度にならばな。私のように外を視る力が無ければ、お前の言う通り、退屈だろう」
「ありがとう!はあ、なんか久し振りに気が抜ける」
黒い水面に行儀悪く寝っ転がって、目下に広がる虚空を眺める。
何も無いかと思っていたが、海の中なので、目を凝らすと暗い水の中に魚が泳いでいる。
「あ、ずっと聞こうと思って忘れてたんだけど、たこさんの本当の名前は何なの?ずっとたこさんって呼ばれるの嫌じゃない?」
「名前は名乗らぬ。お前の事も私の事も縛ることになる。その渾名は嫌いではない。海の悪魔は私も好きだ」
「そっか!私は自分の名前憶えてないんだよね」
「そうだったか。でもそれで良いかも知れぬぞ。そうであるならばお前の中を覗いたとて誰もお前の真名を知ることが出来ぬ。誰もお前を縛れぬ」
「そっか。なら、とりあえずいいか。ん、じゃあ魔法使いってあんまり名乗らないの?」
「そうだな。通常、色や其奴の得意とする魔法種別での渾名で呼ぶな。私ならば『黒の魔法使い』と呼ばれる事が多い。他は、『海の』とかそれぞれ好きなように呼んでいるな。そもそも、魔法使い同士は滅多に会わん。私達とて、無闇に殺し合いなどしたくないからな」
「そうなんだ……。じゃあ、ルリエルは特殊なんだね」
「奴なりの誠実さだろう。まあ、街の人間も知っている様だから、生まれたてではそんなものかな?魔法使いは隠していなくとも、いつの間にか周囲から名を知っている者が居なくなるからな。外では『灰色の』と呼ぶと良い。大体は伝わるだろう」
「うん。ありがと」
知っている人間に置いていかれる魔法使い達の在り方は、少し切ない気がした。




