13
深紅の絨毯と白い柱に囲まれた一室。飾られた花瓶には、今朝摘んだばかりの色とりどりのガーベラが、彼の成長を温かく見守っているようだった。
「……背筋、まっすぐ……です、よね……?」
控えめな声でそう問いかけるルーク様の瞳には、緊張と不安が入り混じっていた。
それでも、昨日までのように下を向くことはなく、ちゃんと前を見ている。
「ええ、完璧とは言いませんが――昨日より、姿勢がしっかり安定してきましたわ」
そう微笑みかけると、彼は少しだけ、はにかんだ。
私たちは本格的に“王子育成計画”に取り組むことにした。
目標は三年後――十五歳のデビュタント。
貴族の子息・令嬢たちが正式に社交界へと足を踏み入れる一大儀式。
その場では家柄も容姿も評判も、すべてが評価される。
――つまり、それは人生最初の「公式な品定め」なのだ。
そんな大舞台で見違えるほどに成長したルーク様を見たものはどう思うだろうか?
噂とはまったく異なるその姿に、誰もが驚き、目を奪われるはず。
「た、立ってるだけなのに……お腹が痛いです……」
「ふふ、お腹に効いてくるでしょう? 慣れたらこの体制が一番楽になりますわ」
「これが、楽になる日が来るのかなぁ……」
「正しい姿勢が身につくには、三ヶ月かかると言われています。根気よく続けましょうね」
まずは姿勢矯正から。そして次は歴史や一般常識の学習。食事の時間にはテーブルマナー、食器の使い方、ナイフの動かし方まで。
「ナイフはお魚の背に沿わせるように……そう、優しく」
「いや、これじゃまるで手術……おいルーク、魚の恨み買うぞ」
時にはライアン様の茶々が入ることもあるけれど、それも含めて、学びの時間は順調だった。
「少しずつですけど……できる事が増えるって、嬉しいですね……」
「ええ、これからもっと増えていきますわ。本日も、お疲れ様でした」
昼食を共に終えたあと、私は彼に別れを告げた。
この後はライアン様との鍛錬や復習の時間に当てるようにしている。
私自身もマナーの基本は身に着けているとはいえ、学びに終わりはない。
だからこそ、ルーク様に付きっきりというわけにもいかないのだ。
そして帰り道。
“公爵家”の権限を用いて、宮内の許可されたエリアを視察するのが、ここ最近の日課になっている。
(今日は東側に足を延ばしてみようかしら……)
もちろん立ち入り禁止の区域も多いが、それでも視線と足で得られる情報は貴重だ。
“あの子よ、例のブサメン王子の婚約者”
“まだ関係が続いてるの? 本気なのかしら”
“最近はライアン様まで関わってるって……どういうこと?”
ひそひそと交わされる視線と声は、相変わらず途絶えない。
でも――以前のような冷たい嘲笑ではなく、奇妙な興味へと変わりつつあるのを、私は確かに感じていた。
「ふふ、そのまま注目していればいいのよ」
やがて訪れるであろう驚愕の瞬間を想像して、私は小さく笑った。
そうして庭園へ続く廊下に差しかかった、そのとき――
(……あら)
手を取り合って寄り添いながら歩く、国王陛下と王妃様の姿があった。
互いを慈しむようなまなざしを向け合い、その世界には二人しかいない。
彼らは私に気がつくことなく、ゆっくりと庭園へ向かっていった。
「……皮肉なものね」
あれほどまでに仲睦まじいご夫婦なのに。
噂を流されても、実の息子には無関心。
自分たちが幸福なら、それでいいのだろうか――?
胸の奥に沈殿する重苦しさを抱えながら、私は静かにその場を後にした。
***
「お帰りなさいませ、リネット様」
屋敷に戻ると、執事長を先頭に、侍女頭やその場で仕事していたメイドたちが一斉に頭を下げて出迎えてくれた。
――さすがは父が選んだ精鋭たち。
私の無理難題にも、眉ひとつ動かさずに職務をまっとうする。
愛嬌には欠けるけれど、それがまた“公爵家”らしい。
「ただいま。今日の予定は夕方からだったかしら?」
「はい、本日は刺繍と絵画でございます」
「……芸術尽くしね。私は政情や歴史を学びたいのだけれど」
「リネット様は、すでにその分野ではご優秀でいらっしゃいますから。それと一つ、ご伝言をお預かりしております」
――ついに来たか。
「“戻られましたら、すぐに執務室へ”とのことです」
「……分かりました。すぐ向かいますわ」
父はこれまで、私の行動に干渉してこなかった。
だからこそ、逆にずっと警戒していた。報告は受けているはずだし、王弟や国王からの圧力があっても不思議ではない。
(どうか、最悪の話でありませんように……)
ルーク様の廊下とはまた違う、この家の廊下は静寂そのもの。敷き詰められた絨毯に足音は吸われ、壁から漂う威圧感が肌に刺さる。
重厚な執務室の扉の前で、私はひと呼吸ついた。
緊張を悟らせぬよう意識を整え、扉を軽く叩く。
「お父様、リネットです。王宮から戻りました」
「リネットか。入れ」
低く抑えられた声に導かれるまま、扉を開けて中へ入る。
「失礼いたします」
「お茶を用意させた。そこに座りなさい」
(……あら?)
少し意外だった。てっきり、立ったまま厳しい言葉を投げられるかと思っていたのに。
「ありがとうございます」
すすめられるままソファに腰を下ろすと、父も対面に座り、姿勢を崩すことなく紅茶を口に運ぶ。
静かな時間が流れる。
やがて、父はカップを置き、口を開いた。
「王宮での振る舞いは、概ね聞いている。よく立ち回っているようだが――目立ちすぎるのはよくない」
「……は、はい。気をつけます」
「だが、王子からの信頼を得ているのは“得”だ。そこは引き続きうまくやれ」
――返事をしたくなかった。
私は損得でルーク様の側にいるわけではない。
けれど、この人は違う。
常に物事を打算で測り、不要と判断すれば、容赦なく切り捨てる。
――例え、それが“自分の娘”でも。
「……あり、がとうございます」
形式的な返答を返し、手元の紅茶に視線を落とす。
まだ、半分以上残っている。
(……本題は、これから)
静寂が戻る。
室内に響くのは、懐中時計の時を刻む音だけ。
数拍ののち、父はまたカップを手に取り、ふた口ほど飲むと、今度は落ち着いた調子で話し出した。
「リネット。お前が婚姻を結んだことで、公爵家の後継問題を考える必要が出てきた」
「……跡取りの件、ですか?」
「遠縁にひとり、有望な少年がいると聞いた。年も近く、資質も申し分ない。正式に養子に迎えることにした」
その言葉に、胸がざわついた。
(……そんな展開、原作にはなかった)
原作の父は後継を決められず、最終的にリネットの行動が引き金となって爵位を失った。
けれど今、その流れが変わろうとしている。
(まさか……)
心当たりは、一人いる。
だけど、彼は――
「入ってきなさい」
扉の外に控えていた人物を呼び入れる父の声に、胸の鼓動が一気に跳ね上がった。
そして――現れたのは、見覚えのある少年。
軽く癖のあるワインレッドの髪。
落ち着いたアメジストの瞳
少し幼さを残す表情と、冷静な佇まい。
「男爵家の令息、ノア・ヴェイルと申します」
丁寧に一礼するその姿に、私は無意識に息を飲んだ。
――やっぱり、彼だ。
“オリビアを深く愛してやまない、攻略対象の一人”
「ノアは成績も素晴らしい。訓練にも耐えられる体力がある。加えて何より、無駄口を叩かない」
父が珍しく褒め言葉を並べるのを聞きながら、私は静かに観察を続けた。
彼の背筋は伸びていて、言葉遣いも淀みがない。立ち振る舞いも、隙がない。
その姿は、私の知ってる彼と異なっていた。
(……まるで、最初からここに来ることが決まっていたかのよう)
「これからは、この屋敷で共に学び、いずれは“公爵家の後継”としての自覚を持ってもらうつもりだ」
「は……はい……」
胸の奥が引っ掛かり、乾いた返事しか出てこなかった。
(なぜ、今このタイミングで……)
ルーク様との関係の進展。ライアン様との接触。
すべてに歩幅を合わせてくるように現れた、もう一人の“攻略対象”。
偶然だろうか?
それとも、何かの“始まり”なのだろうか。
生まれた小さな歪みに、胸の奥で、名もなきざわめきが静かに膨らんでいった。




