第三十四話 たった一人の家族
──アレクお兄様の声だ。
声が聞こえて、待ちきれず扉まで駆け寄った。
最小限に開かれた扉から、人目を隠すようにフードを被った影が滑り込む。空を宿す瞳は、ティーリアを捉えて柔らかく細められた。
「アレクお兄様っ」
「ティーリア」
腕を広げたアレクシスに飛びついた。
ぎゅっと強く抱きしめられる。しっかりと回された腕は少し苦しいぐらいだが、それが嬉しかった。
存在を確かめるように、手のひらがティーリアの肩を辿っていく。
「……ああ、やっと会えた……。ずっと、会いたかった」
吐息のように吐き出された言葉には万感の想いが籠められていた。
ファンレーチェ邸に居た頃、アレクシスは留学中だったこともあり家族の中では遠い存在だった。
けれど今は、アレクシスだけが、唯一言葉を交わせる家族なのだ。もう、アレクシスだけになってしまった。
「贈ったドレスを着てくれているんだね。似合ってる。とても綺麗だよ」
「ありがとう。……お兄様は少しお疲れみたいだね」
晴れ渡る空のように青い瞳が、優しげに綻ぶ。だが、その下にうっすらと隈があるのを見つけてしまった。疲れを感じさせない涼やかな雰囲気を纏っていても、そこからわずかにここ一ヶ月の苦労が窺える。眠る暇も無いくらい忙しかったのだろう。いつだってティーリアを優先してくれる兄が手紙を書けないと伝えてきたくらいなのだから。
身を離したアレクシスは器用に片眉を上げる。
「おや、格好いいとは返してくれないのか」
「もちろん、お兄様は格好いいけれど」
白磁の肌に、聡明さを表すような深い青の瞳。瞳を隠す睫毛は長く、ともすれば女性的だが、すっと伸びた眉と鼻梁が青年らしい凛々しさを湛えている。中性的な美貌の持ち主だ。
少し疲れの滲む顔も普段と違った色香を感じさせて素敵だ、と称する人もいるだろう。けれどやはりティーリアは心配の方が勝る。
「隈が出来てるわ。忙しかったんだね。良かったら休んでいって」
「長居は、出来そうにないんだ」
「あ……そう、だよね」
アレクシスはファンレーチェ家の当主。とても忙しい人だ。
今少し会えただけでも嬉しいと思わなければ。
「少ししか時間が取れなくてごめん」
「謝らないで。お兄様が頑張ってくれてるから私は穏やかに過ごせてるんだもの。少し会えただけで充分だよ」
「ありがとう、ティーリアは優しいね。……でも。私はこんな少しの時間じゃ満足できないんだ。もっと、ずっと、ティーリアの話を聞いていたいよ」
目蓋を伏せ、長い睫毛で瞳を陰らせたまま、アレクシスはティーリアに向かってそっと手を伸ばした。
「ああ、ティーリア。君は、本当に美しくなった」
震えるような言葉に滲んだ感情は複雑すぎて聞き取れない。
手袋越しに堅い手が頬を撫でる。手を閉じてすり寄った。
「少女らしい可憐さから大人の女性としての美しさを纏いつつある。……口惜しいよ、その一瞬一瞬の輝きをずっとこの目に収めておきたいのに」
「お兄様」
きっと同じ気持ちだ。
もっと多くの時間をアレクシスと過ごしたい。想いを、景色を共有したい。
侍女のセリスは母親のような、親友のような関係で。イレーネを始めとする友人達、精霊とも長く時を過ごしている。
なのに、時折どうしようもなく寂しい。
その寂しさは家族でなければ埋まらないものなのかもしれない。
ファンレーチェ再興のため、一人奮闘するアレクシスの力になりたい。遠く離れたロードニスではティーリアに出来ることなんて限られている。早くルロニア王国に戻り、アレクシスを支えたい。
けれど今、ティーリアという存在を明かすわけにはいかない。あの「悲嘆の薔薇姫」の事件でファンレーチェの力は揺らいでいる。そんな中、現れたファンレーチェの次女という存在はいらぬ混乱を招くだけだ。
分かっている。それでももどかしい。
会いたい。一緒に過ごしたい。それが叶わない存在ではないのに。もう二度と会えない両親と二番目の兄ルーカスや、姿が見えない姉とは違う。ちゃんと、アレクシスは手を伸ばせば触れられるのに。
願いはささやかだ。ただ隣にいたい、家族の話をしたい、それだけだ。
状況は、そんな小さな我が儘でさえ許してはくれない。
「ごめん。もう少しだけ待っていて。ティーリアを迎えられるだけの基盤をきちんと整えるから」
「いいの、お兄様」
ふるふると首を振る。無理はしてほしくない。
今回でさえ、隈ができるぐらい眠っていないのに、空いた時間をティーリアのために使ってくれている。これ以上、何を望めよう。
「焦らないで、いいの。ここで新しい友達も出来たし、楽しんでいるから。根を詰めてお兄様が体調を崩す方が嫌」
「そうならいいんだけど。ティーリアは我慢強い子だから心配になってしまうな。少しは我が儘を言っていいんだよ? そのくらい受け止められる器はあるつもりだ」
兄の温かさに触れて口元がほどけた。
悩みは無いか、欲しいものはないか、悲しいことはなかったか、どんな楽しいことがあったか。
手紙でもアレクシスは尋ねてくれる。ティーリアをずっと案じてくれている。
「強いて言うなら、もっとアレクお兄様の力になりたいな」
「今で充分、力になっているさ。ティーリアのために私はある。ティーリアがいるから頑張れる。私は君を託されたんだ」
ちかり。
目の奥で光が弾けたような感覚になる。昔、どこかで、聞いたような言葉だ。
ああ、どこか。どこかで──。
「ティーリア?」
その声が記憶の海に深く潜りかけていたティーリアを引き戻した。
「あっ、ごめんなさい。私、本当に力になれている?」
「もちろんだよ。だから、可愛い妹のお願いをたくさん聞きたいな。さあ、お兄様にお願い事を言ってごらん?」
「本当に無いの。お兄様は私に甘すぎるわ」
「こんなに可愛い妹なんだから、甘やかしたくもなるだろう?」
「嬉しいけど適度にしてね。甘やかされすぎたら駄目になっちゃう」
ただでさえ、精霊達といい、セリスといい、キシといい、ティーリアに甘い人が多い。甘やかされている自覚は多分にある。
「駄目になっても私がいるから大丈夫だ。養うし、なんでもしてあげるよ。ティーリアを見捨てたりはしない」
「……もう」
適度に断らないと甘やかされ過ぎて本当に一人では何も出来なくなってしまいそうだ。
アレクシスは砂糖菓子よりティーリアに甘い。
恐らく同じ妹であったレディアを甘やかしてやれなかった分、二人分の愛情が注がれているのだろう。愛情深い兄が心残りに思っているか分かってしまうから、甘やかさないでとはいえない。
ティーリアの控えめな抗議をさらりと流し、アレクシスはぽすりと頭を撫でる。
「一目だけでもティーリアに会えて良かった。事前に連絡も入れられなかったから、会えるか不安だったんだ」
「お兄様が来ると分かってたらたくさんお菓子も用意しておいたのよ?」
「それは残念。ティーリアの作ったお菓子はどれも美味しいからね」
「そう言ってもらえると嬉しい。あ、座って」
立ったまま会話していたことに気が付き、席を進める。
腰に手が添えられたままなので、正面ではなく隣に腰を下ろした。セリスがさっと動いてカップの位置を修正してくれる。
「長居が出来ないのが悲しいよ。ハロルドの許可を得ずに、結界壊してきてしまったから仕方ないけれど」
「……えーっと?」
なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「け、結界を壊してきたの!?」
「うん」
涼しい顔に似つかわしくない答えが返ってくる。
アレクシスはとても穏やかで、頭の回る自慢の兄だ。……ただ、割と力技で押し切ることがある。
細身で中性的な顔立ちの兄はどちらかというと、頭脳派で繊細なイメージを受ける。しかし、頭はいいのは事実だが、力でねじ伏せることも多い豪快な性格なのだ。
「精霊の手も借りれば気が付かれず入ってくることも出来たけど。そうするとハロルド達に要らぬ不安を与えてしまうだろうと思って」
「うーん、そっか」
それよりもっと気にするべき点はあるのではないか。
新月の儀式の時、フィルラインは、後宮に結界が張ってあるといっていた。精霊と女性には反応しないが、ハロルドや巡回の騎士以外は弾くようになっているそうだ。
頭が良いのに力技を使う兄はそれを強引に壊してきたらしい。ティーリアに会いたいが故の強行だ。申し訳ない限りである。
「あの過保護のハロルドが作らせた結界だけあって本当に強固だったよ。陣を四十個展開させて、魔道具を使ってようやく破れたんだ」
「四十個も……」
さらりと言われたがとんでもない数だ。
普通の人が展開できる陣は二つ、魔術師として勤めるものなら五つ、高位の術者でも二十程度が限界だろう。我が兄ながら規格外過ぎる。
「中々骨が折れた。破れるものはほぼ居ないだろうね。私でさえ、この結界破りの魔道具がなければ破れなかった」
「結界破りの魔道具?」
初めて聞いた魔道具の名前だ。
「ティーリアはクラウディオって覚えてる?」
「えっと、傾国の?」
「ふふっ。そう、傾国の」
クラウディオはルロニアの第七王子だ。愛称はラウ。その美貌は男ながらに傾国と称されるほどである。兄や精霊達で美形になれたティーリアでさえ眩しく思うほど、美しい。彼はその麗しさで歴史に名を残すことだろう。
兄の幼なじみで、そして……姉、レディアと婚約の話が進んでいた、もしかしたら今頃義兄になっていたかもしれない人。
「クラウディオ様がどうしたの?」
「ラウが部下に命じて作ったそうだよ。それが有能な術者でね。新月の儀式に来ていたんだけど見てないかな?」
見てはいないが知っている。精霊に連れ去られた人だ。儀式の際は高位精霊のニオミルでさえ破れない頑丈な結界を張っていた。
自分が有能なだけあり、他人にも求めるものが多いアレクシスが褒めるだけあり本当にすごい人のようだ。
「本当は、新月の儀式には私が来る予定だったんだけど。領乃でちょっとした問題が起こってしまってね。急遽代理で彼が来たんだ」
「問題?」
「もう解決したよ。しばらく忙しくて手紙も書けずにすまなかったね」
「気にしないで。それよりお兄様。本当に大丈夫? 高位精霊ならルロニア王国にも入れるし、私に出来ることもっとない?」
「私は、ティーリアが笑顔で居てくれるだけで本当に充分なんだよ」
優しくアレクシスが頭を撫でてくれるが、誤魔化された気がしてならない。
本当に、もっと頼って欲しいのに。そんなにティーリアを守ろうとしなくていい。一人で全てを背負わなくていいのだ。
家族は、助け合うものなのだから。
喜びも幸せも、痛みも苦しみも、すべて分かち合いたい。
レディアは一人で悲しみと痛みを抱え込んで消えてしまったから、尚更。
そっと手を包む。
「ねえ、お兄様。私はまだ子供だけど。でも、それほど幼くはないの。私もちゃんと背負えるよ」
「ティーリアの言いたいことはなんとなく、分かるよ」
でも、ごめん。
アレクシスはまるで懺悔するような声音で、ティーリアの手を額に押し付けて俯く。
「ごめん。僕の我が儘なんだ。ティーリアには何も、何一つ、危険なことに関わって欲しくないんだ。安全な所にいて欲しい。危険はすべて僕が引き受けるから、お願いだから無事で居てくれ……。もう、嫌なんだよ。自分が笑って過ごしていた時間に、家族が消えてしまうのは……っ、全て終わった後に後悔するのはっ。嫌なんだ。何も出来ずに知らずにただ結果だけが過ぎていくのはもう、もう……っ二度と、味わいたくない」
胸の中心がえぐられるように痛んだ。
これはアレクシスの痛みだ。
両親と弟が亡くなり、一人の妹は消え、多くの使用人が死に、屋敷が炎に包まれたあの日。残った一人の妹は言葉を発することさえままならぬほど壊れていた。全てが終わって、どうしようもなくなってからアレクシスは知らされたのだ。
「悲嘆の薔薇姫」と呼ばれる事件当日に、兄は留学先でパーティーの真っ最中だったという。そのことをどれだけ悔いたのだろう。留学なんてしなければ、自分がファンレーチェ邸にいれば何か出来ることがあったのではないかと。笑って過ごしていた時間を兄は許せずに居るのだ。
「ごめん。ごめん……。矛盾してるよね。それを嫌だと思いながらティーリアに同じ事を強いるんだ。本当に、なんて酷い兄なのだろうな。レディアにも、ルーカスにもそう言われてしまうね」
「お姉ちゃんも、ルー兄様もそんなこと思ってないわ。お姉ちゃんは、アレクお兄様のこと出来た人だって褒めてたし、ルーお兄様もなんだかんだアレクお兄様に憧れてるって言ってたよ?」
「……それは、初耳だなぁ」
直接、聞きたかったなぁ。
その語尾は僅かに震える。ぐっと、額が強く押し付けられた。きっと雪崩のように押し寄せる感情を留めている最中なのだ。
邪魔しないように、口を閉じる。
後悔はずっと抱えて生きていく。
笑っていた時間をアレクシスが後悔していたように、ティーリアもただ守られているだけだったあの時間を後悔している。怯えて、泣いて、足手纏いになって、そうして姉だけに全てを背負わせてしまった。弱くて受け止められない分をレディアが請け負って、ティーリアの分まで傷付いた。もう少し強ければ、自分の足で立てたのなら、レディアは今も隣で笑っていたのかもしれないのに。
弱い自分を責めないではいられない。守られるだけはもう嫌だった。強くなりたかった。
……けれど。
けれど。今、兄が守られるだけの存在を望むなら、ティーリアはその思いに蓋をする。
妹を守るという重みが、消えてしまいそうなアレクシスをつなぎ止める枷となるなら、喜んでそうしよう。
今度は何も分からないまま守られるだけではない。守られる覚悟もしっかりと決めた。
ふわりと紅茶の匂いが鼻をくすぐり、兄は顔を上げた。
「情けないところをみせてしまったね。ごめ、」
「はい、お兄様のお好きなサンドクッキーだよ」
謝ろうとする口に、解放された手でクッキーを突っ込んだ。
驚きながらも咀嚼したアレクシスは、「美味しい」と緩やかに笑った。
「良かった。紅茶も冷めてしまうし、早く食べちゃおうよ。ね、今日は楽しいことを話そう? 私たくさんお話ししたいことがあるの。お兄様のお話もたくさん聞きたいの」
「そう……そうだね、ティーリア。たくさん話そう。会えなかった時間の過ごし方を共有しようか」
うん!
とびきりの笑顔で笑う。
まずは新しく出来た友人の話から。そうして、今度竜に乗せてとお願いするのだ。
楽しい時間は瞬く間に過ぎていく。
にわかに、後宮の外から騒ぎ声が聞こえてきた。
「……おっと。ハロルド達が駆けつけて来た。もう行かないと。そうだ、ティーリア受け取ってくれる?」
立ち上がったアレクシスがどこに隠していたのか、本を取り出した。抱きついていたのに分からなかった。いったいどこに隠していたのだろう。
「本? あっ、レシピ本ね!」
「ルロニア王国のお菓子が載っているんだ」
「凄く嬉しい! ありがとう、アレクお兄様っ」
喜んで抱きつく。しっかりと鍛えられた胸板に頬を寄せた。身を離すと、頬に唇が落とされる。
「名残惜しいけど、行くよ。ティーリアの未来に茨はありませんように」
「アレクお兄様の未来に薔薇が咲き誇っていますように」
薔薇を交えた別れの言葉を交わす。薔薇は繁栄の象徴であり、ファンレーチェ家の家紋も薔薇だ。ティーリアの胸元で揺れる銀の薔薇飾りはファンレーチェ家のものであるという揺るぎなき証。
アレクシスはセリスから食べきれなかったお菓子を受け取り、すっとフードをつける。
その姿が一瞬、最近会うことが出来ていないキシと重なった。顔を隠すフードのせいだろう。
「ティーリア。建国の式典の時にまた来るから、その時はゆっくり過ごそう」
「楽しみにしてるね。あまり、無理はしないでね」
さようなら、と最後にもう一度抱擁を交わす。
「離れがたいな」
「私も」
それでも、お互いのため離れなければ。
ティーリア・ダウスとアレクシス・ファンレーチェはなんの繋がりもない他人でいなれけばならない。それがティーリアの命を守り、安全圏にいることでアレクシスの心を守る手段だから。
パタリと扉の閉まる音して、ゆっくり振り返る。そこにはもう、誰もいない。
胸に言いようのない寂しさが広がる。
その背をそっとセリスが撫でてくれた。
ティーリアはレディアが生きていると信じているけれど、アレクシスはもうレディアは死んでいると思っています。
だからこそ、アレクシスはティーリアが唯一の家族という思いがティーリアより強いです。