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「一ヶ月の間に、公爵家の全てをノアに教えるように」
父はそれ以上の言葉を交わすことなく、私たちを執務室から追い出した。
半ば、放り出されるように廊下へ出された私とノアは、しばらく言葉もなく並んで立ち尽くす。
「……えっと、ノア様。これからよろしくお願いいたします」
気を引き締めて声をかけると、ノア様は穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「ノア様だなんて、よそよそしいですよ。俺のことはノアで構いません。“お姉様”」
「お、おね……」
一瞬、口にしかけて、言葉が詰まる。
――お姉様。
たった一言なのに、胸の奥が小さく跳ねた。
前世でも今世でも、私はずっとひとりっ子だった。
だからこそ、姉弟というものに淡い憧れを抱いていたのかもしれない。
自分より少し小柄な、でも生意気そうな弟に「お姉様」と呼ばれる感覚――
くすぐったくて、妙にこそばゆい……でも、どこか嬉しい。
(お姉様呼び……悪くない、かも……)
思わず頬が緩みそうになり、慌てて引き締める。
それと同時に――拭いきれない違和感に、心がざわついた。
(……でも、原作のノアはこんな子じゃない)
原作のノアは、もっと無口で、冷たくて、どこか棘があったはずだ。
少なくとも、こんな風に笑って距離を縮めてくるキャラじゃない。
「お姉様、これから予定ありますよね。明日から、どうぞよろしくお願いします」
美しく一礼し、彼は背筋を伸ばして去っていった。
その姿が見えなくなるのを見届けて、私は急いで自室へ戻った。
――その違和感の正体を、はっきりさせるために。
引き出しの奥にしまっていた鍵付きの手帳を取り出し、慎重に開く。
そこには、“前世の母国語”で記された『オリビア・ストーリア』の詳細――私が思い出せる限り書き留めてきた物語の断片が詰まっていた。
「えっと……ノアのところは……」
ページをめくりながら、該当の箇所で手を止める。
「あった……」
― ノア・ヴェイル ―
地方の男爵家の出。年齢は一つ下。初登場は、オリビアが学園に入学してすぐの頃。
本来、学園にはいくつかの入学条件がある。
貴族であること、十六歳であること、素行に問題がないこと――だが、ノアはその例外だった。
突出した知性を評価され、特例で“飛び級入学”を果たしたのだ。
入試では首席合格。入学後も常に成績トップ。
武術の腕も優れていて、まさに文武両道の天才。
ただし――、
「性格に、難あり……」
一言で言えば、捻くれ者。
冷淡で、他人を見下す態度が目立ち、同級生にも上級生にも疎まれていた。
陰口、いじめ、時に暴力さえ――
それでもノアは動じず、淡々とやり過ごしていた。
そんなノアの唯一の弱点。
――ノアは、治癒しにくい体質だった。
普通なら三日で治る擦り傷が、一週間、あるいはそれ以上かかる。
さらに厄介なことに、神聖力による治癒も効きにくいのだ。
ある日の放課後、オリビアは怪我をした彼を見かける。
優しい彼女は、神聖力での回復を試みるが、やはり効果はなかった。
『いつものことだから、気にするな』
気だるげに立ち去ろうとする彼の手を、オリビアはぐっと掴む。
『神聖力が効かなくても、できることはあります!』
そう言って、傷に絆創膏を貼り、包帯を巻く彼女の姿に、ノアとプレイヤーは恋に落ちた。
――これが攻略ルートの始まりだ。
その後のノアは、一転して“過保護なほどの執着”を見せるようになる。
どこに行っても、どんなときでも、必ず近くにいて、見守り、手助けし、時には周囲を牽制する。
その姿はまさにストー……とにかく健気だった。
静かで、ひたむきで、少し怖いくらいに――
「……懐かしいなぁ。あの独特の“ヤンデレ感”が、また良かったんだよね……って、違う!」
思わず自分にツッコミを入れて、首を振る。
――やっぱり、違う。
記録に残されたノアと、今日出会ったノア。
その違いは、ただの“性格差”では片づけられない。
(オリビアの時から、いや……ライアン様の時点で、すでにズレていた)
この“違和感”の正体を突き止めなければ――
いずれ、致命的な誤りを犯すことになるかもしれない。
「原因を、調べてみなくちゃね……」
原作を知る私だからこそ、できることがある。
今のノアが本当の姿か、それとも仮面か。
ゲームの知識、固定概念には囚われてはいけない。
先ずは、ノアのことをより深く知ることから始めよう。
それに頭のいいの彼のことだ、公爵家に嫁ぐための明確な目的があるはずだ――
「……よし。やるからには、ちゃんとやらなくちゃね」
私は手帳を閉じ、鍵をかけ、引き出しの奥にしまった。
これからの一週間――“弟”としてやってきたノアと本気で向き合うことを決めた。
***
その夜は、珍しく父と同席しての晩餐だった。
長い食卓、父の右隣には私。そして正面にはノアが座っている。
「今日はノアの歓迎の席だ。ゆっくり食事を楽しんでくれ」
(……随分と、らしくないことを)
父の口から“歓迎”なんて言葉が出るとは思わなかった。
そんな気の利いた演出をする人じゃない。
(……いや、これは“歓迎”じゃなくて――“見定めだ”)
運ばれてきた料理を見て、すぐに察した。
生ハムとメロン、ロブスターのテルミドール、骨付き鶏肉のコンフィ。
デザートにはババロア。いずれも高級だが、食べにくいものばかりだ。
この場でノアのマナーを試すつもりなのだろう。
品格、教養、振る舞い……公爵家の後継者として相応しいかどうかを見極めるために。
けれど――父の思惑は、あっさりと裏切られた。
ノアの所作には、一分の隙もなかった。
ナイフを取る手つき、フォークの角度、料理を口へ運ぶまでの動作――どれをとっても洗練されていて、教本のように正確だった。
(ルーク様が食べようとしたら……メロン、きっとつるんって滑るんだろうな)
ふと浮かんだ光景に、思わず口元が緩みそうになる。
今もなお、必死に頑張ってるだろう彼のことを考えると微笑ましい。
(あとで、手紙を書いてみようかしら……)
そんなことを考えているうちに、食事は滞りなく終わりを迎えた。
「ノアは明日からリネットの席に座りなさい。リネットは左席へ移るように」
彼は、余程お父様のお気に召したらしい。
それぞれ礼を述べ、席を立つ。重苦しい空気の晩餐会が、ようやく終わりを迎えた。
***
「はぁ……美味しかったはずなのに、食べた気がしないわ」
部屋に戻り、私はため息をついた。
昼間にルーク様と食べた簡素な料理のほうが、何倍も美味しかった。
――きっと、食事の味を決めるのは“誰と食べるか”なのだ。
「あ、そうだ。ルーク様にお手紙を……あら」
机の上に、一通の手紙が置かれていた。
封蝋は、少し斜めに押された王家の印章。
不器用で、それでも一生懸命な“彼”の姿が思い浮かぶ。
《リネット様へ
お変わりありませんか? 僕は今日の夕食で、桃のカプレーゼをいただきました。
リネット様に教わった、テーブルマナーと食器の使い方を意識してみました。
……でも、桃が滑ってうまく切れず、転がってしまいました。
もっと練習します。今度会うときには、うまくできるように。
鍛錬も頑張っています。今日はいつもより長く続けられました。
ライアンにも褒められて、ちょっとだけ……嬉しかったです。》
思わず笑みが漏れる。
たどたどしいけれど、丁寧に綴られた文字。
素直でまっすぐな言葉に、読んでいるだけで、胸があたたかくなった。
私は筆をとり、返事を書いた。
《ルーク様へ
それは立派な進歩ですね。お食事の件は残念ですが、鍛錬を長く続けられたのは素晴らしいことです。
無理だけはしないようにしてくださいね。あなたの努力は、きちんと届いています。
しばらく会えませんが……この文通で、あなたの努力と気持ちを、ずっと感じていたいと思っています。》
手紙を書き終えると、私は封を閉じた。
遠く離れていても、彼の姿はすぐそばにある気がした。
ルーク様が頑張っているなら、私も頑張らなくちゃいけない。
(今は離れていても……ちゃんと見てますからね、ルーク様)
彼の温かい文章が、私の心までも温かく灯してくれた。




