10、抗えぬ理
電車の止まる音と共に朧は目を開けた。すでに日は登っていて朝日が窓から優しく差し込んでいる。
乗っている間の記憶がないということは、ずっと寝ていたらしい。
電車内のアナウンスを聞きながら降りると、心地よい朝の空気が流れ込んできた。改札を抜けて、常世神社へと向かう。
神社の近くの角を曲がった瞬間、甲高い笑い声が聞こえてきた。五十代くらいの女性二人がこちらに歩いて来るのが見える。見覚えのある顔で朧は俯きがちに横を通った。
「いやぁねぇ」
ねっとりと、女性の声が聞こえてきた。
「穢れてるのに歩き回られたら困るじゃないの」
その女性は、一か月前最愛の夫を亡くした人だった。
人が死ぬのは運命で定められているというのに、小夜たちにつっかかってくる。わざわざ常世神社まで赴いて人殺し、人殺し、と叫ぶ女性を押さえるのには時間が掛かった。
「可哀想に。文雄さん、まだ四十半ばだったんでしょう?」
「そうよ。病気などなかったのに。きっとあの巫様に殺されたんだわ」
「常世の巫様なんている意味あるのかしらね」
バッと朧は振り返った。まさか振り返ると思わなかったのだろう。「きゃあ、怖い」と二人は走り去っていく。朧は舌打ちを軽くついて歩き出した。
─何も知らないくせに。
人の死は運命で決まっていることを知らない人が多すぎる。彼女の抱えている苦しみなど知らないくせによく人殺し扱いできるものだ。
苛立った気持ちのまま常世神社に着き、巫殿へと向かう。
今日は行き違いになったようで剱持とは出会わなかった。その代わりに「子細なし」と連絡が入っており、朧はお礼のメールを返信すると携帯をしまった。
鍵を開け、巫殿に入る。
─まだ寝ているか。
中は静まり返っており、物音ひとつしない。
朧は靴を脱ぐと、小夜の部屋へと向かう。ノックをして顔を覗かせると抱き枕を抱えた小夜が眠っていた。途端に、苛立っていた気持ちがしぼんでいく。
─よかった。
ホッと息をつくと、朧は部屋の戸を閉めた。
今日も一日が始まる。朧は朝食の準備をし始めた。
先に朝食を取り終えると、携帯を取り出す。神祇統監機構の視察について上層部に直接問いただしたいことがあった。
─なんて言うべきか。
画面を睨みながら考えていると、足音がして小夜が姿を現した。一人で起きたことに驚きつつ、朧は声を掛ける。
「おはようございます、小夜様。今起こしに行こうと思ってたんですよ」
「おはよ……」
そう言ってから小夜は目をパチパチさせた。
「ん……あぁ、そうか、帰ってきてたのか」
「ええ、昨日の神祇も問題ありませんでしたか」
「……うん」
小夜はコクリと頷いた。
「朝ご飯用意するので座っておいてください」
「ありがとう」
朧は携帯を置いて立ち上がると、トースターに食パンを入れる。ちらりと小夜を見ると、外をぼーっと見ていた。
「今日は晴れるみたいだな」
「そうですね。けど寒いので神祇までは中にいるんですよ」
「朧は過保護だなぁ」
「過保護で悪かったですね」
黄金色に焼けた食パンを皿に移すと、小夜の前に置いた。
「ありがとう」
お礼を言うと、小夜は小さくかじる。そして、何か言いたげに朧を見た。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……十六夜家の皆さん元気だったかなって」
「ああ、元気そうでしたよ」
「そうか。昨日何ともなかったか?」
小夜には当主の問題のことも、縁談のことも言っていない。朧は「ええ」と微笑んだ。
「すみません。少し電話してきていいですか?」
「いいよ」
朧は携帯を手に取ると、自室に向かう。着信履歴から神祇統監機構へ電話をかけた。二回呼出音が鳴り、女性の声が聞こえる。
『はい、こちら神祇統監機構です』
「十六夜と申します。調整官の永見さんはいらっしゃいますか」
『永見ですね。確認致します』
保留音が流れる。しばらくして音が途絶えた。
『変わりました、永見です。どうかされましたか』
「上層部に直接確認したい案件があります。面会可能な時間を至急ご提示していただきたいです」
『視察の件でしょうか』
「それ以外にありますか?」
『……少々お待ちください。上層部へ取り次ぎの可否を確認いたします』
通話が一度保留状態になる。数秒ののち、永見の声が戻った。
『許可が下りました。内線で上層部へお繋ぎいたします』
─最初からそうしてくれ。
ため息をついて朧はベッドに腰を下ろす。次の瞬間、通話は再び途切れ、機械的な呼び出し音へと切り替わった。
『鷹宮だ』
ぶっきらぼうな低い声が聞こえて、朧は気持ちを切り替えた。
「すみません、十六夜です」
『永見から聞いた、視察の件だな』
「ええ、直接お会いしてお話したいことがあるんですが」
少し間が空いた。
『午後からは会議がある。対応できるのは昼までだ。今日が無理なら来週になる』
「ありがとうございます。すぐに向かいます」
朧は通話を切ると、上着を羽織って鞄を手に持つ。小夜はまだテーブルで食べていた。出かける支度をしている朧を見て目を瞬く。
「え、どこか行くのか」
「すみません、神祇統監機構に急用ができまして」
「分かった」
「昼過ぎには帰ります。護衛の方にも説明しておきますので警備はご心配なく……あ、後お昼ご飯なんですが」
一気にまくし立てる朧に、小夜は呆れて言った。
「自分でできるから大丈夫だ。急用なんだろ、早く行けって」
「……すみません、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
急いで巫殿を出て、途中で本殿に立ち寄る。声を掛けると、桐生が姿を現した。訳を話すと、桐生は「お任せ下さい」と力強く頷いた。
走って駐車場へと向かい、車に乗り込む。エンジンをかけると、すぐに発車した。
四十分かけて、車は静かに神祇統監機構の庁舎へと辿り着いた。車から降りた朧は、久しぶりの庁舎を見上げる。
─相変わらず雰囲気だけあるな。
神祇統監機構の庁舎は、黒灰色の巨壁のようにそびえ立っており、ただ機能と威圧だけで構築されたような無機質な建物だった。
─行くか。
朧は身を引き締めると、中へと足を踏み入れた。庁舎の中は、外観以上に静かだった。自動ドアが開いた瞬間、音が吸い込まれるように消える。
白と黒を基調にした内部は無駄がなく、装飾もない。受付カウンターには人がいるが、視線はほとんど上がらない。必要最低限の動作だけで、ここが業務のための空間であることを徹底していた。
壁際に設置された認証装置に手帳をかざすと、短い電子音が鳴り、通路のロックが解除された。廊下は長く、まっすぐで、蛍光灯がぼんやりと光っていた。
─外よりも、ここの方が息が詰まる。
そう感じても表情は変えないまま歩みを進めると、やがて、エリア表示が切り替わる。
─上層管理区画。
その文字を横目に通り過ぎると、空気の質が一段変わった。人の気配がさらに薄くなり、代わりに冷たい圧だけが濃くなる。
目的の扉の前で、朧は立ち止まった。
目の前に黒い扉が立ちはだかる。余計な表示はなく、ただ中央にだけ小さく認証機構のマークが刻まれている。
朧は深呼吸をすると、ドアをノックした。「入れ」と、中から声が聞こえてくる。
「失礼します」
入った途端、広い執務室が目に入る。書類も装飾もほとんどなく、必要なものだけが整然と配置されている。窓から差す光すら均一で、影が薄い。その奥に、男が一人座っていた。
─鷹宮。
書類から目を上げたその視線は鋭く、無駄な感情を含んでいない。
「お時間を取っていただきありがとうございます」
「無駄な社交辞令はいい。本件に入れ」
顔を顰めたくなるのを我慢して、朧は口を開いた。
「ご存じの通り、上層部の視察についてです。禍が増加傾向と聞きましたが、この視察は本当に必要なことなんですか。そもそも、神祇が関係あることは示されているんですか?」
落ち着け、と自分に問いかけながら朧は続ける。
「それに霊山は、護衛ですら入れない神聖な土地。神祇も見世物ではありません」
鷹宮は言い切った朧を見て鼻で笑った。
「わざわざここに言いに来るなど律儀なものだな」
そして朧を冷たく見据えた。
「神聖だなんだと情緒的な話をしているのではない。我々が求めているのは、月夜海への魂送りが正常に機能しているという目に見える証拠だ。魂が滞って禍が増えている。これを見ろ」
鷹宮は、分厚い紙の束を渡してきた。朧は受け取って目を移すと、そこには数値がビッシリと書かれている。中央治安統制局の特務部隊の出動件数だった。特務部隊は、優れた異能を持つ者が集められ、対禍専用の部隊。確かに数年前からゆっくりと件数が増えてきている。
「禍が増えていること、数値を見て分かるだろ。禍は民を危険に晒す。この状況では、放置という訳にもいかない。お前は、巫を守りたいという気持ちを貫いて民の命を危険に晒すのか?」
─痛いところをついてきやがる。
朧は拳を握りしめる。
「ですが、霊山への介入だけは認められません。無関係な人間が立ち入れば、結界の均衡が揺らぐ可能性があります」
一拍置いて、朧は続ける。
「それに霊山は神力の流出点です。人の身体や精神に過剰な負荷がかかる危険がある。そのリスクを、どう管理するつもりなんですか。何千年にも渡って守られてきた規律を破るつもりですか」
朧は、束を鷹宮に突き返した。鷹宮は受け取ると無造作に机の端へ置いた。
「対策を考えているに決まっているだろう。結界師を数名同行させるし、元鎮守人だった者も治安統制局にいる。護衛の人数も増やす。こちらだって専門家からの意見も聞いて、リスクも承知の上での視察なんだ。バカにしてもらっちゃ困る」
朧が押し黙ると、勝ち誇ったように鷹宮は唇の端を上げた。
「そもそもしばらくこちらに顔を出していなかったのに、決定した上で意義を申し立てるのは失礼ではないか?」
「……連絡だけでも、いただきたかったです」
「なら会議にきちんと出ることだな。鎮守人だからといって権威がある訳ではないんだよ」
そう言いながら鷹宮は立ち上がった。より威圧感が増す。
「そろそろ支度をしないといけない。帰ってもらえるか?」
明らかに朧の完敗だった。ここまで言われると、もう何も反論できない。浅はかさだった自分をぶん殴りたい衝動に駆られる。
「……失礼しました」
頭を下げると、朧は執務室を後にした。何とも言えない無力感が襲ってくる。
─くっそ。
拳を握りしめて朧は庁舎を出た。途端に外の空気がやけに軽く感じる。 さっきまでの無機質な圧がまだ肩に残っていて、呼吸が少し遅れる。
車に乗り込んでも、エンジン音だけが妙に遠い。 さっき渡された紙の束の数字が、頭の奥で勝手に反響している。
─民を守るため、か……。
正しさは分かる。 分かるからこそ、否定できないのが一番厄介だった。 車は静かに動き出し、景色が流れていく。
でも朧の中だけは、まだあの執務室に閉じ込められたままだった。




