第三十五話 果実のパイ
後半少しルト視点です
ティーリアは廊下を歩いていた。
ルトがくれた絵の具を使って、久々に絵を描こうと決めたのだ。使っていた色に加えて、欲しかった新色も入っていたためどうしても気分は高揚する。意識しなければ鼻歌が漏れそうなほど浮かれていた。
どこを描こうか、と思いに耽けながら天気の良い透き通った空を見つめる。下の塔に視線を移した。向かいの塔は窓枠がとても細かく彫り込まれていて、一度描いてみたいと思っていたのだ。
その時。
「──ぁ」
ティーリアの目は向かいの塔を過ぎった影を捉えた。
塔の窓に居たのは黒髪の少女。
「──おねえ、ちゃん。お姉ちゃん!」
「待って、姫さん違う!」
衝動的に、走り出した。
姉の名前をただひたすらに心の中で叫び、追いかけてくる誰かの声を振り切って走る。ティーリアの銀髪ほどではないが黒髪は珍しい髪色であまりいない。特に黒髪差別の激しいこのロードニスでは。
──もしかしたら、と。
そんな淡い期待と、居るわけがないという思いが交差して胸が苦しい。塔の階段を駆け上り、先ほど見えた窓に辿り着いてからティーリアは止まった。
……見失ってしまった。
呆然と立ちすくむ肩にルトが手を乗せる。
「姫さん、あれは……違うよ」
「うん。そう、だよね。ごめん」
どこか苦しげに言うルトに弱く微笑んだ。
そうだ。居るわけがない。頭では分かっていて、それでも身体が動いてしまった。分かっていたはずなのに胸を虚無感が占める。
「なんだか絵を描く気分じゃなくなっちゃった」
虚無感を誤魔化すためにティーリアはわざと明るくそう言った。
「良かったらお話につき合ってくれない?」
「……」
「ルト?」
黙り込んでしまったルトの顔を覗く前にぱっと手を差し出された。
「あーもう! 姫さん! 行くよっ」
「ええっと?」
意図は分からないがとりあえず手を掴む。
その瞬間。
ぐるりと世界がまわり、足下の地面が消えた。浮遊感とともに、目の回る感覚がしてとっさに目を閉じる。周りから切り取ったように音が消え、明るいのか暗いのかよくわからない。
(る、ルトっ!)
口を動かしたはずなのに音が聞こえず、困惑する。体の感覚さえ曖昧で。立っているのか座っているのか、とにかくグラグラする。
「……着いた」
その言葉とともに足下に地面の感覚が戻ってきて、がやがやと音も聞こえだした。来る前と変わらない日の高さをみて時間がほとんど経過していないことに気が付く。……酷く長く感じた。
立ちくらみを起こして倒れそうになる体を、がっしりした腕が支えてくれた。
「ふええ……」
情けないため息が口から漏れる。ここは、知らない場所だ。
三度瞬きをしてようやく、現状が理解できるようになった。
王宮では見かけない大きさのばらばらの石が敷き詰められた道。統一性のある色で作られた高さの様々な建物たち。所々にロードニス国の旗がある。どうやらここは城下町の様だ。
「えっと、どうしてここに?」
「ごめん。衝動的に連れて来ちゃった」
聞き慣れた、高すぎず低すぎない少年の声がすぐ上から聞こえた。無意識に捕まっていた腕がルトのものだということに安堵する。まだぐるぐる回っている感覚がするので遠慮しつつも、もたれ掛かる。
「……姫さん?」
「ごめんね。ちょっとだけ」
迷惑をかけるのは申し訳ないが、どちらにせよ立ってられそうにない。ルトは落ち込んだティーリアを心配して転移術で連れてきてくれたのだろう。
(本当に優しいなぁ)
先ほどまで胸を閉めていた虚無感が追い出され、温かいものに変わる。ルトに向き合ってお礼を言うべく、ふらつく体をどうにか真っ直ぐ伸ばした。
「…………あれ」
振り向くと予想もしない容姿の男性が立っていて疑問の声が口から漏れた。ティーリアがもたれ掛かっていたのは少年のような容姿のルトとは違い、精悍な顔立ちの麗しい美青年だった。
「ぇえ!? ルトが成長してる!」
「……よく気がつけたね。ってか第一声がそれ?」
苦く笑うルトをまじまじとみつめる。闇精霊特有の漆紫の髪と瞳。姿形は全く異なるが漂う雰囲気はルトのものだ。
「ルトって、姿変えられたんだね」
「一応俺、精霊だからね?」
他の精霊たちが姿を変えたのは見たことがあるが、ルトは初めて会ったときからずっと少年の姿だったから意外だ。
「あのままだとなんか姫さんが無駄に絡まれそうだし」
「ああ、確かに」
確かに少女と少年の組み合わせはあまりよろしくないだろう。お金はもっていないが、今のティーリアは王宮の制服を着ているのでお金があると見られるかもしれない。
ポン、とティーリアの頭にルトの手が乗せられた。手はそのままさらさらと髪を梳く。
「ありがとう、ルト」
いつもとは違って目線が高い位置にいるルト。頭を押さえられているので目線だけ上げてお礼を言う。
「……どーも」
「ふふっ、ルトをこんなに見上げるのはなんか新鮮」
「うん。いいね、この身長。今まで同じくらいにしてたけど、こっちの方が撫でやすい」
そのままルトに手を引かれて、大通りにでた。どこからか甘い香りが漂ってくる。蜂蜜、ミルク、そしてよく知らない果実の香り。鼻をひくひくさせているのに気がついたルトがそっと肩をたたく。
「こっちだよ。この通りの名物」
いつの間に買ったのか袋につつまれたそれを受け取る。質の良いバターの香りがふわっと広がる。
「……パイ?」
「そ。好きなんだよねー、コレ」
ルトの好みはよく知っている。美食家なので、ハズレはないだろう。なにより美味しそうな香りに我慢が出来ず、かぶりついた。ナイフとフォークを使わず食べるなんて後宮では到底出来ない振る舞いだ。
「……美味しい!」
サクッとしたパイの食感。香ばしいバターの香りが口いっぱいに広がる。ミルクのコクがよく出ている生地にたっぷりと入ったジャム。なんのジャムだろうか? 桃に似ているがやや酸味の強いもので、細かく刻んだオレンジピールとの相性が良い。
一口、また一口と食べているとくすくすとした笑い声が聞こえてきた。
「……ルト?」
「や、姫さん……小動物っ!」
むっと頬を膨らませるが、「行儀が悪いよ」とたしなめられてすぐに戻す。そうしていると店の中から訝しむような視線を感じ振り返った。
目が合うと愛想笑いをした店主の口が姫?と動く。
ティーリアは今はダウス姓と偽っているが本来の名はティーリア・ファンレーチェ。将来は大国ルロニアに三つしかない公爵家、ファンレーチェの令嬢として社交界に君臨することになる。無論、力を持つものとしての教育は受けてきたので、読唇術くらいは嗜んでいる。
店主は隠すつもりはなかったのだろうから正確に読みとることが出来た。
“どっかのお姫様がお忍びで来ているのか?“
確かにそう言った。
まずい。もちろん姫などではないが、城下にいるには相応しいとは言えない王宮の制服を着ている。お忍びで姫が入り込んだのではと思われても仕方ない格好だと言える。
(ルト、怪しまれてるみたい)
心の中で呼びかけると一つ頷いたルトが店主に向き直る。
「ねぇ、店主さん。世の中忘れた方が良いこともたくさんあるよね? だから《忘れちゃいなよ》」
怪しく目を光らせたルトを見つめる店主の目が何処か虚ろになる。暗示の魔術だ。こういうことをするときはどきどきする。しなくては自分が大変なのだが、やはり罪悪感はある。
暫くすると店主は何事もなかったかのように快活に笑った。
「嬢ちゃん、これはね、あっちの店で売ってる果実のパイなんだよ! 俺んとこの袋を見せたら安くしてくれっから自分でつくってみたらどうだい?」
「そうなの? じゃあ、見てみます! ご親切にありがとう」
ルトが好きだと言う味を作れるようなったら今までのお礼が出来る。
(今度はたくさん果実を買って色々ジャムを作ってみようかな。そして、ルトに一番合う味を探そう)
料理のレパートリーが増えるのは嬉しいことだ。これからの事を考えると気持ちが浮く。弾む勢いのままお礼を言って青果店に向かった。
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「……姫さんは詐欺にひっかかるタイプだ」
ルトは呻くように言った。
恐らくこちらの店主と青果店の店主は協力しているのだろう。
両方に利益が出るようにと。そんな商法に騙された事に気が付かずティーリアは弾むような足取りで青果店に向かう。
ルトはほっと息を吐いた。彼女が元気になったのは勿論、姿を変えたのにも関わらず気が付いてくれたことに深く安堵して。
ティーリアが振り返って満面の笑みを浮かべる。
(姫さん、行ってもお金持ってないのに……完璧に忘れてるよな)
苦笑をこぼすとルトもティーリアの後を追う。