0-1 聖騎士クリスティア
空は、彼方まで灰色に覆われていた。
ひび割れた大地のあちこちから吹き出す白煙が、生ぬるい空気をほの暗く汚していく。
吹き付ける風も、音も、そこにはない。
「…………」
まるで死を待つかのようなその場所に、ひとりの少女が力なくうずくまっていた。
俯いたままの表情は、力なく垂れ下がる銀糸のような長髪に覆われ、窺えない。
沈黙を縫うように繰り返す小さな肩の律動と、水音を交えたかすかな呼吸音が、隠しきれない悲哀を静かに主張していた。
音もなく舞い落ちた雪の華が、銀色の髪の上をそっと撫ぜ、雫となって転がり落ちた。
それを追うように、鈍色に光る雫がひとつ、またひとつと、数を重ねる涙声とともに生まれ落ち、膝元に抱える”黒ずんだ物体”に吸い込まれていく。
ぴくり、と、その端が蠢いた。息をのんだ少女の前髪の隙間から、涙を湛えた紅緋色の瞳が覗いた。
抱き寄せた腕のなかで、頬を伝って落ちた涙を嫌がるかのように、黒煙が散り散りに消えた。どろり、と覆い被さる黒煙のむこうから、肌の色がわずか露出して、すぐさま霞み消えた。
透明な雫が溢れてこぼれ落ちるたび、輪形に濯がれていく黒煙のむこう、隠されていた形が晒された。
かたく閉ざされた瞼、艶のある漆黒の頭髪。幼さすら帯びる、それは紛れもなく人の姿であった。
ぎゅっと目を細めた少女が、傷ひとつない、青みがかったその顔に震える手をのばした。
「セイジ……」
やわらかな頬を撫ぜた少女の指先が、失われていく熱を感じたその瞬間、押し留めていた嗚咽が、大粒の涙とともに溢れ出した。
……吹き付ける風は、ない。
ただ、繰り返しその名を呼ぶ少女の掠れた涙声だけが、とめどなく流れていくだけであった。
……
…………
………………
……………………
空は、どこまでも青く広がっていた。
晴天を映して輝く若草色の草原のうえを、吹き抜けた風が心地よく揺らしては立ち去っていく。
ざわめいた青葉の先端、舞い落ちてきた白い羽根が、もうひとつ強く吹いた風にさらわれて浮き上がった。
渦巻く風に流されていた羽根は、次第にかつての姿を思い出したかのように鮮やかに空を駆り、風を連れて突き進んでいく。勢いよく左右に流れていた景色は、やがて現れた小高い丘にぶつかって、ふわりと舞い上がった。
急停止した羽根にわずか閉ざされた景色が、射し込んだ光を浴びてぱっと開いた。
丘を越え、遙か地平を捉えた大空の下に、四方を城壁に覆われた広大な都市、"緑の国"フェルミーナの城下が広がっていた。
羽根を置き去りにした風は、城下へと続く門を潜り抜け、本通りをまっすぐに突き進んでいく。
人影と喧噪は、ゆるやかな傾斜の道中で徐々に数を増してゆき、辿り着いた広場で頂点に達した。旅を終えた風は仰ぎ見る王宮の壁にぶつかって、木陰に四散した。
城下と王宮を結ぶ広場に押し寄せた人波は、艶のある石畳の隙間を埋め尽くし、なお溢れていた。通りはおろか、付近の屋根すら椅子代わりにする人々が、口々に騒ぎ立てながらその時を待っている。
彼ら彼女らの視線の先、広場と王宮を結ぶ跳ね橋の向こう側で沈黙を続けていた城門が、地鳴りとともに重々しい口を開いた。
その響きを合図に、跳ね橋の左右に並んだ軍楽隊がいっせいに腕を持ち上げ、隣り合わせた騎士たちが儀礼剣を天に突き上げた。降り注いだ陽光が金と銀の色に反射して、色彩の薄い跳ね橋の縁に二本の輝きが走り抜けた。
喇叭の重奏が、遮るものひとつない青空に向けて鳴り響く。城門を抜けて現れた騎馬隊が、管楽に続いて打ち鳴らされた打楽器の音を浴びながら、一糸乱れぬ隊列をゆっくりと行進させた。
厳かな雰囲気を纏う騎馬隊を率いるのは、まだ幼げな印象すら残す、ひとりの女騎士であった。
銀の髪留めで束ねられた金色の頭髪は、馬の足並みに合わせて上下するたび、燐光を連れてきらきらと光り輝いてる。それと相反するような深みのある琥珀色の瞳は、緊張と気質を示すかのように、行く先を凜と見据えて微動だにしない。
やがて楽曲が途切れる頃合い、余韻を背に広場に歩み出た女騎士は、据えられた壇上のそばで馬を止めた。
注がれる熱視線に向けて美麗な笑みを返しながら、腰に帯びた柄頭にそっと指先を這わせ、ふわりと孤を描いて馬上から舞い降りた。軽やかな靴音と同時に、抜剣の音が色めき立っていた広場を一息に走り抜けた。
「天よ照覧あれ!」
翻った手首が、握りしめた剣先を勢いよく壇上に突き刺した。目の覚めるような声と甲高い金属音が、渦を巻いていた喧噪を突風のごとく吹き飛ばした。
「聖騎士クリスティアの名において、今ここに、命賜った喜びと生くる愉しみを享受すべし生誕祭の開催を宣言する!」
壇上から抜き放たれた剣の音が、声の余韻を追いかけて三度鳴り響いた。わずかな静寂の波間を越えて、歓喜の声が怒濤の如く巻き起こり、壇上の少女の体を心地よく震わせた。高らかに幕を開けた祭に誰しもが酔いしれ、意味も無く腕を突き上げ、誰彼構わず抱き合った。
狂乱まじりの雰囲気のただなか、人波の最後列から少し離れた裏路地の近く。
いかにも所在なさげに鼠色の壁に溶けるように佇んでいた人影の片割れが、目深に被っていたフードをかるく持ち上げ、覗いた目をすっと凝らした。
「……クリスティア?」
ぽつりと零れたような疑問は、熱狂に沸き立つ空気にむなしく溶け、かき消えた。
訝しむ口元は幼気な丸みを帯びており、若々しい声と相まって年若い青年のそれを印象づける。
「お知り合いですか?」
横合いに佇んでいたもうひとりの人影が、青年の独り言にひそやかな返答を投げかけた。
こちらも同じくフードを被っているものの、艶のある音楽的な声と小さな背丈は、紛れもなく少女のそれであった。ふわりと青年に向き直ると、フードの隙間から銀糸のような髪をわずか覗かせ、青年の顔を覗き込むようにそっと寄り添う。
「いや、王女さまがそんな名前だったような気がしてさ。ご本人なのかなあ、って……」
「そんな言い訳しなくても、見惚れてたなら見惚れてたって言えばいいのに」
「見惚れてねえよ……」
苦々しい言葉を重ねた青年が、フードの上から頭をがりがりと掻いた。それをじっと見つめていた少女が、それより、と呟きながら、青年の袖をくいくいと引っ張った。
「ね、セイジ。折角ですし私たちもお祭りに顔を出しちゃだめですか? この騒ぎがおさまるまでは、落ち着いて買い物もできないでしょうし」
「ええ……あんまり目立ちたくないんだけど……」
顔見知りに会うのは嫌だし、と、言外に拒絶しかけた青年セイジの視線の奥、フードをずらした少女の紅緋色の瞳が、やわらかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。もし目立つようなことがあっても、あの女性に向けていたような顔を見せれば、きっと勘違いしてくれると思います」
「……どういうことだ、マリー?」
肩を落とした青年の前、マリーと呼ばれた少女は嫋やかな所作で手を持ち上げ、緩めた口元に白雪のような指先を添えた。
「どこからどう見ても、凜々しいお姫様に恋焦がれる無垢な少年でしたから。少なくとも悪人には見られませんよ」
「褒めてねえだろ、それ……」
「いいえ、本心ですよ?」
「…………」
くすくすと微笑むマリーの表情に明らかな他意を感じ取ったセイジが、羞恥のあまり俯きかけた顔を勢いよく跳ね上げた。
「そうやって揶揄ってられるのもいまのうちだぞ。財布はおれが――」
何かを言いかけたセイジが、ふたたび口を噤む。勝ち誇ったように服の内側に滑り込んだ手がぴたりと動きを止め、直後、両の手が服の内外を慌ただしく行き交った。
「……あれ?」
「捜し物はこれですか?」
言いながら、マリーは握りしめた焦茶色の革財布を、硬直したセイジに見せつけるかのようにひらひらと泳がせた。音もなくのびたセイジの腕をさらりとやり過ごすと、マリーは路地裏に溶けるように身を翻した。
「財布の管理は私のお仕事ですよ。では、またのちほど」
「……あっ、おい!」
呼びかけを聞き流して石畳を蹴ったマリーの体が、屋根の上までふわりと舞いあがった。
ローブをはためかせて振り返ると、弾けるような笑顔と銀色の残滓だけを残して、マリーは立ち並ぶ家屋の屋根の向こうに姿を消した。
「人目を引くのは、むしろお前のほうだろ……」
静止する暇も無く姿を消した背中にひとりごちたセイジが、ふいに何かを察したように振り返った。
壇上の近く、今まさに馬上の人となった聖騎士クリスティアの視線が、なぜか自分だけに向けられているような。
そんな気配を感じ取って、セイジは慌てて路地裏へと身を滑りこませた。
喧騒のなか、背を向けて消えたフード姿の人影を遠目見ていた聖騎士クリスティアが、短い逡巡ののち、琥珀色の目をわずか見開いた。
「あの方は、まさか……」
何かを言いかけて、力なく首を振る。主を気遣うようにか細く鳴いた馬をひとつ撫でて、彼女を迎えるための道をあけた人波へ馬頭をめぐらせた。
まっすぐに開かれた景色の前に立ち、雲ひとつない青空を映した瞳に、憂慮の影が瞬いた。
(――でも、もしあなたがどこかで私を見守ってくださっているのなら)
ゆるりと手綱から離れていった指先が、腰に帯びた双剣の柄をゆっくりと撫ぜた。
「あなたの後継者として、聖騎士の名に恥じぬ功績を誓います、セイジさま……」