第二百十四話 崩山神の記憶
『大地ニ……カエリ……タイ……』
地底から響いたその声に。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
《崩山神》。
神代より封じられ。
世界を震わせた災厄と伝えられ。
今まさに蛇の牙によって復活させられようとしている存在。
その願いが。
ただ――大地へ帰りたい。
それだけだとは、誰が想像できただろう。
「……どういうことだ」
ビルセイヤは白枝を下げたまま、亀裂の奥を見つめる。
巨大な岩の腕。
その表面には黒い結晶が食い込み。
溶岩のような赤い光が、その隙間から漏れ出している。
『クル……シイ……』
『カラダ……ガ……』
『バラバラニ……ナル……』
「身体が?」
エミリアが息を呑む。
フィリアは地脈探知杖を強く握り締めた。
「待ってください」
琥珀色の光が揺れる。
「この魔力……」
「何か分かるのか?」
「崩山神の力と地脈の力が、ほとんど同じなんです」
「同じ?」
ツバサが眉をひそめた。
「じゃあ、こいつも大地の神ってことか?」
「おそらく……ですが」
フィリアの表情が曇る。
「それだけではありません」
地脈探知杖を地霊樹へ向ける。
黄金。
黒。
赤。
複数の魔力が複雑に絡み合う。
「崩山神は、地霊樹に封じられているというより……」
一瞬、言葉を選び。
「地霊樹と一体化させられているように見えます」
「一体化?」
セシリアが驚く。
「どういう意味?」
「封印の仕組みが、ただ閉じ込めるものではないんです」
フィリアは地面へ膝をついた。
「地霊樹が崩山神の力を吸い上げ、その力を地脈へ流している」
「そして地脈は、その力を大地全体へ循環させています」
ビルセイヤは目を見開いた。
「つまり……」
「この世界の大地は」
フィリアが静かに答える。
「崩山神の力にも支えられています」
◇◇◇
「そんな……」
リシアが地霊樹を見上げる。
「それじゃあ、この神様は……ずっと?」
小さな土精霊も震えていた。
『地母様……』
『ずっと……いっしょ……?』
ガイアロードが低く唸る。
『……我ハ知ラナカッタ』
その声には、明らかな動揺があった。
『我ハ、地母ヨリ命ジラレタ』
『崩山神ヲ封ジ』
『決シテ目覚メサセルナト』
「地霊樹自身から?」
『ソウダ』
ガイアロードは地霊樹を見る。
『ダガ……』
『地母ハ理由ヲ語ラナカッタ』
巨大な守護獣が俯く。
『我ハ、崩山神ガ世界ヲ滅ボス災厄ダト……』
『ソウ信ジテイタ』
「それが神代から伝わった話……」
エミリアが呟く。
「でも、本当は違った?」
ビルセイヤは亀裂へ近づく。
「本人に聞けばいい」
「ビルセイヤ!」
セシリアが制止しようとする。
「近づきすぎよ!」
「大丈夫だ」
ビルセイヤは止まらない。
巨大な腕。
それだけで人間など簡単に潰せる。
だが。
今。
その腕は襲ってこない。
むしろ苦しそうに大地を掴んでいるだけだった。
「崩山神」
『……』
「聞こえているなら答えてくれ」
『……ニン……ゲン……』
「昔、何があった?」
沈黙。
長い。
重い。
そして――。
『……ワカラ……ヌ』
「分からない?」
『ワレハ……』
『多クヲ……忘レタ』
声が震える。
『名モ……』
『姿モ……』
『何故……戦ッタノカモ……』
『ダガ……』
岩の腕が地面を握り締める。
『一ツダケ……覚エテイル』
「何を?」
『守リ……タカッタ』
ビルセイヤの目が細くなる。
『大地ヲ』
『ソコニ生キル……命ヲ』
その瞬間。
地霊樹が眩い光を放った。
「っ!?」
黄金の葉が一斉に震える。
光が降り注ぐ。
そして。
ビルセイヤの懐。
シルフィから受け取った蒼天霊樹の葉も同時に輝いた。
「これは……!」
フィリアが立ち上がる。
「霊樹同士が共鳴しています!」
次の瞬間――。
世界が変わった。
◇◇◇
「……ここは」
ビルセイヤは辺りを見回した。
誰もいない。
仲間も。
蛇の牙も。
ガイアロードも。
あるのは。
遥か昔の大地。
空は澄み。
森は青々と生い茂り。
巨大な山々が連なっている。
「記憶……?」
そう直感した。
目の前には、一人の男が立っていた。
いや。
人の姿をしているが。
人ではない。
褐色の肌。
長い土色の髪。
黄金の瞳。
肩から胸にかけて岩のような紋様が走っている。
その身体から発せられる力。
間違いない。
「崩山神……?」
男は振り返らない。
ただ。
眼下の村を見ていた。
子どもたち。
畑で働く人々。
精霊たち。
穏やかな景色。
男は小さく笑った。
『よいものだ』
今の崩山神とは違う。
明瞭な声。
『命が生きる姿というものは』
その隣。
一本の巨大な樹。
まだ今ほど大きくない。
地霊樹だった。
樹の前には女性が立っている。
薄い金色の髪。
緑と琥珀の衣。
穏やかな笑み。
「地霊樹の巫女……?」
いや。
違う。
その女性から感じる気配は。
地霊樹そのもの。
『あなたは、いつも人を見ていますね』
『神が人を見るのはおかしいか?』
『いいえ』
女性は笑う。
『あなたらしいと思っただけです』
男も笑った。
『大地は命を選ばん』
『王も』
『農民も』
『獣も』
『精霊も』
『皆、同じ大地の上で生きる』
『ならば我も同じだ』
ビルセイヤは息を呑んだ。
この言葉。
災厄と呼ばれる神のものとは思えなかった。
景色が揺らぐ。
そして。
◇◇◇
炎。
戦争。
崩れる山。
逃げ惑う人々。
黒い空。
「何だ……?」
神々が戦っている。
巨大な魔法。
大地を裂く力。
空を焼く炎。
その中央で。
崩山神が両腕を広げていた。
『やめろ!』
『ここには人がいる!』
だが。
誰も止まらない。
何かを巡って神々が争っている。
『力を寄越せ!』
『世界の主となるのは我だ!』
『邪魔をするなら貴様も敵だ!』
攻撃。
崩山神へではない。
村へ向けて。
『させるか!』
崩山神が大地へ両手を叩きつける。
山が隆起する。
巨大な岩壁が村を守った。
その瞬間。
何者かが叫ぶ。
『見ろ!』
『奴が山を動かした!』
『大地を壊したぞ!』
「……違う」
ビルセイヤが呟く。
「守ったんだ」
だが記憶の中。
誰も聞かない。
『危険だ!』
『あの神は世界を壊す!』
『封じろ!』
崩山神の表情が変わる。
『待て』
『何を――』
無数の神々の鎖。
身体へ絡み付く。
『やめろ!』
抵抗。
大地が揺れる。
その揺れを見た神々はさらに叫ぶ。
『やはり災厄だ!』
『暴れている!』
「違う……!」
ビルセイヤは拳を握る。
抵抗すれば。
大地が揺れる。
大地が揺れれば。
災厄だと決め付けられる。
完全な悪循環。
その時。
地霊樹が光った。
女性が崩山神の前へ立つ。
『私が引き受けます』
『何を言っている!?』
『あなたを、この身に封じます』
『何故だ!』
『このままでは、あなたは殺されます』
『だが――』
『そして』
女性は悲しそうに微笑んだ。
『いつか』
『あなたが本当に守ろうとした者が』
『真実を見つけてくれる日まで』
崩山神が目を見開く。
『待ってください』
『必ず』
『あなたを大地へ帰します』
光。
そして。
記憶が途切れた。
◇◇◇
「――っ!」
ビルセイヤは現実へ戻った。
息が荒い。
全身に汗。
「ビルセイヤ!」
セシリアが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「ああ……」
「何が見えたんです?」
エミリアも心配そうに尋ねる。
ビルセイヤは地霊樹を見る。
そして。
亀裂から伸びた崩山神の腕。
「……崩山神は」
静かに告げる。
「災厄じゃなかった」
「え?」
「神代の戦いで」
「人を守った」
全員が言葉を失う。
「山を動かしたのも、大地を揺らしたのも」
「全部、そこにいた命を守るためだった」
ガイアロードが大きく目を見開く。
『ソンナ……』
「地霊樹は」
ビルセイヤは続ける。
「崩山神を罰するために封じたんじゃない」
「殺されないように守ったんだ」
小さな土精霊が地霊樹を見上げる。
『地母様……』
一本。
黄金色の葉が落ちた。
それは風に乗り。
崩山神の腕へ。
触れる。
『……ア……』
崩山神の声が震えた。
『思イ……出シタ……』
『アノ者ハ……』
『我ヲ……』
『守ッタ……』
その声には。
怒りではなく。
深い悲しみがあった。
◇◇◇
「くだらん!」
グラドの声が響いた。
全員が振り返る。
銀仮面の男は、いつの間にか黒い杖を拾い上げていた。
「神代の真実など、どうでもいい!」
「我々が必要なのは力だ!」
杖を魔法陣へ突き立てる。
「崩山神!」
「貴様は災厄として目覚めればいい!」
「やめろ!」
ビルセイヤが走る。
「《強制神格侵食》!」
黒い魔力が爆発した。
『グアァァァァァァ!!』
崩山神の腕に黒い紋様が走る。
「何をした!」
「簡単なことだ」
グラドが笑う。
「失われた怒りを」
「我らが与えてやる!」
地底。
黒い霧が噴き上がる。
『ヤメ……ロ……』
『我ハ……』
『モウ……』
「崩山神!」
『誰モ……』
『傷ツケタク……ナイ……!』
その叫び。
ビルセイヤの胸に突き刺さる。
「……分かった」
白枝を抜く。
今度は迷わない。
「もう十分だ」
構える。
「長い間」
「よく耐えた」
黒い魔力が崩山神を覆う。
グラドが笑う。
「斬るのか!」
「結局、貴様も同じではないか!」
「神を斬って世界を守る!」
だが。
ビルセイヤは首を横へ振った。
「違う」
「俺が斬るのは」
白枝へ。
蒼天霊樹の風。
地霊樹の大地。
二つの加護が集まる。
「神じゃない」
「その神を縛ってる――」
一歩。
「呪いだ!」
飛天御剣流。
人を殺すためではなく。
守るために磨かれた剣。
なら。
神を救うために振るったっていい。
「みんな!」
セシリアが盾を構える。
「任せて!」
エミリアが弓を引く。
「道を作ります!」
ツバサが笑う。
「今度は神様救出か!」
フィリアが地脈探知杖を掲げる。
「侵食術式を可視化します!」
ガイアロードが咆哮する。
『我モ戦オウ!』
リシアと小さな土精霊は地霊樹へ手を触れる。
「地霊樹さん!」
「力を貸してください!」
『地母様……おねがい!』
地霊樹が輝く。
黄金。
風の蒼。
氷の白。
聖なる光。
そして。
白枝の銀。
ビルセイヤは黒い呪いの中心を見据えた。
敵は崩山神ではない。
救うべき者だ。
本当の敵は。
命を道具として扱う者。
「グラド!」
ビルセイヤの瞳が鋭くなる。
「神代の間違いを」
「もう一度繰り返させるものか!」
大地が震える。
だが今度の震えは。
恐怖の震えではなかった。
地霊樹。
ガイアロード。
土の精霊。
そして崩山神。
大地に属する者たちが。
千年を超えて。
同じ願いのもとに繋がろうとしていた。
――もう一度。
命を守るために。




