0-3 風と魔法の剣戟
『風と魔法の剣戟』と題された演目は、その時を待ちわびていたはずの観衆の興奮を置き去りにした。
剣を突き出したクリスティアが、ふいに口元を緩めて微笑を浮かべる。
それが、開戦の合図であった。
直後、軽やかな靴音をたてた彼女の体が凄まじい勢いで空を駆り、先頭にいる紅色の魔導師めがけて白刃を薙ぎ払った。
揺らめくような動きでそれを躱した魔導師の杖が、お返しとばかりに炎の渦を吐き出す。
琥珀色の瞳に炎を反射させたクリスティアが、身に纏う風を操り、舞うように炎を飛び越える。
軽やかな宙返りを披露したその背中めがけ、青の魔導師が杖を差し向けた。
光を放った杖の周囲に浮かびあがった大小無数の氷の結晶が、青白い弧を描いてクリスティアに躍りかかる。
赤から青へ。瞳の色彩を転じたクリスティアが、不敵に口元を緩め、押し寄せる氷の群れに向けて剣を振りかぶった。
銀色の白刃が、群青色の背景にいくつもの閃光を描いた。
白刃に切り刻まれた氷の粒が、雲のない空に星空のごとき輝きを散りばめ、雪のように淑やかに舞い落ちていく。
戦果を振り仰いだクリスティアの横合い、掲げられた最後の杖から鮮やかな緑色の閃光が迸る。
三日月状の旋風がうなりをあげて空を裂き、クリスティアの真正面を最短距離で貫いた。
視線を転じたクリスティアが、流れるような所作で剣を引き、腰を落として抜刀の構えをとった。
「はッ!!」
声とともに薙ぎ払われた剣閃が、対抗するかのように三日月状の風を放った。
ぎりぎりと軋みながらせめぎ合った同色の魔力は、やがて快音を断末魔の如く残して弾け飛んだ。
相殺した魔力が巻き起こした涼風が、観衆たちの衣服と頭髪を心地よく揺らした。
短い沈黙のなか、構えを改めたクリスティアの姿を仰ぎ見た観衆たちの唇から、思い出したかのような歓声が弾け飛んだ。
「わぁ……!」
幼子のように目を輝かせたマリーと衛兵が、息つく間もなく繰り広げられた剣戟に、思わず溜め息をこぼした。
「綺麗な魔力だなあ……」
肩を並べて観戦していたセイジもまた、思わず身を乗り出して感銘を声にした。
空を自在に舞いながら、剣と魔法を軽やかに使い分け、なお余裕がある。流されるままにこの場に行き着いただけ、と、どこか冷めていたはずの指先が、無意識に腰に帯びた剣をなぞった。
とん、と靴先を鳴らしたクリスティアが、ふたたび先手をとって躍りかかった。
頼りなげに身を寄せ合った魔導師へと振りかぶられた剣は、果たして何の抵抗もなく赤の魔導師を両断した。
「ん……?」
――呆気なさ過ぎる。
なおも高揚する歓声に包まれながら、わずかに体を硬直させたクリスティアの異変を見抜いたセイジが、思わず声をこぼした。その左手を握っていたマリーの手が、ぐい、とセイジの体を引き寄せる。
「セイジ、あれ」
ささやくように耳打ちしたマリーの指先を追って、人気の薄い城壁沿いに走り抜けた視線が、ある一点でぴたりと止まる。セイジたちと同様に、影に溶けるような深い色をしたローブに身を包んだ集団と、その中心でうずくまる輪郭、その足元。
射し込んだ淡い月光が、石畳にじわりと広がっていく血だまりをわずか照らし、すぐに雲にかき消えた。
上空の魔導師を操っていた者たちが、何らかの不運に見舞われたのであろうことを汲み取ったセイジが、短く息を吸い、吐いた。
「……どう、なさいますか?」
そう問いかけたマリーが、何かを言いたげに紅緋色の瞳を煌めかせた。
人命救助のみならず、彼らの思いを人知れず引き継ぎ、大団円を仕立てる。
難題を請け負うか、見て見ぬ振りをするか。『どちらを選びますか?』と、そう訴えるような光であった。
「目立ちたくはない。だけど……」
懐から何かの小瓶を取り出したセイジが、マリーの手を握りしめがてら手渡す。ローブに隠れていた首飾りをさっと取り外し、小瓶と入れ替えるように懐に放り込んだ。
「人助けをするなら、話は別だ」
言うなり、腰に帯びていた剣を静かに抜き放ち、その先を城壁のほうへと指し示す。嬉しそうに頷いたマリーが、表情を引き締めてその先を追った。
「あの兵舎と城壁の間には灌木があったはずだ。そこなら人目を逃れて応急処置ができる。具合を見て、飲ませてやってくれ」
「わかりました。ご武運を」
「……何を、仰って……?」
鈍く煌めいた剣の光に気がついた衛兵が、やり取りを終えたふたりに向けて訝しげに眉を寄せた。セイジに向き直った体は、困惑しながらもすでに剣の柄を握りしめている。
闇に溶けるように消えていったマリーを見送ったセイジが、ゆっくりとフードを脱いで素顔を晒した。
「悪い。見なかったことにしてくれ」
息を呑んで目を見開いた衛兵に向けてそう呟くと、セイジはふっと上空を見上げた。
今まさに霧消せんと揺らめく魔導師と、空の上で立ち尽くすクリスティア。ふたたびフードで顔を隠したセイジの姿が、瞬間、衛兵の目の前からかき消えた。
気配を追いかけて跳ね上がった視線の先、輪郭を失いつつある魔導師の輪郭が突如として炎上した。立ち上る白煙の向こうからあらわれたセイジが、大仰な仕草で剣を振り上げ、身構えた。
異変に揺れていた観衆の視線をたっぷりと引きつけてから、セイジは剣を振りかぶり、大きく跳躍した。反射的に掲げられたクリスティアの剣先を掠めるように、気付けを施すかのように、体重を乗せた一撃を見舞う。
高らかな金属音が、クリスティアの困惑と観衆のどよめきを両断した。
立ち位置を入れ替えたセイジが、クリスティアを挑発するかのように剣を突き出すと、中断した剣戟を見守る雰囲気が徐々に熱を取り戻していった。
(よし、なんとかなった)
声を出すわけにもいかず、内心でほっと溜め息をつく。
見ると、クリスティアが気勢を取り戻したように構えを改めていた。仕切り直しだ。
(とりあえず、何合か斬り合って、後は魔法で適当に離脱すれば――)
慎重を期すため、フードをさらに目深に被り直して顔をあげた、その瞬間。
走り抜けた銀色の剣閃が、セイジの視界を両断した。
(えっ――)
意識とは無関係に体が反応した。そう言うほかなかった。
切り裂かれたフードが力なく垂れ下がり、汗の滲んだ頬がひやりとした空気に晒されていく。鼻が切断されていなかったのは、眼前を通り過ぎていった剣と傾いだ体の角度の都合であったとしか言い様がなかった。
「ふ、ふふ……」
肩を震わせたクリスティアが、背筋が凍り付くような艶然とした微笑を浮かべた。
「まさか、私にすら隠していた展開があったとは、思いも寄らない幸運ですわ……!」
目の色とともに、纏う空気が変わった。
舞いのようなふわりとした動きから一転、ただ淡々と敵を殺すためだけの戦士へ。放たれるのを待ちわびる矢のごとく、隙を見せた瞬間に射殺すと言わんばかりの気迫が、色まではっきりとわかるほどの濃度でもって揺蕩っている。
……思いも寄らないのは、こっちのほうだ。
声に出せない愚痴をこぼし、ゆらりと歩き出した後輩に向け、おれは剣を握り直した。
……
…………
………………
……………………
空から降り注ぐ宵闇と、眼下に広がる暗灰色、その景色の狭間。
散りばめられた街灯が照らすのは、道行く人々の足元のみである。近く訪れる夜を待たずして、パステルカラーが連なる屋根はみな等しく色彩を失い、影に沈んで溶けていく。
それが日常の風景なれば、今宵今晩、空を舞うふたつの人影は、紛れもなく超常の存在であった。
幾度となく繰り広げられた空中戦は、高度を変え角度を変え、時に追撃戦となり、時にそれを逆転させる。
浮かび上がる青白い輪郭が目にも留まらぬ速度ですれ違い、長さの異なる白刃がするどい悲鳴をあげては、星のない夜空に火花を四散していく。その余韻を結ぶように新たな金属音が鳴り響くと、そのたび観衆たちは忙しげに視線を巡らせた。
やがて、剣閃がえがく銀色の応酬に、魔法の彩が加わった。
短い鍔迫り合いから強引に身を離したセイジが、剣先にちいさな火種を灯した。それをみとめたクリスティアが、白刃の周囲に粉雪のごとく魔力を纏わせ、不敵な笑みを浮かべる。
直後、示し合わせたかのように放たれたふたつの魔法が、触れあい、せめぎ合い、周囲一帯を煌々とした光で照らした。
瞬間、またしても同時に斬りかかっていたふたりの競り合いが空に映し出され、消える。
剣先を軋ませながら肉薄したセイジの周囲に、炎が、氷が、雷が、次々と飛び出し、灰色のローブで隠されたセイジの全身を鮮やかな三色に染め上げた。
飛び退ったクリスティアが、螺旋を描きながら空を抉る魔法を見据え、真正面に構えた剣に若草色の魔力を流し込む。囁くように紡がれた詠唱が、刀身を駆け巡った魔力を荒れ狂う風の渦に変質させた。
大きく息を吸い、吐き出す。無造作に振り下ろされた上段斬りの剣先から迸った竜巻が、セイジの放った魔法を稚児のごとく押し潰し、飲み込み、なお突き進んだ。
「…………!」
迫り来る竜巻を苦々しげに睨んだセイジの左手が、短い刀身をなぞるように揺れる。
ぽつりと滲み上がった淡いオレンジ色の点描が、前方に向けられた剣の軌跡を追いかけて半月を模した。
轟音をあげて飛び出した風の魔法が、クリスティアの放ったそれと逆の回転をなして衝突すると、魔力の折衝が生み出す青白い火花がそこかしこに飛び散って、熾烈なせめぎ合いを美しく着飾る。
(魔力の調整、苦手なんだよな……っ!)
ふたつの魔力が削りあう光景を神妙に見つめていたセイジが、軽やかな音をたてて四散した風をみとめてほっと一息ついた。直後、螺旋を描いてわずかに白濁したその景色を裂いて、剣を振りかぶったクリスティアが眼前に飛び出してきた。
慌てて掲げた剣に左手を添えて、セイジは真正面から受け止める姿勢をみせた。右側から水平に薙ぎ払われた剣が触れるその瞬間、セイジの手首がふっと角度を変えた。甲高い音と衝撃を残して、クリスティアの剣が受け流されていく。
晒された無防備な胴体へと肉薄するセイジの視界の端、勢いのままに逸れていったクリスティアの瞳が、見る者を射殺さんばかりの気迫を纏った。過ぎった怖気に従って後退したセイジの左側、人体に許された能力を超えて反転したクリスティアの剣が、唸りを上げてセイジの目の前を両断した。
市民のみならず、軍人たちもまた職務を亡失し、類まれなる剣と魔法を共鳴させる二者の応酬をただ見守るばかりであった。
白刃閃く剣戟は、これみよがしに披露される演舞とも、冷や汗を覚える命の取り合いとも違っていた。
互いの技量を正しく見極めた実力者同士が、余裕を失いかねない薄氷のごとき間際で競い合う。
それは、英雄のみに許された真剣勝負の粋であった。
盤外の好評を聞き入れるだけの余裕など、すでにセイジの中に残されてはいなかった。
(今のも、一歩間違えてたら死んでたな)
今夜すでに五度を数える臨死体験を終えたセイジは、無言のまま気を取り直し、空中で体勢を立て直す。
フードのせいで視界が安定しないこと。同じ双剣使いとはいえ、あちらは長剣、こちらは短剣であること。
観衆を巻き込むような魔法は無論のこと、演目たりえない殺傷目的だけの魔法も使えないこと。
そして、勝利してはならないこと。
身を縛る制約の数々もさることながら、単純に、クリスティアの実力がセイジの想像を遥かに超えていた影響が最たる事情であった。
息巻いて人助けをした挙句、力を貸したはずの相手に斬り殺される。冗談にもならない。
余計な思考のさなかにも、目前で弾ける剣の音が徐々に肌に近づいてくる。クリスティア自身の魔力が尽きないか、ということも考え出すと、いよいよ時間がない。
(たとえ見せかけでも、綺麗な終幕にしなきゃな)
おれが失敗しても、責任を問われるのはこの人だ。これほど大きな場において犯した失態は、ひいてはこの国の沽券に関わる。
そんな結末は許されない。首を突っ込んだからには、全力を以て大団円にしてみせる。
クリスティアを牽制するかのように突きつけられたセイジの剣の先から、赤黒い炎の魔力が滲み出し、激しく燃え上がった。ローブに隠されていたセイジの全身がひと息のうちに炎に包まれ、眩い光を放って膨張した。
「くっ……?!」
目を細めたクリスティアの視界の奥で、巨大な火の鳥が嘴を持ち上げた。
夜空を真昼の如く照らす火の粉を振り撒きながら、音高く翼をはためかせる。
――避けられない。
そう判断したクリスティアは、咄嗟に前方に飛び出した。躱しざま振り抜いた剣が赤黒い炎の嘴と触れあい、削りあって、音高く折れた。力なく落下していく愛剣を見送る暇もなく、悲鳴をあげた鳥が、ふたたびクリスティアへと狙いを定めた。
それを見やったクリスティアが、折れた剣を静かに鞘に収め、深く息を吸う。吐き出すと同時に、放たれた矢のように飛び出した身を捩り、勢いのままにもう一本の剣を振り抜いた。
白刃が描いた銀閃に両断された火の鳥が、みずから纏った炎に身を焼かれ、甲高い絶叫とともに煙となって消えると、真昼のごとく照らされていた上空はふたたび夜の帳に覆われた。
ひとり残されたクリスティアが音高く納剣すると、生まれた沈黙を拍手と喝采が埋め尽くした。
「……ふぅ」
渦巻いた熱狂から少し離れた街路樹の下、嬉しそうに手を振り、何度も礼を返すクリスティアを見上げたセイジが、がっくりと項垂れながら安堵の溜め息を吐いた。地面に向けられた景色の一点、ローブの裾がわずか焼け焦げていることをみとめて、セイジはさらに溜め息を重ねた。
「技が荒かったか。ああ、またマリーに怒られる……」
言いながら、誰の目に留まることなくひっそりと、街灯の隙間の暗闇へと同化するように身を翻した。