第12話「息を潜める森」
風が止んでいた。
ほんの少し前まで、頭上では白樺の葉が擦れ合っていた。
沢を渡ってきた風が枝を揺らし、時折、乾いた葉を一枚、二枚と地面へ落としていた。
それが、ない。
まちるは三脚を握ったまま、森の奥を見た。
木が動かない。
草も揺れない。
沢の音だけが、背後から細く届いている。
エアノーレの右手は、星律棍の柄に触れたままだった。
「信号は、まだ来てるのか」
「はい。一定の間隔を置いて、照合信号を受信しています」
「どこから?」
「正確な方角は特定できません」
「中継器じゃないのか」
「その可能性はあります。ただし、通常の中継動作とは異なる信号が含まれています」
まちるは眉を寄せた。
「つまり?」
「何らかの照合が行われています。しかし、対象までは分かりません」
「私たちを探してるのか」
「現時点では判断できません」
まちるは森の奥へ目を凝らした。
見えるのは木々だけだ。
それなのに、どこかから見られているような気がする。
「便利なんだか不便なんだか分からないな、お前の星衣核は」
「現在、正常稼働時のおよそ二割です」
「知ってるよ」
「したがって、不便です」
「自分で言うな」
エアノーレは真顔だった。
冗談ではないらしい。
まちるは小さく息を吐いた。
「もう少しだけ進むぞ」
「まちる」
「中継器には触らない。さっき決めただろ」
「はい。ただし、これ以上進むのであれば、周囲の観察を優先してください」
「観察?」
「現在の星衣核では、信号の解析に能力を割いています。地面に残された痕跡の判別は、あなたの方が適任です」
まちるは足元を見た。
湿った土。
落ち葉。
獣の爪。
折れた小枝。
人が歩けば、森には必ず何かが残る。
父から、嫌というほど教えられた。
――山では、前だけ見るな。
森蔵は何度もそう言った。
――下を見ろ。上も見ろ。後ろも見ろ。
幼いまちるが、
――そんなに見てたら前へ進めない。
と言うと、父は笑った。
――だから、ゆっくり進め。
今になって思えば、ずいぶん当たり前のことを言っていた。
だが、その当たり前を守れなかった時ほど、人は山で痛い目を見る。
「分かった」
まちるは三脚を持ち直した。
「信号は、お前が見ろ」
「はい」
「地面は私が見る」
「承知しました」
肩のハクが短く鳴いた。
「お前は……」
まちるは白いエゾリスを見る。
「好きにしろ」
ハクは尻尾を振った。
「補助員としての裁量を与えられました」
「お前が勝手に所属させたんだろ」
エアノーレから返事はなかった。
二人と一匹は、慎重に森の奥へ進んだ。
◇
森蔵の印までは、地図の上では遠くない。
だが、地図の上で近い場所が、山でも近いとは限らない。
真っすぐ歩ける場所など、ほとんどなかった。
倒木を避ける。
低い枝をくぐる。
湿った場所があれば回る。
沢から離れるにつれ、地面には大小の石が増えていった。
まちるは時折立ち止まり、周囲の地形を確かめた。
父の地図を開くことはしない。
場所は頭へ入れてある。
それに、いまは地図より地面を見る必要があった。
十数歩進んだところで、まちるの足が止まった。
「エアノーレ」
「はい」
「ちょっと待て」
まちるはしゃがみ、湿った土の表面を眺めた。
苔の薄い場所に、小さな窪みがあった。
縁は崩れ、落ち葉が一枚、半ば埋まっている。
「何かありますか」
「……足跡かな」
「人の、ですか」
「分からない」
まちるは横から窪みを見た。
「父さんがよく言ってた。山では、見たものをすぐに決めつけるなって」
「では、何に見えますか」
「獣の跡にも見えるし、誰かが石を踏み込んだ跡かもしれない」
少し先にも、似た窪みがあった。
だが、その先は石が多く、跡が続いているのかも判別できなかった。
「人が歩いたにしちゃ、妙なんだ」
「どのように」
「草鞋なら編み目の跡が残ることもある。靴なら踵の形が出ることもある。でも、これはどちらとも言いにくい」
エアノーレはまちるの後ろから、地面の窪みへ目を向けた。
「普通の靴跡とは、少し形が違うようですね」
「ああ。それに、土がずいぶん深く沈んでる」
「重いものが載ったのでしょうか」
「かもしれない」
まちるは立ち上がった。
「まあ、これだけじゃ何とも言えないな」
エアノーレはもう一度、窪みへ目を落とした。
その形状に、見覚えがあるような気もした。
だが、形だけで何かを断定することはできない。
「何か分かるのか」
まちるが尋ねる。
「いいえ。判断するには情報が足りません」
「そうか」
まちるは三脚を持ち直した。
「じゃあ、覚えておこう」
「はい」
二人は先へ進んだ。
少し離れた木の幹に、横へ削れたような傷があった。
まちるは指先を近づけ、寸前で止めた。
「どうしました」
「こっちも気になる」
「獣によるものでしょうか」
「そうかもしれない。でも、爪の跡にしちゃ真っすぐだ」
エアノーレが傷を確かめる。
「硬いものが擦れたようにも見えます」
「だよな」
まちるは森の奥を見た。
山には、人の知らない痕跡がいくらでもある。
一つ見つけたからといって、それが何かの証拠になるわけではない。
だが、気になるものが続けば、話は別だった。
「まちる」
エアノーレの声が低くなった。
「また来ました」
「照合信号か」
「はい」
「さっきより強い?」
エアノーレは目を閉じた。
「受信強度に大きな変化はありません」
「じゃあ、まだ遠いのか」
「距離との関係は分かりません。信号の発信方向も、一定ではありませんので」
「木や岩で跳ね返ってるのか」
「その可能性もあります」
まちるは森の奥を見た。
そこには何もない。
ただ木がある。
木の向こうにも、また木がある。
けれど、何も見えないことと、何もいないことは違う。
そのことを、まちるは知っていた。
◇
それからしばらく、二人はほとんど話さなかった。
ハクも鳴かない。
白い身体が、枝から枝へ移っていく。
いつもなら木の実を見つければ勝手に寄り道をするのに、今日はまちるたちから離れなかった。
森蔵の印が近づいていた。
まちるには、それが分かる。
沢の向き。
尾根の傾き。
北西へ落ちる小さな谷。
地図に描かれていた地形が、一つずつ現実の景色と重なっていく。
父も、ここを歩いた。
そう思った途端、目の前の森が少し違って見えた。
この木ではないかもしれない。
この石でもないかもしれない。
けれど、父も同じ沢の音を聞いた。
同じ斜面を登った。
同じ空を、枝の隙間から見上げた。
そして。
この先で、何かを見た。
まちるは無意識に歩調を速めた。
「まちる」
後ろから声が飛ぶ。
「何だ」
「速くなっています」
「なってない」
「なっています」
「測ったのか」
「観測しました」
まちるは足を止めた。
振り返る。
エアノーレは、まっすぐこちらを見ていた。
「……分かったよ」
歩調を戻す。
あと少し進めば、父の印へ届く。
そう思うほど、足が先へ出ようとする。
だが、右手の痛みが、その歩みを引き戻した。
久世の言葉も残っている。
――何か見つけても、深入りするな。
父の背中を追って、自分まで帰らなくなるわけにはいかない。
その時だった。
前方の倒木へ移ったハクが、不意に動きを止めた。
白い身体を低く伏せ、斜面の上へ耳を向けている。
「ハク?」
まちるも足を止めた。
低い笹の向こうで、小枝が揺れた。
風はない。
まちるが三脚を握り直す。
エアノーレも、その視線を追った。
――カツ。
石を打つ硬い音がした。
続いて、木々の間から茶褐色の背が現れた。
長い脚。
大きな耳。
エゾシカだった。
こちらに気づくと、一度だけ首を上げ、斜面の奥へ駆け去っていった。
「……鹿か」
まちるは小さく息を吐いた。
「驚かせやがって」
ハクが倒木の上で尻尾を振った。
「ハクは、先に気づいていたようですね」
「だったら鹿だって教えろよ」
「無理な要求です」
「分かってるよ」
まちるは三脚を持ち直した。
鹿が通っただけなら、何もおかしくはない。
だが、あの小さな窪みも、木の幹の傷も、鹿が残したものとは限らなかった。
「エアノーレ」
「はい」
「信号はどうだ」
エアノーレが目を閉じた。
「継続しています」
「変化は?」
「……少し、お待ちください」
その声が途切れた。
まちるはエアノーレを見る。
藍色のローブの奥で、彼女の表情が硬くなっていた。
「どうした」
「照合の間隔が、短くなっています」
「見つかった?」
「まだ、そのような反応はありません」
「じゃあ、何をしてる」
「走査の条件が変わった可能性があります」
「私たちを探してるのか」
「分かりません」
エアノーレは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、照合の間隔が短くなったことは確かです」
「それって、何かを見つけたからじゃないのか」
「その可能性はあります。しかし、わたくしたちが対象とは限りません」
「……そうか」
まちるは森の奥を見た。
古帝国軍に関係する信号である可能性は高い。
だが、誰かが意図して探しているのか、中継器が自動で照合を繰り返しているだけなのか。
そして、その対象が自分たちなのか。
そこまでは分からない。
ただ、照合の間隔が短くなっている。
それだけは確かだった。
まちるは父の地図が入った胸元へ手を当てた。
「印まで、あとどのくらいだ」
「地図上の推定では――」
「いや」
まちるは遮った。
「いい」
エアノーレを見る。
「戻るぞ」
一瞬。
エアノーレの目がわずかに見開かれた。
「よろしいのですか」
「何だよ」
「まちるであれば、もう少し進むと予測していました」
「お前まで久世さんみたいなこと言うな」
「ですが」
「約束した」
まちるは森の奥を見た。
そこに父の印がある。
あと少し。
そう思う。
だから危ない。
「今日は位置を見るだけだった。見つけても深入りしない」
三脚を握る。
「それに――」
まちるは、先ほどの斜面へ目を向けた。
「何があるのかも分からない場所で、お前の星衣核まで無理させられない」
エアノーレは数秒黙った。
「合理的な判断です」
「褒めるな。気持ちは行きたいんだから」
「では、褒めません」
「そこは少しくらい褒めろよ」
エアノーレの口元が、ほんのわずかに動いた。
まちるは三脚を持ち直し、沢の方角へ目を向けた。
「行こう。笛が鳴る前に帰らないとな」
「はい」
二人は来た道を引き返した。
◇
森を急ぐ時、速さだけを考えてはいけない。
根に足を取られる。
湿った石を踏めば滑る。
枝へ顔を突っ込めば、それだけで終わることもある。
まちるは最短ではなく、足を運べる場所を選んだ。
沢へ。
人のいる場所へ。
三脚を杖のように突き、斜面を下る。
右手が痛んだ。
無視した。
「まちる、右です」
「分かってる!」
前方の倒木を避ける。
エアノーレは、まちるの半歩後ろを保っていた。
追い越さない。
遅れもしない。
時折、後方へ視線を送る。
「信号は」
「継続しています」
「追ってきてる?」
「信号からは判断できません」
「便利な言葉だな、それ」
「不明なため不明と回答しています」
「今それ説明するな」
肩にいたハクは、すでに木の上へ移っていた。
枝を渡りながら、二人と並走している。
沢の音が近づいた。
まちるは息を整える。
あと少し。
その時。
「まちる、止まってください」
エアノーレの声が飛んだ。
まちるは足を止めた。
「どうした」
「走査が変わりました」
「またか」
「先ほどよりも、照合信号の特徴が明瞭になっています」
エアノーレは胸元へ手を当てた。
藍色のローブの下。
損傷した星衣核がある場所。
「わたくしの星衣核が、照合信号を受けています」
「向こうに見つかったのか」
「いいえ。こちらが信号を受信していることと、向こうがわたくしを識別したことは、別です」
「じゃあ、まだ分からない」
「はい」
エアノーレは静かに呼吸を整えた。
「ですが、照合の条件が変化している以上、わたくしの残留反応を拾われる可能性はあります」
「ローブで抑えてるんだろ」
「抑えています。しかし、完全ではありません」
まちるはエアノーレを見た。
藍色のローブ。
母が残したもの。
今は、その布がエアノーレの身を守っている。
「どうする」
「静穏状態を維持します」
「それで駄目なら」
「さらに出力を落とします」
「身体は」
「動きます」
その返事を聞いた瞬間、まちるは妙な既視感を覚えた。
朝。
久世に聞かれた自分が、同じことを答えた。
――動きます。
まちるは思わず顔をしかめた。
「その答え、信用ならないな」
エアノーレがまちるを見る。
「なぜですか」
「今朝、私も言った」
「では、信頼性に問題があります」
「お前な」
それでも少しだけ、肩の力が抜けた。
「行くぞ。あと少しだ」
「はい」
二人は沢へ向かった。
◇
浅瀬が見えた。
向こう岸。
そこから先へ出れば、本道予定線までそう遠くない。
まちるは石へ足を乗せた。
一つ。
次。
水が靴底を濡らす。
エアノーレも続く。
その途中で。
「……受信できなくなりました」
エアノーレが立ち止まった。
「何が」
「先ほどまでの照合信号です」
「諦めた?」
「分かりません」
「……嫌な止まり方だな」
「同意します」
二人は対岸へ上がった。
ハクも枝から降り、まちるの肩へ戻る。
まちるは一度だけ、振り返った。
対岸の森。
薄暗い木々の間。
何もいない。
何も見えない。
けれど。
あそこには、何かがある。
父が残した印。
中継器。
そして、その周囲で繰り返されていた照合信号。
まちるは胸元の地図を押さえた。
今日は届かなかった。
それでいい。
そう思おうとした。
だが、胸の奥には別の感情が残った。
父も、同じようなものを感じたのではないか。
そんな考えだった。
森蔵は、どうやって中継器の場所を知ったのだろう。
偶然見つけたのか。
それとも、何かを追いかけているうちに、そこへ辿り着いたのか。
もし。
父もまた、この森で何者かの気配を感じていたのだとしたら。
あの地図に記された印は。
ただ場所を示すためだけのものではなかったのかもしれない。
まちるは唇を結んだ。
知りたい。
どうしても。
だが、今は戻る。
父が教えてくれた通りに。
「まちる」
エアノーレが呼んだ。
「何だ」
「戻りましょう」
「ああ」
今度は素直に答えた。
夕刻の笛まで、まだ間に合う。
二人と一匹は、本道予定線へ向かって歩き出した。
その背後で。
森は再び、風を取り戻した。
葉が揺れる。
枝が鳴る。
沢の水が流れる。
何事もなかったように。
◇
森のさらに奥。
まちるたちが引き返した場所から、もう少し北西へ進んだ先。
苔に覆われた岩の下で、微かな光が明滅していた。
地上からは、ただの岩にしか見えない。
その下に埋もれた古い装置が、周囲へ照合信号を送り続けている。
普段なら、これほど短い間隔で走査を繰り返すことはない。
数刻前。
古帝国軍のラグネブは、部下を伴ってこの場所を訪れていた。
上官イリゲリアからの指示は、中継器を一時的に走査モードへ切り替え、得られた記録を遠隔地へ送信できる状態にすること。
そして、設定変更を終えたら装置から離れ、周辺に姿を隠すことだった。
未登録個体が再び接近するなら、その姿を確かめる。
だが、森に現れたのは、風に揺れる枝葉と、時折通り過ぎる獣だけだった。
ラグネブたちは、まちるとエアノーレが森の途中まで来ていたことを知らない。
二人が危険を察して引き返したことも。
岩の下では、走査を示す光がなお明滅していた。
◇
遠く離れた場所。
イリゲリアは、中継網から送られてくる記録を確認していた。
地上のラグネブに走査モードへの変更を命じたのは、イリゲリア自身だった。
白樺の水辺で一度捉えた未登録個体。
その後、反応は途絶え、行方を追えなくなっていた。
イリゲリアは周辺の中継網を調べ、未登録個体が再び現れる可能性のある地点を探っていた。
今回、ラグネブに走査を命じたのも、そのためだった。
だが、届いた記録に姿はない。
名もない。
個体を特定できる情報もない。
あるのは、信号の強度と、その変化だけだった。
照合開始。
微弱反応。
識別不能。
再照合。
反応減衰。
消失。
それだけなら、珍しいものではない。
地形による反射。
気象の変化。
地球生物の移動。
あるいは、中継器そのものの不具合。
この星で観測される異常には、いくつもの原因が考えられる。
しかし、今回の記録には、イリゲリアの目を留める特徴があった。
「……ほう」
別の記録を呼び出す。
白樺の水辺。
ラグネブが調査に赴いた、あの未登録反応だった。
二つの波形を重ねる。
完全な一致ではない。
今回の反応は弱く、識別に必要な情報も不足している。
それでも、共通する特徴があった。
「同じ個体か……」
イリゲリアは呟き、すぐに表示を戻した。
断定するには、まだ足りない。
通信を開く。
「ラグネブ。現地の状況は」
『異常ありません。周辺を警戒していますが、対象は確認できておりません』
「痕跡は」
『現時点では、何も』
「そうか」
イリゲリアは再び波形へ目を向けた。
地上の部隊は、何も見つけていない。
だが、中継器は微弱ながら反応を捉えている。
もし、これが白樺の水辺の未登録個体によるものなら。
走査信号を察知し、接近を控えた可能性がある。
それが事実なら、相手は古帝国軍の照合技術を理解していることになる。
この星の生物には、到底考えられない。
トメインの残党か。
あるいは、別の星から来た者か。
いずれにしても、地上の部隊だけで対処できる相手とは限らなかった。
むしろ、相手の正体も能力も分からないまま接触させる方が危険だった。
一度、こちらの気配を消す。
相手が警戒を解き、再び動き始めるのを待つ。
その間に、必要な戦力を整えればよい。
イリゲリアは通信を開いた。
「ラグネブ。走査はここまでだ。中継器を通常設定に戻し、部隊を引き揚げろ」
『……撤退、ですか』
「そうだ」
『しかし、まだ対象を確認できておりません』
「承知している」
『もう少し時間をいただければ――』
「命令は変わらん」
短い沈黙があった。
『……了解しました』
通信が切れた。
イリゲリアは記録に新たな指定を加えた。
再照合対象。
次に似た反応が現れたとき、比較できるようにするためだった。
しばらくの間、二つの波形を眺める。
この北方では、かつて別の不可解な事案も起きていた。
今回の未登録反応とは、性質が異なる。
直接結びつける根拠もない。
それでも、同じ地域で再び説明のつかない出来事が起きている。
「……面白い」
イリゲリアは、静かに呟いた。
◇
森の中。
ラグネブは、通信の途絶えた装置を見下ろしていた。
撤退。
その二文字が、どうにも気に入らなかった。
白樺の水辺では、未登録個体の痕跡を掴みながら、その正体を明らかにできなかった。
今回もまた、成果はない。
このまま戻れば、何を報告できるというのか。
自分は役に立たないと判断されたのか。
そう考えるほど、苛立ちが募った。
「隊長。撤収の準備を始めますか」
部下の兵の一人が尋ねた。
ラグネブは答えず、苔に覆われた岩へ目を向けた。
走査の記録には、確かに反応があった。
それが何者かは分からない。
だが、ラグネブには、何者かがこの付近まで来ていたとしか思えなかった。
一度接近したのなら、また来るかもしれない。
まして、相手が何かを探しているのなら。
「……まだだ」
「は?」
「数日、様子を見る」
「しかし、撤退命令が」
「承知している。だからこそ、もう少し確かめる」
ラグネブは部下へ向き直った。
「このまま手ぶらで戻るつもりか」
兵たちは顔を見合わせた。
「対象が現れれば、我々の手で捕らえる。それで済む話だ」
「ですが、上官への報告は」
「私がする」
それ以上の異論は許さなかった。
ラグネブは中継器を通常の設定に戻すよう命じた。
短い間隔で繰り返されていた走査が止まる。
森は、再び静けさを取り戻した。
続いて、上位との通信を一時的に遮断する。
次にイリゲリアから連絡があっても、すぐには届かない。
それが何を意味するか、ラグネブにも分かっていた。
だが、ここで未登録個体を捕らえれば、すべては成果として認められる。
そう信じた。
「配置につけ。今度こそ逃がすな」
兵たちは森の奥へ散っていった。
ラグネブもまた、木々の陰へ姿を消した。
◇
苔に覆われた岩の周囲に、人影はなかった。
中継器は通常の照合へ戻り、静かに作動を続けている。
少し離れた斜面。
落ち葉の積もった地面に、小さな窪みが残っていた。
まちるが見つけたものと、よく似た形をしている。
古帝国軍の兵が残した足跡だった。
しかし、まちるたちはその正体を知らない。
ラグネブたちもまた、自分たちが待ち構える未登録個体が、すでにこの森の途中まで来ていたことを知らなかった。
風が吹く。
乾いた葉が一枚、窪みの上へ落ちた。
森は、何も語らなかった。
つづく
著:國風惠昂




