90 月下の魔導温泉と湯けむりに消えた理――至福の『龍脈ゆで卵』と翻弄される俺
リトス村を後にして数日。王都へと続く街道は整備されているとはいえ、馬車に揺られ続けるのはなかなかに体力を削られる。特に村での水路解体ショーと、その後の連日の宴会で神経を使い果たした俺にとって、今の望みはただ一つ――
「あー、腰が痛い。布団で泥のように眠りたい」
俺が御者台で独り言をこぼすと、馬車の窓からセレフィナが顔を出した。その肌は相変わらず陶器のように滑らかで、旅の疲れなど微塵も感じさせない。
「貴方の三流の筋繊維が悲鳴を上げているようね。これでは王都に着く前にただの喋る食材に成り下がってしまうわ。仕方のない人、私の知る最高の休息場所へ案内してあげる」
「休息場所? 宿場町か?」
「いいえ、この先の渓谷にある魔導温泉『月下の雫』よ。王族や高位貴族しか立ち入ることを許されない純度百パーセントの魔力泉。私のコネクションを総動員して今夜は貸し切りにしておいたわ」
「貸し切り? セレフィナ、お前それ、いくらかかったんだ?」
「金銭的な負担なんて貴方の最高の料理を維持するための投資に比べれば四捨五入して零に等しいわ。さあ、速度を上げなさい。日が沈む前に極上の湯が待っているわよ」
セレフィナの言葉にリナとミカが馬車の中から歓声を上げるのが聞こえた。
「温泉! 嬉しいです、アキトさん!」
「やったーっ! 泥んこ遊びの汚れ、全部落としちゃお!」
これが後の惨劇の幕開けだとは、この時の俺は知る由もなかった。
到着した月下の雫は宿というより神殿に近かった。断崖絶壁から流れ落ちる滝が月光を反射し、そこから立ち上る湯けむりが幻想的な霧となって周囲を包み込んでいる。
「すげえ、ここ、全部温泉なのか?」
「ええ。ここの湯は地下数千メートルを通る龍脈から直接湧き出しているの。身体能力の回復はもちろん、魔力回路の洗浄にも最適よ。さあ、アキト。貴方は西側の蒼月の湯へ。いい? 絶対に東側の紅蓮の湯へは来ないこと。あちらは特別な魔導結界で保護された……女性専用の空間だから」
「わかってるよ。そんな間違い、するはずないだろ」
俺はセレフィナの忠告を軽く聞き流し、タオルを片手に蒼月の湯へと向かった。しかし誤算があった。この月下の雫の湯けむりには、微量の魔導成分が含まれており、視界を遮るだけでなく、方向感覚を狂わせる効果があるのだ。さらにこの日は満月。龍脈の活動が活発になり施設の自動誘導魔法陣が誤作動を起こしていた。
「お、おい。どっちだ? 霧が深過ぎて前が見えないぞ」
俺は壁を伝いながら進む。ようやく見つけた暖簾を潜り扉を開けた。そこには青白く輝く巨大な露天風呂が広がっていた。
「おっ、ここか? 誰もいないな」
俺は服を脱ぎ捨て贅沢に湯船へと飛び込んだ。
「……ふう……。生き返る。この湯、身体の芯まで魔力が染み込んでくるな」
俺は目を閉じ、しばしの安らぎに身を委ねた。だが――その時だった。
「あら? 貴方、案外早かったのね」
聞き覚えのある鈴を転がすような、しかし今は少し無防備な声が、霧の向こうから聞こえてきた。
「……え?」
俺が目を見開くと、そこには霧がふわりと晴れた先で、お湯に肩まで浸かっているセレフィナがいた。いや、それだけじゃない。隣には顔を真っ赤にして固まっているリナと、面白そうにニヤニヤしているミカまで揃っている。
「……………………」
沈黙が支配する。俺の視線は無意識のうちにセレフィナの、普段のドレスからは想像もつかないほど豊かな、そして水滴が真珠のように輝く鎖骨のラインへ――
「あ、あ、あ、あああああっ!」
リナが耳まで真っ赤にして、持っていた桶を水面に叩きつけた。
「アキトさん! ど、どど、どうしてここに! ここは女子の方ですよ!」
「いや、俺はちゃんと蒼月の湯の暖簾を」
「貴方……私の完璧な計算をこれほどまでに無惨に破壊するなんて――死刑ね。あるいは眼球の神経を一つずつ調理してあげましょうか?」
セレフィナが冷たい視線を向けてくるが、その耳たぶが朱を差したように赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
「あはは! お兄さん、やるじゃん! 私の身体そんなにガン見してどうしたの?」
ミカがわざとらしく胸を隠さずに近づいてくる。
「ち、違う! ミカ、お前も服を着ろ……あ、いや、ここは風呂か! とにかく俺は出る! 今すぐ出るから!」
慌てて立ち上がろうとした俺だったが、運悪く(あるいは魔導温泉の呪いか)、足元の苔むした岩に足を滑らせた。
「おわっ!」
「きゃっ!」
俺が倒れ込んだ先には驚いて立ち上がろうとしたセレフィナがいた。 そして俺の手は……柔らかく温かい「なにか」をしっかりと掴んでしまった。
「…………アキト……そこは私の……その……」
セレフィナの声が今までに聞いたことがないほど震えている。俺は手の感触と目の前にある白銀の絶景に思考が完全にショートした。
「あっ……柔らかい」
「このドスケベ料理人がぁぁぁぁぁっ!」
ドゴォォォォォン!
セレフィナの怒りの氷魔法が炸裂し、俺は裸のまま空の彼方へと吹き飛ばされた。
一時間後、俺は身体のあちこちに氷を貼り付けたまま、施設のキッチンで黙々と作業をしていた。正直、気まず過ぎて死にそうだ。だが料理人としてこのまま逃げるわけにはいかない。あんな事件の後だからこそ、最高の味で場を鎮めるしかないのだ。
「この温泉の魔力特性を逆手に取る」
俺は温泉の源流から汲み上げた、超高温・高濃度の魔力水を用意した。
調理工程:温泉の魂を宿す龍脈・半熟水晶卵
【究極の調理】:微細気泡浸透。
龍脈の熱水に俺の魔力を通した特製の出汁・干し椎茸と幻の鶏サンダー・コックの骨から取ったものを混ぜる。卵の殻を透過して旨味成分が白身のタンパク質に直接結合していく。
温度の絶対固定:温泉の温度は常に揺らいでいる。
熱量の絶対掌握:定常波加熱。
魔力で卵の周囲に定常波を作り出し、温度を68.5度に固定。一秒の狂いもなく白身はプルプルのゼリー状、黄身はトロリと流れ出す極上の半熟を作り上げる。
龍の涙のタレ:温泉のミネラル分と王都産の高級醤油、そして男爵から没収した秘蔵の香辛料を合わせ瞬間的に真空加熱する。
「よしよし『月下の雫・聖域の温泉卵プレート』だ。付け合わせはこの地でしか採れない霧隠れの山菜の天ぷら。これを食べてさっきのことは忘れてくれ」
広場のテーブル。セレフィナは風呂上がりの薄手のローブを纏い、髪を湿らせたまま不機嫌そうに座っていた。リナはまだ目が合うたびに「ひゃぅっ!」と奇声を上げ、ミカだけが楽しそうに足をぶらつかせている。
「食べ物で懐柔しようだなんて三流の発想ね」
セレフィナがスプーンで卵の殻を割り中身を口にした。瞬間、瞳が月光よりも鋭く見開かれた。
「なっ、なに、これ?」
「あ、美味しい! 卵なのに中から山の息吹が溢れてきます! なんだか身体の中のモヤモヤした魔力がスーッと溶けていくみたい」
リナも一口食べるごとに頬を緩ませていく。
「お兄さん、これ最高! 卵のコクが温泉のミネラルと合わさって、もう脳がとろけちゃいそう!」
ミカは一気に三つの卵を平らげた。
「貴方の罪はこの卵一万個分に相当するわ。でも今のこの一口に免じて、執行猶予を与えてあげる。次はないわよ。絶対にないから」
セレフィナは顔を背けながらも最後の一口を惜しむように味わっていた。その横顔はいつもの厳しい貴族の令嬢ではなく、ただの年相応の少女のようだった。
「ああ。王都に着いたら、もっと真面目にやるよ。約束だ」
俺は自分自身の身体もまた、温泉と卵の相乗効果で、信じられないほど軽く力が漲っているのを感じていた。ラッキースケベの代償は大きかったが、仲間たちの絆は、この一夜でより深く複雑になったようだ。
「よし、明日は王都の門を潜るぞ!」
「かかか! 儂も温泉で筋肉がパンパンだわい! 王都の料理人どもに若造の味を叩きつけてやるぞ!」
ゴードンがどこからか現れ、温泉卵を殻ごと飲み込みながら吼えた。俺たちは月光に照らされた渓谷を背に、いよいよ旅の最終目的地――王都へと向けて力強く一歩を踏み出した。




