92 豪華絢爛の白銀の月楼と喧騒を煮込むロイヤル・ビーフシチュー
浮世離れの市場での一騒動を終え、俺たちは国王から指定された宿泊先へと向かった。辿り着いたそこは王城のすぐ側に位置する迎賓館――白銀の月楼だ。純白の大理石で築かれたその建物は夕闇の中で魔導灯に照らされ文字通り白銀に輝いている。
「なによここ? 住む場所っていうより展示品じゃない」
ミカが馬車から降りるなり呆れたように口を開く。確かに門構えからして威圧感が凄い。並んでいる衛兵たちの甲冑も、さっきの正門の連中より一段と磨き抜かれている。
「ア、アキトさん……こんなところに泊まっていいんでしょうか?」
リナがおどおどしながら俺の腕を掴む。聖域の隠れ家とは月とスッポン……いや、森と宇宙ほどの違いがある。
「ぬはは! いいではないか! 儂の全盛期でもこれほどの宿には滅多に預かれなんだぞ。若造、今夜はここの酒蔵を空にする勢いで楽しもうではないか!」
「貴方はまずその巨躯で備品を壊さないよう細心の注意を払いなさい。あと酒蔵を空にするのは物理的に不可能よ。その低知能なアルコール代謝機能を過信するのはやめなさい」
セレフィナが冷たく突っ込みながら優雅に馬車を降りる。彼女だけはこの豪華な風景に違和感なく溶け込んでいた。
「いらっしゃいませ、聖域の調理師アキト様および御一行様。私は当館の管理を任されております、執事のセバスチャンと申します」
出てきたのはこれまた絵に描いたような老執事。俺が「どうも」と軽く会釈すると一瞬驚いたような顔をしたがすぐに完璧な微笑みを戻した。王宮の人間にとって俺のようなただの調理師が伝説の武王や銀髪の魔女を従えている光景は理解の範疇を超えているのだろう。
館内に入ると、そこはさらに凄まじかった。床にはふかふかの魔法絨毯が敷かれ、壁には有名な画家の絵画(たぶん凄い高い)が飾られている。セバスチャンに案内された最上階のスイートに足を踏み入れた瞬間――わちゃわちゃした大騒動が幕を開けた。
「おおっ! このソファー、まるで雲の上に座っておるようだわい!」
ドスンという衝撃音とともにゴードンが巨大な身体でソファーにダイブした。
「あ、ゴードンさん! バネが! バネの悲鳴が聞こえます!」
「駄目だ、こいつら。ミカ、お前はなにをしてる?」
俺が視線を向けるとミカは壁に飾られた銀の燭台を手に取りまじまじと眺めていた。
「ねぇお兄さん、これ一個でうちの村の半年分の食費になるよ。今のうちに鑑定しておかないと」
「盗むなよ? セレフィナは……お前もか!」
セレフィナは部屋の隅にある魔導式の書見台を勝手に弄っていた。
「設計が古い。照度の調整に三秒も掛かるなんて作成者の論理性を疑うわ。アキト、私の部屋はここにするから。隣の図書室と繋がっているし、一番マシな空気循環をしているわ」
「好きにしろ。俺は……あっちのキッチンが近い部屋でいい」
俺は溜息を吐きながら荷物を整理しようとした。しかし王宮から派遣されたメイドたちが「それは我々の仕事です」と血相を変えて飛んでくる。どうにも落ち着かない。
「セバスチャン、悪いんだけど今夜の夕食は俺が作る。キッチンを借りてもいいか?」
「左様でございますか? 当館には王宮専属のシェフも控えておりますが――」
「いや、仲間たちが俺の飯じゃないと落ち着かない質なんだ。材料はあるのか?」
「は、はい。王家より最高級の食材が届いております」
俺はセバスチャンの案内で迎賓館のキッチンへと向かった。案内されたキッチンは例えるなら工場だった。最新の魔導オーブン、巨大な冷蔵魔法箱、銀製の包丁セット。俺はエプロンを締め直すと棚に並んだ高級食材を吟味し始める。
「これは飛龍の牛もも肉か? それに熟成された黒真珠のトリュフ。王室もなかなか気合が入っているな」
俺は部屋で暴れているであろう連中を黙らせ、この慣れない豪華な宿でぐっすり眠らせるための最高の安眠食を構想した。
調理工程:迎賓館の夜を彩る『ロイヤル・ビーフシチュー』
肉の魂の解放:飛龍の肉を贅沢な厚切りにし、表面を強火で一気に焼き固める。
熱量の絶対掌握:細胞深層加圧加熱。
ただ焼くのではない。肉の内側に魔力を流し込み硬い筋組織を一瞬でゼラチン状に組み替える。噛んだ瞬間に肉が溶ける感覚を生み出すための下準備だ。
ソースの超多重奏:男爵の領地で手に入れた熟成ワインと王宮の高級コンソメを合わせる。
【究極の調理】:分子浸透調和。
ワインの酸味、トリュフの香り、肉の旨味。これらを魔力で結合させ、本来なら三日かかる煮込みの深みを、わずか三十分で完成させる。
安眠のハーブ:仕上げに聖域から持参した眠り姫の粉を隠し味に加える。
「騒がしい連中を眠らせるにはこれしかない」
豪華な晩餐をダイニングルームに大皿を運ぶと、そこには既に待ち切れない様子の四人と一匹がいた。ゴードンは既に備え付けのワインを数本空けており、ミカは銀のフォークの重さを確かめ、セレフィナは「香りが一秒ごとに変化している。計算不可能な芳醇さね」と呟いている。
「お待たせ。これは『飛龍肉のロイヤル・ビーフシチュー・王都の月夜仕立て』だ」
俺が蓋を開けた瞬間――迎賓館の豪華な内装さえも影が薄れるほどの濃厚で華やかな香りが部屋中に広がった。
「…………っ!」
全員が言葉を失い一斉にスプーンを動かした。
「あ……あぁ……あぁ……っ!」
リナが一口食べそのままトロンとした目になった。
「美味しい。お肉が歯がいらないくらい柔らかくて……なんだか王女様になった気分です」
「かかか! 若造、この肉の弾力、まさに龍の生命力そのものよ! だが後味は驚くほど優しく内臓に染み渡るわい!」
「理解、できないわ」
セレフィナが珍しく呆然とした表情で皿を見つめている。
「この重厚なソースの中に精神を安定させるアルファ波を誘導する成分が含まれている。アキト、貴方は味覚だけでなく私たちの神経系までハッキングするつもりなの?」
「ハッキングなんて人聞きが悪いな。ただ慣れない場所で疲れてるだろうから、リラックスしてほしかっただけだ」
「お兄さん、これ……美味し過ぎて明日から普通の生活に戻れないよ」
ミカもいつになくお淑やかにシチューを味わっている。ギンも専用の皿に盛られた肉を尻尾を振りながら夢中で食べている。
あれほど騒がしかった連中が嘘のように静かになった。ゴードンは「ぐおおおおおっ!」と地鳴りのようなイビキをかきながらソファーで沈没し、リナとミカは一つの大きなベッドに潜り込んで既に寝息を立てている。
「ふん、策略家ね」
テラスで夜風に当たっていた俺にセレフィナが近づいてきた。手にはまだ温かい食後のハーブティーが握られている。
「全員を眠らせて一人でゆっくりしようだなんて。私の知性は貴方のその優しさという名の計算を見抜いているわよ」
「計算なんて……そんな大層なもんじゃない。ただ皆が美味そうに食ってる顔が見られればそれで十分なんだよ」
俺が笑うとセレフィナは月光に照らされた銀髪を揺らし、少しだけ本当に少しだけ口角を上げた。
「王都の料理人たち……可哀想にね。明日から自身の作ってきたものを疑い始めることになるわ。アキト、貴方の罪は深いわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
俺は王都の夜景を眺めながら明日からの美食祭を思った。この国の一番高い場所から俺の料理が世界を変えていく。その予感は今や確信へと変わっていた。
「さて、俺も寝るかな」
静まり返った迎賓館。史上最強の調理師と仲間たちの、王都での最初の一夜は、甘美な香りと深い眠りの中に溶けていった。




