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わたしを断罪した婚約者は、誰にも聞こえない声で『生きろ』と囁いた ~断罪は二度ある~  作者: 霧原 澪


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1/2

断罪は二度ある ―― 一度目は、わたしを生かした

「子爵令嬢セシリア・ロンダート。王太子殿下毒殺未遂の疑いにより、捕縛する」


 真夜中に叩き起こされた寝室で、わたしは松明の火と抜き身の剣に囲まれていた。


 何が起きているのかすぐには分からなかった。寝間着の薄い布越しに、夜気の冷たさだけが妙にはっきりと肌へ届いた。


「毒殺……? わたしが、誰を」


「とぼけるな。証拠はある」


 隊長らしき男が顎をしゃくった。衛兵たちが部屋へ散り、わたしの私物を片端から検めはじめる。

 化粧台の抽斗が引き抜かれ、文箱がひっくり返され、衣装櫃の中身が床にぶちまけられた。蝋燭の火に照らされたわたしの部屋が、みるみる荒らされていく。


 そのうちのひとりが寝台のマットレスの下に手を差し込んだ。

 引き出されたのは小さなガラスの瓶だった。琥珀色の液体が松明にゆれて光る。


 見たこともない瓶だった。


「そんなもの、わたしの物では……」


「お嬢様に触らないで!」


 リナだった。


 わたしの侍女が寝間着のまま部屋に駆け込んできた。十六の、まだ少女と呼んでいい歳の子が、衛兵とわたしのあいだに小さな体を割り込ませる。


「お嬢様は毒なんて知りません! その瓶だって、昨日まで——」


 衛兵の腕がリナを乱暴に払いのけた。


 細い体が床に倒れ込む音がした。わたしは思わず手を伸ばしたが、その手首にはもう冷たい枷がかけられていた。


 両腕をつかまれ、引きずられるように部屋を出る。

 深夜の王宮の廊下はしんと冷えていた。それでも騒ぎを聞きつけた侍女や下働きが、扉の陰からこちらを覗いている。ひそひそと交わされる囁きが、針のように背へ刺さった。


 あの方が毒を。まさか。婚約者の殿下を。


 わたしは裸足だった。石畳の冷たさが、足の裏から這い上がってくる。

 ほんの数刻前まで、わたしはこの王宮で、いずれ王太子妃になる令嬢として扱われていた。それがいまは、寝間着のまま引きずられる罪人だ。

 人の立場というものは、こんなにもあっけなく裏返る。


 枷の重みを感じながら、頭の隅をよぎったのは、なぜか婚約者の顔だった。


 アレクシス殿下。八つのときからの、わたしの婚約者。

 この三月、彼は人が変わったように冷たかった。夜会で隣に立っても口をきかず、文を送っても返らず、廊下ですれ違っても目を逸らす。

 自分が何かしたのだろうかと、眠れない夜を重ねていた。その矢先の、これだった。


 まさか、と思った。

 まさかこの濡れ衣に彼が関わっているのだろうか。婚約を解きたくて、わたしを犯罪者に仕立てて。


 考えかけて、やめた。それ以上考えれば心が保たない気がした。


 引き立てられて角を曲がるとき、床に手をついたままのリナと最後に目が合った。

 その子は声を殺して泣いていた。唇を噛んで、それでも涙だけがこぼれていた。


「リナ。大丈夫よ」


 わたしはできるだけ穏やかに言った。


「すぐに誤解は解ける。わたしは何もしていないもの」


 言いながら、自分でも信じてはいなかった。

 これは誤解ではない。誰かが明確な意思を持って、わたしを罪人に仕立てようとしている。


 その夜、わたしは王宮の地下牢に放り込まれた。



 石の床は底冷えがした。


 藁が一束、隅に積まれているだけの牢だった。鉄格子の向こうで衛兵の松明が一本、ゆっくりと燃えている。

 わたしは膝を抱えてその火を見ていた。


 ロンダート子爵家の長女として生まれて二十七年。こんな場所に座る日が来るとは思わなかった。


 毒の瓶。三月の冷たさ。仕組まれた罪状。

 ばらばらの破片を、わたしは何度も並べ替えた。並べ替えるほど、ひとつの絵が浮かんでくる。


 宰相オズワルド。


 あの男はずっとアレクシス殿下を疎んじていた。第二王子を担ぐ一派の領袖で、王太子さえ失脚させられれば次の王座は自分たちのものになる。

 婚約者のわたしを毒殺犯に仕立てれば、殿下の監督不行き届きを突ける。婚約者ひとり見抜けぬ愚かな王太子だと、世間に囁ける。


 わたしは王太子を削るための駒に選ばれたのだ。


 助けてくれる者は、誰もいなかった。


 父はどうしているだろうと考えて、すぐに答えが出てしまった。

 ロンダート家は、わたしを切り捨てるだろう。娘ひとりをかばって家ごと宰相に睨まれるより、毒殺犯の娘とは縁を切ったと触れ回るほうが、家を守れる。

 現に、捕らえられてから半日が過ぎても、父からの言伝はひとつも届かなかった。それが答えだった。


 名門の令嬢として育ったわたしには、いつのまにか、味方がひとりもいなくなっていた。


 幼いころからの十九年が、頭をよぎった。

 屋根に登った流星の夜。剣の稽古で泥だらけになった午後。わたしが熱を出したとき、生真面目なくせに不器用な手つきで厨房から林檎を盗んできてくれた、あの人。


 あの人と夫婦になるのだと、当たり前に思っていた。


 けれど、いまになって思い出すのは、つい先月の夜会だった。


 大勢の貴族の前で、わたしは勇気を出してアレクシス殿下に話しかけた。最近お加減が悪いのですか、と。

 殿下はひどく冷たい目でわたしを見下ろして言った。馴れ馴れしくするな、と。それだけ言って背を向けた。

 あのときのわたしは、人前で頬を打たれたように赤面した。何日も枕を濡らした。


 なぜあんなにも冷たかったのか、いまも分からない。

 ただひとつだけ確かなことがある。あの人はもう、わたしを愛してはいない。だからこうして裁かれるのだ。


 夜明け前、牢の扉が開いた。


 入ってきたのは衛兵ではなく、痩せた老人だった。黒い長衣に、インクの染みた指。小脇に分厚い帳面を抱え、羽根ペンと携帯用の墨壺を提げている。


「宮廷書記官のモーリスと申します。供述を記録に取らせていただきます」


 老人は牢に粗末な床几を持ち込み、わたしの正面に腰を下ろした。膝に帳面を開く。

 その表紙に、色褪せた金文字で「断罪録」とあった。


 この国で裁かれた者の名がすべて記される帳面。わたしの名も、じきにそこへ加わるのだ。


「罪状はすでに聞いているでしょう。毒殺未遂。これより被告の弁明を一言一句、記録します。述べてください」


「……わたしは、毒など盛っていません」


 モーリスのペンが走った。彼はわたしの言葉を、感情のひとかけらも交えずに書き取っていく。


「瓶はわたしの寝台から見つかりました。でも、わたしの物ではありません。誰かが置いたんです」


「誰が」


「……分かりません。証明する術もありません」


 ペンが止まった。


 老書記官が初めて顔を上げた。落ち窪んだ目がまっすぐにわたしを見た。値踏みするような、けれど冷たくはない目だった。


「二十年、私はこの国の断罪を記録してきた」


 しわがれた声だった。


「無実を叫ぶ者は数えきれないほど見てきた。本当に無実だった者もわずかにいた。……あなたの目は嘘をついていない。だが、書記官に裁く力はない。私はただ、書くだけだ」


 彼はそう言って、また帳面に目を落とした。


 わたしは奇妙な慰めを感じていた。

 この広い宮廷でたったひとり、わたしを嘘つきだと思っていない人がいる。何の力もない、記録するだけの老人でも。


 立ち去り際、モーリスがふと、独り言のように言った。


「牢の毛布が一枚多いな。妙なことだ」


 言われて気づいた。

 わたしの牢には、囚人には不相応な厚い毛布が、いつのまにか二枚かかっていた。底冷えのする地下で、わたしが凍えないように。


 誰がこんなことを、と考えても、答えは出なかった。


 その夜、わたしは一睡もできなかった。

 膝を抱えたまま、明日のことだけを考えた。広場へ引き出され、見世物にされ、首を落とされる。その光景を、何度も思い描いた。

 怖かった。けれど、それ以上に決めたことがあった。


 どうせ死ぬのなら、最後まで顔を上げていよう。

 ロンダートの娘として、罪なき者として、背筋を伸ばして死のう。泣いて命乞いをすれば、宰相の筋書きを認めることになる。それだけは、したくなかった。


 冷たい毛布を二枚かぶって、わたしは夜明けを待った。

 底冷えのする牢の中で、いつのまにか、わたしの心だけが妙に静かに凪いでいた。



 断罪の日は、よく晴れていた。


 王宮の大広間に貴族たちがびっしりと詰めかけていた。罪人をひと目見ようという顔が、どこまでも並んでいる。

 憐れみはなかった。あるのは好奇と軽蔑だけ。わたしは枷をつけられたまま、その視線の真ん中へ引き出された。


 人垣の中に見知った顔がいくつもあった。

 かつてわたしに笑顔を向けていた令嬢たちが、扇の陰で口元を歪めている。気位の高かったあの方も、これでおしまいね。そんな囁きが聞こえてくるようだった。

 わたしは顔を上げていた。うつむけば、罪を認めることになる気がしたから。


 壇の上に宰相オズワルドがいた。

 大柄な体を法服に包み、満足げに口の端を持ち上げている。すべて筋書き通りだと、その顔に書いてあった。


 そして、その隣。断罪の席に座っているのがアレクシス殿下だった。


「これより、子爵令嬢セシリア・ロンダートの断罪を行う」


 宰相がよく通る声で宣言した。


「被告は、王太子殿下の毒殺を企てた。証人を呼べ」


 三人の証人が順に進み出た。

 ひとりは王宮の侍女、ひとりは茶を運ぶ小姓、ひとりは出入りの薬種商。みな見覚えのある顔で、みな宰相の息のかかった者たちだった。


「被告が、殿下の茶に何かを混ぜるのを見ました」


「怪しい瓶を、薬種商から受け取っておられました」


「その取引を、わたくしが仲介いたしました」


 すらすらと、用意された言葉が並ぶ。

 わたしは反論したかった。けれど、何を言っても罪人の言い逃れにしかならないと分かっていた。


 ただ、三人目の薬種商が証言するとき、声がわずかに揺れた。


「わたくしが……その、取引を、仲介……いたしました」


 男の額に汗が浮いていた。視線がせわしなく泳ぎ、わたしと目が合うと怯えたように逸れる。


 嘘をついている。この男は嘘に慣れていない。

 もし誰かがこの揺らぎを突けば、筋書きは崩れるかもしれない。


 わたしの胸に、ほんのわずか希望が灯った。

 誰でもいい。この男にもう一度だけ、問いただして。


「以上か」


 その芽を宰相の声があっさりと踏み潰した。


「三名の証言は一致している。被告の罪は明白。殿下、ご裁可を」


 促された薬種商はもう俯いて、二度と顔を上げなかった。

 希望は、灯ったのと同じ速さで消えた。


 けれどアレクシス殿下は、すぐには裁こうとしなかった。

 代わりに、証人たちへ静かに問いを向けた。


「侍女に問う。被告が茶に何かを混ぜるのを見たと言ったな。その茶を、実際に飲んだ者はいるか」


「い……いえ。毒見の段で止められましたので」


「では、毒が体に入った者はいない。そうだな」


「は、はい」


 殿下の声は淡々としていた。罪をさらに重ねるための問いのように聞こえた。

 けれどその実、彼は確かめていた。誰も害を受けていないことを。これが既遂ではないことを。


「薬種商。お前が売った瓶と、被告の寝台から出た瓶。同じ物だと証せるか。封蝋は。刻印は」


「それは……控えを、取ってはおりませんで」


「では、証拠の品の出所は辿れぬ。そうだな」


「……はい」


 宰相の眉が、わずかに動いた。

 話が思っていた方向とずれていく。証人の言葉は罪を固めるどころか、ひとつずつ証拠の穴をさらけ出していった。

 それでもアレクシス殿下の表情は、氷のままだった。誰の目にも、ただ厳格に事実を質しているとしか映らない。


 わたしだけが分からなかった。婚約者だった人が、何をしようとしているのか。


 ひととおり問い終えると、殿下はようやくわたしに目を向けた。


「被告。申し開きはあるか」


 冷たい声だった。わたしを見る灰青色の瞳に温度はなかった。

 八つのときからの婚約者は、石でできた人形のようにわたしを見下ろしていた。


 わたしは最後にもう一度だけ、彼の目を見つめた。

 幼いころ、わたしを姫君のように呼んではにかんでいた男の子。その面影はもう、どこにもなかった。


「……ありません」


 わたしは目を伏せた。

 彼にまで断じられるのなら、もう何を言っても無駄だと思った。いっそ、早く終わってほしかった。



「では、判決を言い渡す」


 広間がしんと静まり返った。


 毒殺未遂。導かれる罰はひとつしかない。公開処刑。

 わたしは目を閉じた。明日にも、わたしは広場で首を落とされる。せめて取り乱すまいと、奥歯を噛みしめた。


 怖くないと言えば嘘になる。

 けれど、それ以上に虚しかった。誰にも信じてもらえないまま死ぬのだ。よりにもよって、いちばん信じてほしかった人の手で。


「セシリア・ロンダートより、ロンダート子爵家の名を剥奪する」


 ひとつめは想定の内だった。家名を奪うのは、処刑の前段にすぎない。


「あわせて、王太子妃となるべき婚約を破棄する」


 ふたつめも当然だった。胸は痛んだが、それも織り込み済みだった。


「そして——」


 アレクシス殿下の声がわずかに沈んだ。


「今回の件は未遂に終わった。わたしの身に害はない。毒の出所を示す物的証拠も、ない。ゆえに、極刑は科さない」


 広間がどよめいた。


 壇上の宰相が勢いよく立ち上がった。頬が、怒りで赤く染まっている。


「お待ちください、殿下! 毒を盛った大罪人です! 追放などという生ぬるい沙汰が、どこにありましょうか!」


「未遂だと言っている」


 アレクシス殿下は宰相を見もしなかった。


「証拠の足りない罪で人の首を刎ねれば、裁いた側が後の世に罪人と呼ばれる。それとも宰相は、証拠もなきまま王太子の名において人を処刑せよとわたしに命じるのか」


 静かな、けれど刃のような問いだった。


 宰相が言葉に詰まった。

 ここで処刑せよと言えば、王太子に違法な処刑を強いた男として記録に残る。あの抜け目ない男が、それを受け入れられるはずもなかった。


「この者を、国外へ永久に追放する。二度と王国の土を踏むことを禁ずる」


 わたしは呆然と殿下を見上げていた。


 死なない。わたしは死なないのだ。

 なぜ。どうして彼は宰相に逆らってまで、わたしを生かす道を選んだのだろう。

 婚約を解きたいだけなら、処刑を黙って見ていればよかったはずなのに。


 混乱したまま、わたしは判決の続きを聞いた。そして、気づいた。


「追放にあたり、被告に告げる」


 アレクシス殿下はもう罪状書を見ていなかった。暗記した言葉を諳んじるように、ゆっくりと続けた。


「たとえ地に落ちようとも、その者を消してはならぬ。罪人は生きて己の罪を負い、歩き続けよ。それがこの国の、断罪の作法である」


 息が止まった。


 断罪の作法。そんなものはない。

 わたしは王国の法を、子供のころから叩き込まれて育った。追放の判決に、そんな決まり文句は存在しない。


 なのにその言葉を、わたしは知っていた。


 九つの夏。婚約してすぐの夜のことだった。


 アレクは王宮の屋根に登るという無茶を言い出して、わたしを引っぱっていった。流星が降る夜なのだと。

 二人で瓦に座って空を見上げると、本当に星が幾筋も流れた。


「星は、落ちると消えるんだ」


 膝を抱えた十歳のアレクは、まだ王太子になる前の、ただの泣き虫の男の子だった。


「王族は星みたいなものだって、父上が言ってた。高いところで光ってても、落ちたら誰も覚えてない。怖いんだ、俺」


 わたしはその小さな手を握った。


「落ちても、消えなければいいの。わたしが覚えてるもの。アレクが落ちても、わたしが地面で待ってる。だから——落ちても、消えるな」


 たわいない、子供の約束だった。二人だけの合言葉。

 二十年近く、一度も口にしなかった言葉。


 それを彼はいま、断罪の言葉に縫い込んだ。

 たとえ地に落ちようとも、その者を消してはならぬ。生きて、歩き続けよ。


 落ちても、消えるな。生きろ。


 顔を上げた。


 アレクシス殿下はもうわたしを見ていなかった。次の書類に手を伸ばし、何ごともなかったように退廷を告げようとしている。

 けれど、その横顔がほんのわずか強張っていた。書類を持つ指先が、白くなるほど力んでいた。


 わたしはようやく分かった。


 この断罪は、芝居だ。

 宰相に逆らえば彼自身の足元も危うい。それでも彼は、誰にも文句を言わせない理屈を組み立てて、わたしを死から引き剥がした。

 冷酷な顔をして。誰にも気づかれないように。


 この三月の冷たさも、そうだったのかもしれない。

 宰相がわたしを狙っていると気づいて、彼は先に距離を取った。婚約者を遠ざけておけば、いざというとき庇い立てを疑われずに済む。

 あの夜会の冷たい言葉さえ、わたしを守るための布石だったのだ。


 泣いてはいけない、と思った。

 ここで泣けば誰かが気づく。彼が命がけで作った芝居が、台無しになる。

 わたしは、こぼれそうになる涙を喉の奥へ呑み込んだ。



 二人の衛兵に引き立てられて、わたしは広間を出た。


 扉の手前で、すれ違いざまにアレクシス殿下が壇を下りてきた。書類を侍従に渡すふりをして、わたしのすぐ脇を通る。


 ほんの一瞬。彼の唇が、声にならないほど小さく動いた。


「本物の断罪は、何も生まない」


 わたしにしか聞こえない声だった。


「だからこれは、偽物だ。——生きろ、セシル」


 それきり、彼は振り返らなかった。

 わたしも振り返らなかった。振り返れば、足が動かなくなると分かっていたから。


 ただ、すれ違う一瞬、彼の手の甲がわたしの指先にそっと触れた。

 それが、八つのときからの婚約者との最後の触れ合いになった。


 広間の隅で、あの老書記官がペンを走らせていた。モーリス。

 すれ違うとき、彼の手が止まったのを、わたしは見た。


 モーリスは顔を上げ、わたしを見て、それからアレクシス殿下の背を見た。そして、静かにペンを置いた。

 合言葉に気づいたのだ。二十年も断罪を記録してきたこの人が、あの不自然な判決文の意味を聞き逃すはずがなかった。


 けれどその場では、何も書かなかった。

 わたしに見えた断罪録には、ただ「永久追放」の四文字だけが残った。そこに込められたものは、彼の胸の中に、わたしと同じだけしまわれたのだと思った。


 馬車に乗せられる直前、人垣の隅から小さな影が飛び出してきた。


 リナだった。

 衛兵に止められる前のわずかな隙に、その子はわたしの手へ布の包みを握らせた。


「お嬢様。これを。……どうか、これを持っていって」


 涙でぐしゃぐしゃの顔だった。それだけ言うと、リナはすぐに引き離された。


 馬車が動き出してから、わたしはこっそり包みを開いた。


 中身は三つ。

 ひとつは、ずっしりと重い革袋。開けると、当面の暮らしには困らないだけの金貨が入っていた。

 ひとつは一通の封書。隣国の名門、ガルニエ伯爵あての紹介状だった。差出人の名はない。

 けれど、その筆跡をわたしは知っていた。生真面目で、少し右上がりの、アレクシス殿下の字だった。


 そして、もうひとつ。


 布の最後の折り目から、小さな木の根付が転がり出た。

 古びた、子供の手すさびのような彫り。流れ星をかたどった、不格好な星。


 九つの夏に、屋根の上でアレクが彫ってわたしにくれたものだった。二十年近く前に失くしたと思っていた、あの星。

 彼はずっと持っていたのだ。わたしが落としたそれを拾って、二十年、肌身離さず。


 わたしは両手で根付を包んで、声を殺して泣いた。


 彼は、判決でわたしを生かしただけではなかった。

 その先の暮らしも、逃げる場所も、ぜんぶ用意していた。冷たい仮面の裏で、たったひとりきりで。

 いつから準備していたのだろう。あの三月の冷たさは、わたしを守るための長い長いお別れの支度だったのだ。


 馬車の窓の外を、見慣れた街並みが流れていった。

 幼いころアレクと忍び出て歩いた市場。二人で隠れた大聖堂の鐘楼。彼が初めて剣の試合に勝った日、駆け寄ったわたしが転んだ石畳。

 その全部を、わたしはもう二度と踏めない。


 けれど不思議と、恨む気持ちは湧かなかった。

 彼はわたしから故郷を奪ったのではない。わたしに、明日をくれたのだ。



 国境の関所まで、馬車に揺られて六日かかった。


 名を失い、家を失い、婚約者を失った。手元に残ったのは、着の身着のままの体と、革袋ひとつ、封書一通、星の根付ひとつ。

 それでも、わたしは生きていた。


 関所の柵の向こうに、見知らぬ国の土が広がっていた。

 馬車を降りて、わたしは一度だけ来た道を振り返った。雪をかぶった王国の山並みが、遠く、白く光っていた。


 あの山の向こうで、彼はいまも冷たい王太子の顔をして生きている。わたしを生かすために、自分の手を汚した人。

 もう二度と会うことはないのだろう。それでも、と思う。

 同じ空の下で彼が生きている。いまはそれだけで充分だった。


 わたしは、誓いを立てたりはしなかった。

 復讐してやる、とも。必ず戻る、とも。そんな大きな言葉を、いまのわたしは持っていなかった。

 ただ、握りしめた拳の中の星の根付が、ひとつの約束のように温かかった。


 わたしを断罪したあの人は、わたしを愛していた。

 それを知ってしまった以上、わたしは死ねない。落ちても、消えるわけにはいかない。


 国境を越える。


 最初の一歩を踏み出したとき、頬を涙がひとすじ伝った。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。


 名のないわたしを、見知らぬ国がどう迎えるのかは分からない。きっと、楽な道ではないだろう。

 それでも、生きてさえいれば、いつかできることがある。


 いつか、と思った。

 いつか力をつけて戻ろう。彼ひとりに背負わせてしまったものを、わたしの手で取り返しに。

 そのときわたしはきっと、本物の断罪というものを、あの宰相に突きつけるのだろう。


 本物の断罪は、何も生まない。


 あのとき彼が囁いた言葉の本当の意味を、わたしはまだ分かっていなかった。

 それを思い知るのは、もう少し、あとの話。

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