断罪は二度ある ―― 二度目は、わたしを空にした
五年ぶりに見る王国の山並みは、記憶のままに白かった。
あの日わたしが涙をこぼしながら越えた国境を、今度は逆向きにくぐる。
馬車は四頭立て。護衛は前後に十騎。隣国ガルニエ伯爵家の紋章を掲げた行列に、関所の衛兵はうやうやしく頭を下げた。
五年前、寝間着同然で追い立てられた女と同じ人間だとは、誰も気づかない。
わたしはもう、セシリア・ロンダートではなかった。
名を失ったあとの最初の半年は、地獄だった。
ガルニエ伯爵あての紹介状を握りしめて領都にたどり着いても、紙きれ一枚で貴人がすぐ会ってくれるわけもない。わたしは宿の下働きをしながら、来る日も来る日も伯爵家の門前に通った。雨の日も雪の日も。
門前払いを四十日続けた末に、根負けした執事がようやく取り次いでくれた。
ガルニエ伯爵は紹介状の筆跡をひと目見て眉を上げた。
「これは、隣国のさるお方の字だな」
政の勘の鋭い古狐だった。差出人が誰なのかすぐに察したらしい。
けれど伯爵はそれ以上を訊かなかった。代わりにわたしが帳簿を読む目と、人を見る目を試した。三か月後にはわたしは伯爵家の交易帳簿を任され、半年後には家の商談の半分を仕切っていた。
それからの五年でわたしは伯爵家になくてはならない右腕になった。
金の流れも、人の弱みも、国境を越える噂も、すべてこの手で握った。涙はとうに涸れ、代わりに刃のように研がれた何かが残った。
膝の上に、革の書類入れがある。
その中には五年かけて集めた紙の束。宰相オズワルドが手を汚してきたあらゆる罪の証だった。
わたしはようやく戻ってきた。本物の断罪を、あの男に突きつけるために。
向かいの席でリナが緊張した面持ちで膝を揃えていた。
あの夜、床に倒されて泣いていた侍女は、わたしを追って国を出た。五年、ずっとそばにいてくれた。もう二十一の、立派な侍女頭だ。
「お嬢様。本当に、やるのですね」
「ええ」
「……怖くは、ありませんか」
わたしは少し考えて、首を振った。
「怖くはないわ。ただ」
ただ、何だろう。
胸にあるのは武者震いでも喜びでもなかった。名前のつかない、平らで乾いた感触だった。
わたしはそれを言葉にできないまま、窓の外へ目をやった。
五年のあいだに、王国は変わっていた。
老王が病で崩御し、アレクシスが王位に就いていた。けれど、聞こえてくる噂はどれも芳しくない。
新王は宰相オズワルドの言いなりで、政の実権はほとんど宰相が握っている。即位の条件として、王は宰相の息のかかった有力貴族の娘を王妃に迎えた。そういう話だった。
わたしはその噂を聞くたびにあの判決の日を思い出した。
わたしを救うために宰相に逆らった人。あの一件で、彼は宰相に決定的な弱みを握られたのだろう。
婚約者に毒を盛られかけた上、その婚約者をかばって追放刑に落とした王太子。そう言いふらされれば、立場は一気に傾く。
彼はわたしを生かした代償を五年かけて払い続けてきたのだ。
だから、と思う。
だから、わたしが終わらせる。彼ひとりに背負わせたものを、わたしの手で。
*
王宮は、記憶よりも静かだった。
謁見の間に通されたわたしはガルニエ伯爵家の名代として形ばかりの挨拶を述べた。隣国との交易協定の使者。それが表向きの肩書きだった。
玉座に、アレクシスがいた。
五年で彼はずいぶん痩せていた。
鳶色の髪。冬の湖のような灰青色の目。それは変わらない。
けれど目の下には濃い隈が刻まれ、頬は削げ、二十代とは思えない疲れが全身ににじんでいた。王冠がひどく重たそうに見えた。
わたしの知っている彼は、もっと光っていた。
幼いころ、剣の稽古で泥だらけになって笑っていた少年。婚約の宴で、緊張に顔を赤くしていた青年。その面影の上に、いまの疲れ果てた王が重たく折り重なっている。
彼はわたしを見て、一瞬言葉を失ったようだった。
すぐに何ごともなかったように視線を逸らす。けれどわたしには分かった。気づいたのだ。
名も顔つきも変わったわたしが、かつての婚約者だと。
「ガルニエ伯爵家の使者を歓迎する」
彼の声は記憶より低く乾いていた。
「滞在中、不自由のないよう取り計らえ」
それだけ言うと、彼は侍従に何かを命じて席を立った。
わたしを二度と見なかった。けれど、その背中がわずかに強張っているのを、わたしは見逃さなかった。五年前と、同じように。
玉座の脇に王妃が座っていた。
線の細い、おとなしそうな女性だった。宰相が選んだ駒。彼女もまた、この政争の中で居場所を与えられただけの人なのだろう。
わたしはその人を憎む気にはなれなかった。憎しみを向ける相手なら、もう決まっている。
謁見の間を辞すとき、柱の陰で、ひとりの老人が帳面に何かを書きつけていた。
モーリスだった。
五年で、彼はさらに老いていた。背が丸くなり、ペンを持つ手が震えている。それでも、断罪録を抱える姿は変わらない。
すれ違いざま、老書記官の落ち窪んだ目がまっすぐにわたしを捉えた。
彼は何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに頷いた。
あなたが誰なのか、私は知っている。その目が、そう言っていた。
*
その夜、わたしは城下の宿で、ひとりの男と会った。
五年前、断罪の法廷で声を震わせた、あの薬種商だった。
断罪のあと、男は良心の呵責に耐えかねて宰相のもとを逃げ出した。それをガルニエの手の者が保護した。
わたしは五年、この男を匿い、守り、待っていた。彼の証言こそが、すべての要だったから。
「……本当に、証言するんですね。宰相を相手に」
男は痩せた手を震わせていた。
「あの方の差し金で、わたしは嘘をついた。罪のないお嬢様を、死の淵まで追いやった。あれから一度も、ぐっすり眠れたことがありません。……ずっと夢に見るんです。あのときの、お嬢様の目を」
「あなたが真実を話せば、わたしは救われる。あなた自身も」
わたしはできるだけ静かに言った。
「もう、嘘の夢を見なくて済む」
男は長いこと俯いて、それから深く頷いた。
その肩が小さく震えていた。五年の重荷をようやく下ろそうとする者の震えだった。
翌朝、宰相オズワルドのほうから、わたしに面会を求めてきた。
五年であの男はさらに横柄になり、さらに傲慢になっていた。ガルニエ家の使者が王宮に長く留まっていることを警戒したのだろう。
「ガルニエ伯爵家の使者殿。妙な噂を耳にしましてな」
オズワルドは探るような目でわたしを見た。
「五年前に追放された、毒婦の令嬢。あれを匿っている国があるとか。……まさか、ガルニエ家ではないでしょうな」
わたしはゆっくりと微笑んだ。
「さあ。毒婦、でしたか。わたくしの聞いた話では証拠もないまま追放された、お気の毒な令嬢でしたが」
オズワルドの目が、すっと細くなった。
彼は気づいていない。目の前の女がその令嬢本人だとは。
五年の歳月と、変わった名と、隙のない笑みがわたしを別人に仕立てていた。
それでいい。気づいたときには、もう遅い。あなたがわたしにそうしたように。
*
審議の前夜、わたしは宿の窓辺で眠れずにいた。
五年、この日のためだけに生きてきた。証拠は揃い、証人もいる。明日、すべてが終わる。
それなのに、胸は静かなままだった。喜びも高ぶりも湧いてはこなかった。
リナがそっと茶を運んできた。
「お嬢様。明日が終わったら、何をなさりたいですか」
わたしは答えられなかった。
復讐のその先を、わたしは一度も思い描いたことがなかった。
憎しみだけが、五年、わたしを立たせてきた。それが消えたあと、自分に何が残るのか。考えるのが、こわかった。
*
翌日、王の御前で、交易協定の最終審議が開かれた。
大広間。五年前、わたしが罪人として引き出されたのと、同じ場所だった。
同じ大理石の床。同じ高い天井。違うのは、今日のわたしが枷ではなくガルニエ家の証書を手にして立っていることだった。
貴族たちがずらりと居並んでいる。
その中には、五年前、扇の陰でわたしを嗤った令嬢たちの顔もあった。今日の彼女たちは、隣国の使者であるわたしに媚びるような笑みを向けてくる。
人とは、こんなにもあっけなく態度を変える。五年前に学んだことを、わたしはもう一度静かに噛みしめた。
協定の話が一段落したとき、わたしは一歩、前に出た。
「陛下。お耳に入れたいことがございます」
わたしは革の書類入れを開いた。
「ガルニエ家が交易の過程で掴んだ、貴国の不正の証。宰相オズワルド閣下による、長年の横領。公文書の偽造。そして——」
わたしは、まっすぐにオズワルドを見た。
「五年前の、毒殺未遂事件の捏造の証拠でございます」
広間がざわめいた。
オズワルドの顔からみるみる血の気が引いていった。
「な……何を、根も葉もないことを」
わたしは答えず、合図を送った。
扉が開き、ひとりの男が広間へ進み出た。あの薬種商だった。
男は震える声で、けれど今度は逃げずにすべてを話した。
宰相に命じられ、ありもしない毒の取引をでっち上げたこと。空の小瓶に色のついた水を詰め、令嬢の私室に忍ばせたこと。三人の証人が宰相から金と筋書きを受け取っていたこと。
わたしは書類の束を一枚ずつ広げていった。
宰相が証人に渡した金の出納記録。偽の証書に使われた印章の照合。横領した公金の流れ。
五年かけてひとつずつ辿り、裏を取った紙の山だった。
次々と積み上げられる証拠の前に、宰相の弁明は砂の城のように崩れていった。
「でたらめだ! このような捏造を、誰が信じる!」
オズワルドが喚いた。けれど、もう誰もその言葉を聞いてはいなかった。
わたしは書類を置き、被告席のオズワルドへゆっくりと歩み寄った。
そして彼にだけ届くよう、声を落とした。
「閣下。ひとつだけ、お教えしましょう」
オズワルドが訝しげにわたしを見上げる。
「五年前、あなたが毒婦に仕立てて消そうとした令嬢。証拠もないまま国境の向こうへ追いやったあのセシリア・ロンダートが——いま、どこにいるとお思いですか」
男の目がわたしの顔の上で止まった。
最初は訝しげに。それから少しずつ、見開かれていった。五年の歳月の底から、見覚えのある顔がゆっくりと浮かび上がってくるのを、彼はようやく見たのだ。
「ま、まさか……お前は」
「ご機嫌よう、宰相閣下。地に落ちた令嬢は、消えませんでしたわ」
男の口が、ぱくぱくと動いた。声は出てこなかった。
五年前、わたしから言葉を奪った男が、今度は自分の番になって、何も言えずにいた。
玉座のアレクシスがゆっくりと立ち上がった。
「宰相オズワルド」
五年前、わたしを裁いたのと同じ声だった。けれど今度、その声が向かう先はわたしではなかった。
「オズワルド。宰相の位を剥奪する。あわせて全財産を没収し、その身を——」
彼の声が一瞬止まった。わたしを見た。五年ぶりに、まっすぐに。
「——その身を、国外へ永久に追放する。二度と、王国の土を踏むことを禁ずる」
追放。死刑ではなく。
わたしが五年前に受けたのと、寸分違わぬ判決だった。
彼はわたしにそうしたように、オズワルドをも生かして追放した。
憎しみで人を殺せば、裁く側が罪人になる。あの日、彼が口にした言葉を、彼はいまも自分自身に課し続けていた。
オズワルドが、衛兵に引き立てられていく。喚き、罵り、見苦しく抵抗しながら。
五年間、わたしを駆り立ててきた憎しみの相手がいま、無様に床を引きずられていく。
わたしはその光景を静かに見ていた。
胸に手を当てた。
ここに歓喜が湧き上がるはずだった。五年、この瞬間だけを支えに生きてきた。ざまあみろと、叫びたくなるはずだった。
なのに。
わたしの胸の中は、がらんと、空っぽだった。
*
審議が果て、人の引いた大広間に、わたしはひとり残っていた。
勝ったのだ。完全に。
わたしの汚名は晴れ、宰相は失脚し、わたしを陥れた者たちは裁かれた。望んだものは、すべて手に入った。
それなのに、磨かれた床の冷たさが足の裏に伝わってくるだけだった。
「久しいの。セシリア・ロンダート様」
声に振り返ると、モーリスが立っていた。あの断罪録を、胸に抱いて。
「その名は、もう捨てました」
「いや」
老書記官は首を振った。
「あなたの名は、ここに残っている。五年前から、ずっと」
彼は帳面を開いてわたしに見せた。
五年前の頁。「永久追放」の四文字。
その隣の余白に、インクの色のわずかに違う小さな書き込みがあった。
——落ちても、消えるな。
「私は断罪録に嘘は書かぬ。判決のとおり、永久追放、とだけ記した。だが、どうしてもこの一行だけは書かずにいられなかった。誰にも読めぬよう、隅に」
モーリスの、しわがれた声が震えた。
「あの日、陛下が判決に何を込めたか。私には分かった。二十年、断罪を見てきた目には、分かりすぎるほどに。だから私はずっと待っていた。あなたが、生きて戻る日を」
わたしはその一行を指でなぞった。
落ちても、消えるな。あの日、わたしを生かした言葉。
「教えてください、モーリス」
声が掠れた。
「あの人は……アレクシスは、この五年、どうしていましたか」
老人は長いこと黙っていた。それから、静かに語りはじめた。
「陛下はあの一件で宰相に致命的な弱みを握られなさった。婚約者の罪を見逃した甘い君主と侮られ、政の実権を奪われ、望まぬ婚姻を結ばされた。それでもただの一度もあなたの名を口になさらなかった。恨み言ひとつ、おっしゃらなかった」
モーリスの目に、涙がにじんでいた。
「戴冠の夜、わたくしは陛下のお部屋に呼ばれました。何をご所望かと思えば、五年前の断罪録を持ってこい、と。陛下はあの『永久追放』の頁を夜通し、ただ見つめておられた。ひとことも、おっしゃらずに」
老人は、震える手で頁を撫でた。
「ただ待っておられたのです。いつか誰かが宰相を討つ証拠を持ってくる日を。ご自分ではもう身動きの取れぬお立場でしたから。……今日それを成したのが、あなただった」
わたしは断罪録を見つめたまま、動けなかった。
本物の断罪は、何も生まない。
五年前、彼が囁いた言葉が、いま、別の重さで胸に落ちた。
わたしは宰相を断罪した。完璧に。けれど、それは何を取り戻しただろう。
失った五年は戻らない。彼が払った代償も、結ばれてしまった婚姻も、過ぎた歳月も、何ひとつ戻りはしない。
本物の断罪が晴らしたのは罪だけで、わたしの胸に空いた穴までは埋めてくれなかった。
わたしを生かしたのは、断罪ではなかった。
あの日の、偽物の断罪だった。彼が命がけで仕組んだ、たったひとつの優しい嘘だった。
*
その夜、わたしは王宮の屋根に登った。
五年前のように衛兵の目を盗んで、ではない。今度は王自身の手引きだった。
モーリスがこっそり手筈を整えてくれた。たった一度だけ、人目を避けて、と。
星のよく見える夜だった。
瓦の上に、先客がいた。
王冠を外したアレクシスが膝を抱えて座っていた。五年前の、屋根の上の男の子と同じ格好で。
「来ると思った」
彼は振り返らずに言った。
「ここでしか、王であることを忘れられない。子供のころから、そうだった」
わたしはその隣に腰を下ろした。
言いたいことは、山ほどあった。
なぜ何も言わずに追放したのか。なぜひとりで背負ったのか。五年、どれだけ会いたかったか。
けれど、口をついて出たのは、たったひとことだった。
「生きてた」
「ああ」
「あなたも、生きてた」
「ああ。——落ちたけどな」
彼はふっと笑った。五年ぶりに見る、あの泣き虫の男の子の笑い方だった。
「落ちても、消えなかった。お前が地面で待っていてくれたから」
しばらく、二人とも黙っていた。
わたしは思いきって、いちばん訊きたかったことを口にした。
「ねえ。もし、もう一度やり直せたら。あなたはあの断罪をしなかった?」
彼は星を見上げたまま、少し考えた。
「いいや。何度でも、同じことをする。お前を生かすのに、あれよりましな手を俺は思いつけなかった」
そして低くつけ加えた。
「ただ——本物の断罪は、何も生まないと言っただろう。あれは半分は嘘だ。お前を生かした断罪は、ちゃんとひとつだけ生んだものがある」
「何を」
「いま、ここに、お前が生きて座っている。それだけで、俺の五年は、無駄じゃなかった」
わたしは、懐から星の根付を取り出した。
五年、肌身離さず持っていた、不格好な星。九つの夏に、彼が屋根の上で彫ってくれたもの。
「これ、返すわ」
「……いいのか」
「あなたが持っていて。今度はあなたが落ちないように。わたしが海の向こうで覚えているから」
彼は根付を受け取って強く握りしめた。
その手が震えていた。五年前、判決文を握りしめたあの手と、同じように。
わたしたちはそれ以上、何も言わなかった。
結ばれる道は、もうなかった。
彼は王で、守るべき国があり、隣には王妃がいる。わたしが手にした勝利は、その何ひとつ変えはしない。本物の断罪は、その何ひとつ取り戻してはくれなかったのだから。
ただ、星が流れた。
五年前と同じ夜空を、二人でもう一度だけ見上げた。それだけが、わたしに残されたたったひとつの贅沢だった。
*
夜明け前、わたしは屋根を下りた。
断罪は、二度あった。
一度目の断罪は、偽物だった。冷たい言葉の裏で、わたしを生かした。
二度目の断罪は、本物だった。望みどおりすべてを裁いた。けれど失ったものは戻らず、わたしを空っぽにした。
国境へ向かう馬車の中で、わたしは静かに目を閉じた。
胸の中はがらんとしていた。けれど不思議と、悲しくはなかった。
落ちても、消えなかった。わたしも、彼も。
それだけで、たぶん、充分なのだ。
また、海の向こうで生きていこう。
いつか彼の星が落ちそうになったとき、地面で待っていられるように。




