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第11話「気配」

黒羽根が現場を離れてから、三日が過ぎていた。


本道の踏査は、第三候補線へ戻されている。


紙の上では、第一候補線よりも大きく曲がり、ずいぶん遠回りに見えた線だった。


だが、実際に現場へ人を入れてみれば、その曲線は思いのほか素直だった。


伐らなければならない木は少ない。


湿地へ落ち込む場所も避けられる。


迂回するぶん勾配は緩やかで、荷馬を通す道幅も取りやすい。


何より、キムンカムイの現れた森を正面から貫く必要がなかった。


黒羽根があれほど嫌った曲線は、現場で働く者たちにとって、危険を避けながら先へ進むための線だった。


人が地図へ線を引く。


だが、山や沢が、その通りに道を通してくれるわけではない。


土地の側にも、土地の理がある。


無理に押し通そうとすれば、いつか人の方が弾き返される。


三日前の森が、それを嫌というほど示していた。


朝から、本道予定線の各所には測量班が散っていた。


雨宮班だけではない。


南側では、別の水準測量班が、前日に残した仮水準点から高さを延ばしている。


器械手が三脚へ水準儀を据え、その前後には二本の標尺が立っていた。


読み取りが終われば、後ろ側の標尺手が器械を追い越し、次の地点へ進んで、再び標尺を立てる。


さらに離れた区間では、別の班が戻りの測量を行っていた。


往きに求めた高さと大きな食い違いがないか、同じ道筋を逆向きにたどって測り直している。


尾根筋へ入った者たちは、木々の間に見通しを取ろうとしていた。


予定線の先では踏査の者たちが地面を棒で探り、沢筋やぬかるみの深さを確かめている。


その後ろから、中心杭を打つ組と、枝を払う人夫たちが続いていた。


斧の音。


杭を打ち込む槌音。


縄を引く者たちの掛け声。


測量帳を読み合わせる声。


それぞれの音が、朝の森の中で重なっている。


一つの班が、本道のすべてを測るわけではない。


それぞれが割り当てられた区間へ散り、仮水準点と接続点を介して成果をつなぐ。


一本の道を、一人の人間だけでつくることはできない。


雨宮班もまた、その大仕事を支える小さな一班だった。


「雨宮班は、沢の手前まで出せ」


少し離れた場所から、久世の声が飛んだ。


「第二班の終点とつながらなければ、その場で止めろ。勝手に先へ延ばすな」


「はい」


まちるは返事をし、肩から三脚を下ろした。


落ち葉を靴底で払い、地面の硬さを探る。


表面は乾いているように見えたが、その下には、まだ柔らかな土が残っている。


まちるは三本の脚を均等に開き、一本ずつ足で押し込んだ。


脚先の沈み方を確かめる。


一本だけ深く入れば、器械は測っている間にも傾いていく。


三脚が落ち着いたところで、水準儀を載せた。


掌に巻かれた布の下で、傷が鈍く疼いた。


キムンカムイの鼻先へ三脚を打ち込んだ際の衝撃が、手首から肩の奥にまで残っている。


あの巨体へ食らわせたというより、岩へ向かって三脚を振り抜いたようなものだった。


それでも、器械を扱えないほどではない。


まちるは整準ねじへ指をかけ、気泡を中央へ追い込んだ。


「エアノーレ。後ろの杭だ」


標尺を抱えていたエアノーレが、前日の仮水準点へ向かう。


藍色のローブの裾が、乾いた草を撫でた。


腕には標尺。


腰には、収納された星律棍。


測量隊の中で、その姿はいまだによく目立つ。


銀白の髪も、見慣れない装いも、本道の人夫たちの目をいまだに引いた。


だが、いまでは久世のもとで働く異国の娘――雨宮班の標尺持ちとして、少しずつ現場に受け入れられていた。


「その杭の頭へ、標尺の底を乗せろ」


「はい」


エアノーレは杭の位置を確かめ、標尺を垂直に立てた。


「少し右」


一歩動く。


「行きすぎ。半歩戻れ」


「半歩ですね」


「そう。そのまま」


標尺が止まる。


まちるは接眼鏡を覗き込んだ。


十字線の向こうで、標尺の目盛りが揺れもせず静止している。


最初の頃は、垂直に立てたつもりでわずかに傾けたり、まちるの指示を正確に受け取ろうとして動きすぎたりした。


今は違う。


足元の小石を避け、標尺の底を杭へ当て、身体の軸だけで微細な揺れを抑えている。


「よし」


まちるは読み取った値を声に出した。


自分でもう一度確かめてから、測量帳へ書き込む。


次に、前方の標尺手が立つ地点へ水準儀を向けた。


雨宮班には、エアノーレ以外にも、運搬や記録を補助する者がついていた。


器械箱を預かっていた若い人夫が、まちるの読み上げた数字を別の帳面へ控える。


一人が読み、一人が記す。


聞き違いがあれば、その場でもう一度確かめる。


森の中で積み重ねた数字は、あとから地面を眺めただけでは、正しいかどうか判断できない。


だからこそ声に出し、書き、照らし合わせる。


人の目と耳を重ねて、間違いを少しずつ減らしていく。


「前方、もう少し左だ」


まちるが声をかける。


先の標尺手が位置を直した。


「そこで止めろ」


標尺が静止する。


まちるは前視を読み、帳面へ数字を書き込んだ。


後視との差を取り、高低差を計算し、次の仮点へ高さを移す。


「移るぞ」


「はい」


エアノーレが標尺を持ち上げた。


後ろ側に立っていた彼女が、水準儀の横を通り越し、次の地点へ向かっていく。


まちるは水準儀を三脚ごと抱え、二本の標尺のほぼ中ほどへ据え直した。


この繰り返しによって、高さを少しずつ先へ送っていく。


挿絵(By みてみん)


見た目は地味な仕事だった。


同じ器械を据え、


同じ目盛りを読み、


同じように帳面へ記す。


少し歩いて、また据える。


そして、また読む。


けれど、一度の読み違いが、その先のすべてを狂わせる。


道の高さが変われば、切り取る土の量も、盛る土の量も変わる。


水を逃がす場所も変わる。


橋を架ける高さも、雪解けや凍結によって水の集まる場所も変わる。


ほんのわずかな数字の違いが、完成した道では大きな歪みになる。


一本の線は、一つの数字から崩れる。


だから、まちるは急がなかった。


隣の区間では、別の水準班がすでに器械を畳み、さらに先へ移り始めていた。


それを見た補助の若者が、少し落ち着かない様子を見せる。


「向こうは、もう二据え先ですよ」


「向こうは向こうだ」


まちるは接眼鏡から目を離さなかった。


「早く進んでも、間違って戻れば同じだ」


「でも、今日中に沢まででしょう」


「間違えずに沢までだ」


若者は口を閉じた。


しばらくして、標尺を立てたままエアノーレが言う。


「速度よりも、接続精度を優先するということですね」


「そうだ」


「まちるは、戦闘時より慎重です」


「測量と喧嘩を一緒にするな」


「どちらも、足場と相手の位置を確認しています」


「一緒にするなと言ってる」


「さらに、相手の動きを予測します」


「増やすな」


近くで作業していた別班の器械手が、こちらを見て笑った。


「雨宮班の標尺持ちは、ずいぶんよく喋るな」


エアノーレは標尺を支えたまま、その男へ顔を向けた。


「黙って立つこともできます」


「そうなのか」


「現在は、会話が作業を妨げないと判断しています」


「口まで真っすぐだな」


男は肩を揺らし、自分の持ち場へ戻っていった。


まちるは接眼鏡を覗いたまま、小さく息を吐く。


「変なところで評判になるなよ」


「標尺保持については、良好な評価です」


「そこじゃない」


「では、どこでしょうか」


「全部だよ」


エアノーレは少し考え込んだ。


「評価対象が広すぎます」


「そういうところだ」


肩に乗っていたハクが、同意するように短く鳴いた。


「ハクまで何だ」


白いエゾリスは、まちるの頬を前足で軽く叩いた。


「お前はどっちの味方なんだよ」


「ハクさんは、中立の観測個体と思われます」


「また変な分類をするな」


「では、雨宮班所属の補助員です」


「標尺も持てないだろ」


ハクが不満そうに尻尾を膨らませた。


まちるは、その顔を横目で見る。


「そんな顔してたら、そのうち標尺を持たされるぞ」





午前の終わり頃、久世が雨宮班の区間へ姿を見せた。


一つの班に付ききりでいるわけではない。


水準班の接続状況を確かめ、踏査班の報告を聞き、中心杭の位置に問題がないか見て回っている。


手には複数の測量帳と、折り畳んだ図面を抱えていた。


黒羽根が現場を去ったあと、現地で下される判断の多くが、再び久世の肩へ戻っている。


それでも、声を荒らげることはなかった。


何か問題があれば現場まで歩き、数字を見て、地面を踏み、自分の目で確かめる。


「どこまで出た」


「あと三据えほどで、第二班の終点へ届きます」


まちるが答えた。


「高低差は」


「予定より少し緩いです。沢の手前に軟らかい地面がありますが、本道の中心からは外せます」


久世は測量帳を受け取り、記された数値を目で追った。


「後視と前視の距離は揃えているな」


「はい」


「接続点へ着いたら、すぐ先へ進むな。第二班の成果と合わせろ」


「分かっています」


久世は帳面から目を上げた。


その視線が、まちるの右手へ止まる。


「その手は」


「動きます」


「動くかどうかは聞いていない」


「少し痛むだけです」


「その『少し』が信用ならん」


久世は、まちるの隣に立てかけられた三脚へ目を向けた。


「接続を終えたら、水準儀はほかの者に持たせろ」


「持てます」


「持てることと、持ってよいことは別だ」


「でも――」


「測量を続けられなくなってからでは遅い」


まちるは不満そうに口を閉じた。


久世の視線が、標尺を抱えるエアノーレへ移る。


断崖では、誰も渡れなかった岩場を越えた。


森では、銃声にも退かなかったキムンカムイを、光と雷鳴で押し戻した。


そのどちらも、今の静かな立ち姿からは想像しにくい。


「相変わらず、妙な忍び働きをする娘だな」


「忍び働きではありません」


「そうか」


久世の口元が、わずかに緩む。


「標尺持ちにしておくには惜しい」


「引き抜かないでください」


まちるは即座に言った。


久世が片眉を上げる。


「まだ何も言っていない」


「言う前に止めました」


「うちの班員です」


エアノーレも続けた。


まちるが横を見る。


「お前が言うのかよ」


「所属確認です」


「聞いたか、久世さん」


「本人までその気なら、今のところは雨宮班へ置いておこう」


「今後もです」


「それは働き次第だ」


「働いてるでしょう」


「なら、まず接続点まで出せ」


久世は測量帳を返し、次の班へ向かおうとした。


少し離れた場所で、別班の班長が手を挙げている。


「久世さん、こちらの閉合差を見てください」


「ああ。今行く」


久世の背中が、木々の間を抜けて遠ざかっていく。


エアノーレが、その後ろ姿を見送りながら尋ねた。


「閉合差とは何ですか」


「測って進んで、別の基準点へつないだ時に出る食い違いだ」


「誤差ですね」


「ああ。小さければ、決められた範囲に収まる。大きければ、どこかで読み違えたか、器械が狂ったか、標尺が動いたかだ」


「原因を探して、測り直すのですか」


「そうなる」


「一つの誤差が、線全体へ影響する」


「だから何度も確かめる」


エアノーレは、離れた場所で動く測量班を見渡した。


「複数の班が、同じ基準へ結果を接続しています」


「それが、組織で測るってことだ」


まちるも周囲へ目を向ける。


沢の手前では、別の班の標尺が立っている。


尾根では、枝を払う斧の音がする。


予定線の先では人夫たちが杭を運び、後方では別の班が測量帳を囲んでいる。


雨宮班が一日止まっても、すべての仕事が止まるわけではない。


別の区間では別の班が進み、その成果はやがて同じ線へつながる。


父と二人で山を歩いていた頃とは違う。


あの頃は、森蔵が前を歩き、まちるがその背を追った。


二人で測り、二人で書き、一枚の地図へ線を残した。


だが、いま引いている本道は、一人の地図ではない。


大勢の手でつくられていく道だった。


「星側の網に似ています」


エアノーレが言った。


「また物騒なものと一緒にするな」


「構造の話です。一つの地点だけでは、全体を支えられません。複数の点が接続され、一つの機能になります」


「古帝国軍の網は、人を閉じ込めるためのものだろ」


「はい」


「私たちの線は、人を通すために引いてる」


エアノーレは少し考えた。


「同じ構造でも、目的が異なる」


「ああ」


まちるは前方の標尺へ視線を戻した。


「線が悪いんじゃない」


接眼鏡の中で、標尺の目盛りが静止している。


「誰が、何のために引くかだ」


エアノーレは、その言葉を確かめるように繰り返した。


「誰が、何のために」


「ああ」


まちるは数字を読み上げた。


午後、雨宮班は沢の手前に設けられた接続点へ届いた。


大木の根元へ打ち込まれた太い杭には、第二班の印が刻まれている。


まちるは最後の後視と前視を読み、算出した高さを帳面へ記した。


第二班から渡されていた値と照らし合わせる。


補助の若者が息を詰め、まちるの指先を見つめていた。


まちるは二つの数字を慎重に追った。


一度。


もう一度。


許容される範囲に収まっている。


「どうです」


若者が、たまらず尋ねた。


まちるは帳面から顔を上げた。


「つながった」


若者が、ほっと息を吐く。


「よかった……」


エアノーレも、標尺を立てたまま尋ねた。


「再測定は不要ですか」


「今の差ならな」


まちるは帳面へ接続確認の印を入れた。


「これで、うちの区間は終わりだ」


数字と数字がつながっただけだった。


地面に突然、道が現れるわけではない。


だが、二つの班が別々の場所から延ばしてきた高さが、一つの杭の上で合った。


目には見えない線が、そこで確かにつながっている。


器械を畳み、標尺についた泥を布で拭う。


補助の者たちは、道具を仮営地へ戻す準備を始めた。


その間に、まちるは周囲の視線を確かめ、胸元から小さく折り畳んだ地図を取り出した。


父、雨宮森蔵が遺した地図。


開拓使の正式な測量図ではない。


沢。


尾根。


湿地。


名のない水辺。


そして、通常の地図には必要のない、幾つもの符号。


白樺の水辺。


ポロチケウ。


幌別。


苫細。


そこに残された印は、古帝国軍の中継器の位置と重なっていた。


森蔵が何を見ていたのか。


なぜ、それを通常の測量記号とは異なる形で書き残したのか。


まだ、すべては分かっていない。


そして、その先に次の符号があった。


いま測り終えた接続点から、沢を越えて北西へ。


遠くはない。


本道の測量が進んだことで、父の印へ向かう足場も、以前より近くまで延びていた。


森蔵が一人で分け入った頃には、道らしい道さえなかったはずだ。


父は、ここから先を、どのように歩いたのだろう。


何を見つけ、何を恐れ、それでもなぜ印を残したのか。


エアノーレが隣へ立った。


「次の中継器ですね」


「ああ」


まちるは声を落とした。


「この沢の向こうだ」


エアノーレは地図と、その先の森を見比べた。


「日没まで、あまり時間がありません」


「位置を見るだけなら間に合う」


まちるが地図を畳もうとすると、エアノーレは森へ視線を向けたまま言った。


「まちる。ここからは、軍人としての経験に基づく推測になります」


その声には、先ほどまでとは違う硬さがあった。


「今後の中継器探索は、これまで以上に慎重に進める必要があります」


まちるの手が止まる。


「どういうことだ?」


「わたくしたちは、すでに複数の中継器管轄域へ立ち入っています」


「でも、幌別と苫細では、気づかれないように施したんだろ」


「はい。中継器の表層動作を維持し、処置そのものが異常として検出されにくい方法を用いています。現時点で、施しが発見された兆候はありません」


「なら、何を警戒してる」


エアノーレは、胸元の星衣核へわずかに視線を落とした。


「白樺の水辺で星衣核が損傷した際、星衣の秘匿機能も一時的に失われました。その間、わたくしが未登録個体として検知された可能性があります」


「あの時の反応を、古帝国軍が調べているかもしれないのか」


「はい。ただし、検知記録だけではありません」


エアノーレは森の地面へ視線を移した。


「中継器そのものに異常がなくても、周辺に残った痕跡までは消せません」


「痕跡?」


「足跡。踏み分けられた草木。長時間、一か所に留まった形跡。人や獣が通ったことで生じる、地面や枝葉の変化です」


まちるは、自分たちが中継器へ近づいた時のことを思い返した。


目立つ枝は避けた。


足元にも注意した。


だが、森へ入った事実そのものを、完全になかったことにはできない。


「同じような痕跡が、幾つもの中継器周辺で見つかれば……」


「古帝国軍は、偶然ではなく、何者かが中継器を探していると判断する可能性があります」


まちるは地図へ目を落とした。


白樺の水辺。


ポロチケウ。


幌別。


苫細。


そして、その先に記された次の印。


自分たちが歩いてきた経路が、紙の上で一本の線としてつながっている。


「向こうも、この線を追い始めるかもしれない」


「はい」


「次に私たちが現れそうな場所も、読まれる」


「その可能性があります」


まちるは地図を畳んだ。


「今日は施しをしない」


「同意します」


「見つけても、位置と周りの様子を確かめるだけだ」


「危険を認めた場合は」


「戻る」


「即時にですか?」


「戻るよ」


エアノーレは、まちるの顔をじっと見た。


「何だよ」


「発言の信頼度を確認しています」


「人の返事を測るな」


「測量班ですので」


「そういうことだけ覚えるな」


肩の上で、ハクが小さく鳴いた。


まちるは地図をしまい、三脚を担ぐ。


掌の傷が、また鈍く疼いた。


エアノーレの視線が、その手へ下りる。


「三脚は置いていくべきです」


「これは持っていく」


「負傷した手へ負担がかかります」


「森を歩く時は杖にもなる」


「水準儀を支える測量器具です」


「今は水準儀を載せてない」


「戦闘時には武器として使用しています」


「使わずに済むように祈ってろ」


「祈祷機能はありません」


「知ってるよ」


二人は仮営地へ戻り、久世へ測量終了の報告を済ませた。


「久世さん。予定線の周りを、ちょっとだけ見てきます」


久世は測量帳から顔を上げた。


まちるの肩の三脚を見る。


「水準儀は置いていけ」


「はい」


それだけだった。


どこへ行くのか。


何を探すのか。


久世は聞かなかった。


森蔵の探し物へ、まちるが片足を踏み入れていることくらいは、久世も知っている。


だが、問いただせば、久世自身もその内側へ踏み込むことになる。


だからこそ、あえて立ち入らない。


現場責任者として知るべきことと、知らないままでいるべきことがある。


「日が落ちる前に戻れ」


「はい」


「何か見つけても、深入りするな」


まちるは小さくうなずいた。


「戻ります」


久世は一歩退く。


「エアノーレ」


「はい」


「連れて帰れ」


「承知しました」


「本人の前で勝手に決めないでください」


「なら、自分で戻ってこい」


まちるは返す言葉を失った。


久世は再び測量帳へ目を落とす。


「夕刻の笛が鳴る前だ」


「分かりました」


「分かったなら行け。こちらも暇ではない」


追い払うような口調だった。


だが、二人が歩き出したあとも、久世の視線が背中へ残っていることを、まちるは感じていた。


仮営地を離れ、沢へ向かう。


背後では、まだ各班の仕事が続いていた。


標尺を束ねる音。


測量帳を読み合わせる声。


杭をまとめる人夫たちの掛け声。


雨宮班がそこを離れても、本道の線は止まらない。


誰かが測り、


誰かが書き、


誰かが杭を打つ。


今日つながった線は、明日にはまた、その先へ延びていく。


人の声が、木々の向こうへ少しずつ遠ざかった。


沢へ下りる斜面は、日陰に入ると土が湿っていた。


まちるは三脚の先を地面へ突き、足場を確かめながら進む。


エアノーレは、その半歩後ろを歩いている。


藍色のローブの裾が、落ち葉の上を静かに滑っていた。


「見張るなよ」


「見張っています」


「正直に言うな」


「久世からの依頼です」


「私の班員だろ」


「久世は現場責任者です」


「そういう時だけ命令系統を守るのか」


「命令系統は常に重要です」


「私の言うことは」


「内容を精査します」


「扱いが違いすぎるだろ」


肩の上で、ハクがまた鳴いた。


「笑ったな、お前」


沢の水は、午後の光を細く返していた。


流れの浅い場所を選び、石から石へ足を移す。


水音が、背後の作業音を少しずつ消していく。


対岸へ渡る頃には、人の声はほとんど聞こえなくなっていた。


聞こえるのは、水の流れる音。


靴が落ち葉を踏む音。


そして時折、ハクが枝を渡る小さな気配だけだった。


その先に広がる森は、夕方の光を受け、静かに沈み始めている。


本道予定線の周囲とは違い、枝を払った跡も、杭を打った印もない。


人の手が、まだ入っていない森だった。


まちるは、懐に収めた父の地図を思い浮かべる。


未完の線の先に、何が待っているのか。


森蔵は、どこまで知っていたのか。


なぜ測量図の中へ、中継器の位置を残したのか。


まだ分からない。


ただ、これまでのように、誰にも気づかれず近づけるとは思っていなかった。


エアノーレの歩調が、わずかに変わった。


まちるは足を止める。


エアノーレの右手が、腰の星律棍へ近づいている。


「どうした」


返事は、すぐにはなかった。


エアノーレは目を細め、木々の奥へ意識を向けている。


「照合信号を検知しました」


まちるの表情が変わった。


挿絵(By みてみん)


肩の上で、ハクが身を低くする。


「中継器からか」


「断定できません」


「近いのか」


「微弱です。断続的に走査されています」


「走査……」


まちるは周囲を見回した。


白樺と針葉樹が入り混じり、幹の向こうは薄暗い。


風に枝が揺れている。


獣の気配はない。


人の足音も聞こえない。


「こちらの居場所は、もう知られているのか」


「現時点では、その可能性は低いと判断します」


「どうして分かる」


「わたくしは現在、照合信号を発していません。星衣核も、受信を優先した静穏状態です」


エアノーレは、自らが纏う藍色のローブへわずかに視線を落とした。


「加えて、このローブが星衣核から漏れる反応を抑えています」


まちるも、その肩を覆う古い布へ目を向けた。


「じゃあ、向こうの信号だけ拾ってるってことか」


「はい。抑えられているのは、主にこちらから外へ漏れる反応です。外部から届く走査信号の受信までは妨げません」


まちるは小さく息を吐いた。


「つまり、息を潜めたまま、向こうの様子をうかがってるわけだな」


「その認識で問題ありません」


エアノーレは森の奥へ視線を向けたまま、わずかに眉を寄せた。


「ですが、走査は続いています」


「こちらの動きを追っているのか」


「正確には、こちらの動きを捕捉しようとする反応に似ています」


まちるの目が細くなる。


「何者かが、それを行っている……」


「はい」


エアノーレの右手が、静かに星律棍の柄へ触れた。


「やはり、古帝国軍の者による可能性が高いです」


その言葉と同時に、風が止んだ。


葉擦れの音が消える。


森全体が、息を潜めたように静まり返った。


背後からは、沢の流れる音だけが、かすかに届いていた。



つづく


著:國風惠昂

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