1-2 羽音とともに
遠く、重いものを引き摺るような音が這ってくる。時折混じって聞こえてくるのは、水の音だろうか。
音は、地鳴りのような迫力をもって、聴覚を徐々に蝕んでいく。手足の感覚はなく、開閉する瞼はひと粒の光も捉えない。ただただ、轟音だけがとどまることなく押し寄せてくる。
――ああ、またこの夢か。
そう嘆くのも、もはや何度目のことだろうか。
やがて、鼓膜がびりびりと悲鳴をあげるほどに接近した音が、身体を覆い尽くして消えた。瞬間、暗灰色に埋め尽くされていた視界が嘘のように明転し、雲ひとつない晴天がぱっと広がった。
立ち尽くしていると、ふと右手に感触を覚えて、視線を落とす。先日、王都でクリス王女が手にしていたような騎士剣が握られている。
振るう相手は見当たらない。剣を収めようとした直後、長い髪を焦がす重圧を感じて、視線を持ち上げる。
瞬間、地平線までつづく草原に吹き抜けていた心地よい風が、ぴたりと止んだ。時が止まったかのような景色のなか、目的もなく歩みを進めると、やがて青々とした草木が斑に枯れ落ちはじめ、ひび割れた大地がそれにとってかわった。
止まっていた風が、ふたたび動き始める。追い風から向かい風へ、涼風から熱風へ。そして体にまとわりつくような、怖気のする紫色の瘴気へと、それは姿を変えた。
ぎしりと関節が軋み、重圧に首元を締め付けられ、体が前のめりに倒れた。地面に張り付く足腰を見捨て、痩せた地面に爪をたてる。
何がこの身を駆り立てているのかはわからない。
ただ、そうすべきである、という鈍い意思だけが、重い思考のなかでぐるぐると廻り続けていた。
そして、体を覆う瘴気が、ついに指先までをも飲み込んだ。閉じられていく瞼と意識の奥で、誰かの声が聞こえたような気がした。
その声を最後に、目の前がぷつりと暗転した。同時に、べつの声が耳をくすぐって、おれは漸く目を覚ました。
「セイジ……!」
「…………」
手足の感覚があることを確かめてから、ゆっくりと目を開く。射し込む光を反射して輝く銀髪と、飲み込まれるような紅色の瞳をもつ少女が、目覚めたおれを心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 今日は随分とうなされてましたけど……」
「……いや、大丈夫だ。いつもの夢だった」
「やはり、渡河は体に負担が残るようですね」
その少女……ローズマリーがさしだしてくれた水を呷って、喉の奥にへばりついた毒素を吐き出すような嘆息をつく。
妙に現実感の残るあの夢を見るようになってもう随分と経つが、いまだに慣れない。
かるく腕をのばしてみても、重ったるい体は覚醒してくれない。あの夢を見ると、決まってけだるい朝を迎えるはめになるので、目覚める前からすでに憂鬱なのだ。
勢いをつけて、思いっきり体を跳ね起こした。積み上げられている衣服を適当に引っ張って羽織る。
「どうします? すぐに朝食にしますか?」
欠伸もほどほどに居間に顔を出すと、乳白色のテーブルの上に、真逆の色合いをしたローブが広げられていた。糸と針がそこらに散らばっているあたり、作業の途中なのだろう。しかし……。
「そうしてほしいが、疲れてないか? お前また寝ずに……」
ぱたぱたと履き物の音をたてて脇を通りすぎたマリーが、くるりと振り返って人差し指をのばした。
「私は大丈夫だから、ね?」
唇を抑えられながら、はにかんだ顔をぐっと近寄せられる。深い緋色を溶かした虹彩の迫力に、いつも主導権を握られてしまう。だが、おとなしく首肯したあとに見せる笑顔に嘘偽りはないので、悪い気はしない。頷いて、今日も好きに振る舞わせることにした。
「まだ本調子ではなさそうでしたので、少し軽めにいたしました」
そう言って、マリーは手早く二人分の軽食を拵えてくれた。食後の空間に揺蕩うハーブティーの香りが、ほどよく満たされた腹具合に微睡んだ体を爽やかに目覚めさせてくれる。
「お粗末さまでした」
「うん。ごちそうさま」
皿をさげてくれたマリーの頭をかるく撫でて、窓のそばに身を寄せる。分厚い雲が空一面を薄暗く覆い尽くして、とても晴天は望めそうにない空模様であったが、暇を持て余す日はこのくらいでちょうどいい。マリーの言うとおり、まだ感覚が戻りきっていないので、あまり活動的にもなれないのだ。
窓際に肘をついて、何を見るわけでもなく窓の外をながめる。人間、気を抜いていいと考えると、とことん気が抜けるものであるらしい。目が覚めたのもどこへやら、うすぼんやりと射し込む光と、髪を撫ぜる透明な風にあてられて、意識がゆるやかに薄らいでいった。
夢うつつのさなか何やら硬いものが指先に触れて、体がぴくりと反応をみせた。
「セイジ。ねえ、起きてよ」
名を呼ばれる。
聞き覚えがあるような声であるが、人を起こすにも時と場合を勘案していただきたい。
「たのむ。まだ体がだるいから、寝させてくれ……」
「起きないと、目玉くり抜くよー?」
額に強烈な圧迫感を覚えて、目を見開いた。うたた寝していた顔を覗き込んでいた声の主は、人ですらなかった。
「おはよ。族長補佐から依頼。火急で悪いけど」
流暢な言葉が、ぱくぱくと開閉する嘴から次々と飛び出してくる。黒く澄んだ円い双眸と、指先をがちりと掴んで離さない鉤爪、微睡んでいたとはいえ、勘付くことのできなかった無音の飛翔能力。
「お前が来たときで、火急じゃないことがあったかよ、リーゼ」
ようやく反応らしい反応をされて、リーゼは羽をもたげてみじかい鳴き声を出した。
知人の子飼いであるこの闖入者は、空の狩人であるハヤブサを一回り大きくしたような体躯をもっている。見た目は猛禽類そのものなのであるが、人の言葉を操るのは、そういうことに長けた種なのか、魔力を帯びた影響なのかまでは、聞き及んでいない。
時折、家中を奔走するマリーがこちらを窺っているのがみえた。声をかけてこないあたり、状況は察しているのだろう。
「手伝わないの?」
肩にとまったリーゼが、横顔をのぞきこんでくる。
「邪魔にしかならんからな」
「ふうん」
家にいて所在ないのが嫌になり、家事を手伝おうとしたことは往々にしてあった。
しかし、というよりやはり、マリーを終始振り回すだけであることを理解してからは、部屋の隅にひっこんでおとなしく待つことにしたのだ。
「で、なんの依頼だ? あんまり派手な期待には応えられそうにないんだが」
「そんなに重い依頼じゃないよ」
たぶんね、と首を傾げながら、リーゼは腕に飛び移った。頭を突き出して、掻いておくれと催促してくる。手持ち無沙汰だったので、おとなしく指をのばして掻いてやる。
「ヒト型の生き物の来客があってね。あれこれ尋ねてくるもんだから、若い衆が『戦って勝ったら教える』とか言い出してね……」
「おまたせしました。お急ぎなら、仔細は道中で願います」
飛び込んできた声に言葉をとめたリーゼと一緒に顔を持ち上げる。
いつの間にやら身支度をすませていたマリーが、いつからか部屋の入り口に立っていた。振り返りざま、壁に半身を隠して、じとりとした視線を投げかけてきた。
「早くしないと、置いてっちゃいますよ」
ぼそりと言い残して、マリーは踵を返した。顔を見合わせたひとりと一羽は、弾かれるような動作でその後を追って、着の身着のままで飛び出した。手早く施錠をすませたマリーが、短剣と、繕われたばかりのローブをさしだしてくれた。
「……それで、申し入れを受けてしまったんですか、その方」
「残念ながらね」
途切れ途切れながら、マリーにも話は聞こえていたのだろう。落胆したマリーに飛び移ったリーゼを横目見て、かけらほどの爽快感もない空の下、ぬるい空気を鼻腔から肺いっぱいに取り込んだ。期待通り、かけらほどの爽快感も得ることはできなかった。
初級者であれば、眠気や倦怠感が原因で魔法を失敗させてしまうことはままある。さすがに失敗することはありえないと思いたいが、やはり体調は精度と鋭さにある程度の影響をあたえるもので、それはいくら研鑽をかさねてもどうしようもない。できの悪い仕事をしにいくことを考えると、どうしても気が沈んでしまうものである。
それともうひとつ、気が進まないことがこれから起こる。
「はい、セイジ」
ぼうっと地面をながめていた視線の前に、マリーの手のひらが差し伸べられた。
マリーの右手には、胸にはさまれるようにリーゼが抱きすくめられている。わずかに躊躇したのちに握り返した手が、体ごと引き寄せられた。
有無を云わせる暇もなく、腰に手をまわされる。腰のあたりに密着する感触と体温は、何度経験しても羞恥心が刺激されてしまう。
「これ、もう少し離れられないのか。居心地悪いぞ」
「構いませんよ。ただ、離れると効力が薄まるので、私の体から遠い部分から順に四散していくでしょうけど」
「…………」
「すぐに気にならなくなりますよ」
引き寄せる手にさらに力をくわえて、マリーは空を見上げた。その小さな唇で紡がれた詠唱の言葉が、周囲に見えない風の壁をつくりだした。
『翼よ』
地表から巻き上がる旋風が、青白い光をともなってぼんやりと可視化する。行き場を探すように渦巻いていた風が、瞬間的に沈黙して、すさまじい勢いで直上へと放出された。
体重を感じなくなってから数秒間、強烈な浮遊感が全身をめぐった。それから先は、マリーの言うとおりであった。
空の色どころか、天地すら判別ができない。目まぐるしく視界を飛び回る風に巻き込まれて、どこかへと運ばれている最中なのであろう、という事実確認を脳内で反芻させながら、ただひとつはっきりと感じ取れるマリーとの距離を意識しないように集中した。
その結果、より意識してしまったので、セイジは思考を停止させた。
『地の底より、天の果てより舞い出ずる風よ、我らを彼の地へと導き吹き荒れろ!』
結ばれた詠唱が風の力強さを増して、言葉通りに噴き上がった。三人の姿は白糸のごとく薄い雲の軌跡だけを残して、その意識ともども彼方の空へと消えていった。