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69 聖域の裂け目と輝ける夜明けの真珠茸

「いい、お兄さん。ここから先は常識が通用しないから。しっかり付いてきてよ?」


 ミカがゴーグルを指でクイッと上げ警告を発する。俺たちは今、森の最深部、通称『聖域の裂け目』の入り口に立っていた。王都の連中が打ち込んだ魔力枯渇の杭の影響で、この一帯の魔力バランスは完全に崩壊している。本来なら大地に流れるはずの魔力が空へ向かって逆流し、目に見えるほどの青白いスパークが空間の至る所で爆ぜていた。


「魔力の逆流……まるで沸騰した鍋の中に飛び込むようなもんだな」


俺は心の静寂を最大展開し、周囲の魔力密度をマッピングする。修行前ならこの情報の奔流に酔っていただろう。だが今の俺は荒れ狂う魔力の波の隙間を、まるで魚の骨を抜く時のように鮮明に見分けることができていた。


「アキトさん、見てください! あそこの空間、歪んでいます!」


 リナが指差す先では魔力の渦が物理的な衝撃波となって周囲の岩を粉砕していた。


「リナ、俺の背中から離れるな。ギン、右側の警戒を頼む。ミカ、案内を続けてくれ。この嵐の向こうに目的のモノがあるんだな?」


「さすが料理人、鼻が利くね! そう、この嵐の心臓部に世界樹を浄化できる唯一の菌類――夜明けの真珠茸パール・ド・オーロールが自生してる。でもあそこは魔力を吸い込む捕食植物の巣窟なんだよ!」


 俺は腰のナイフを抜き、指先でその冷たさを確かめた。 「上等だ。最高の食材ほど、手に入れるのは難しい。それは前世でもこの世界でも変わらない真理だ」


 裂け目の奥へ進むにつれ、魔力の嵐は激しさを増していった。物理的な突風ではない。魔力が直接細胞に干渉し、体温を奪い、あるいは異常な熱を発生させる魔力熱の嵐だ。


「うう、身体が熱くなったり寒くなったり……魔力酔いが……きつい」


 リナが顔を青くして膝を突きかける。


 俺は即座に熱量の絶対掌握ヒート・マスタリーを発動した。今回は鍋を熱するためではない。俺たちの周囲数メートルを包み込む熱の結界を構築するためだ。


【究極の調理】:熱量平均化。


 以前の俺ならただ力任せに熱を遮断していただろう。だが三日間の修行を経て、俺は熱の流れをより繊細に操れるようになっていた。周囲の魔力が生む不規則な熱量を、一粒の火の粉も見逃さずキャッチし、それを調理の予熱のように一定の温度へと変換して逃がす。


「あ……楽になった。アキトさん、これ、まるでお風呂の中にいるみたいに快適です」

「無駄な魔力は使うなよ。リナは苗木に辿り着いた時のために力を温存しておいてくれ」


 ミカが目を見開いて俺を見ている。


「嘘でしょ……この魔力嵐の干渉をただの温度調整で相殺しちゃうわけ? あんた、やっぱりただの料理人じゃないわね。精密機械かなにかなの?」


「料理人にとって厨房の温度管理は基本中の基本だ。場所が森の中に変わっただけだよ」


 俺は平然と答え、さらに奥へと足を進めた。


 やがて裂け目の中心、巨大な岩が浮遊する幻想的な空間に辿り着いた。眩いばかりの光を放つ小さな泉のほとりに――それはあった。


 真珠のように白く表面が虹色の光沢を帯びた美しい茸。夜明けの真珠茸だ。


「見つけた……あれだな」


 俺が近づこうとした瞬間、地面から無数の灰色をした蔓が飛び出してきた。


「来たよ! 魔食蔓マナ・イーター! 魔力を持つものを一瞬でミイラにする森の掃除屋だよ!」


 ミカが叫び背負い袋から奇妙な魔導銃を取り出す。だが俺はそれを制した。


「ミカ、手出しは無用だ。あの蔓は魔力そのものを食うんだろう? それなら魔術で戦うのは逆効果だ。リナ、俺が今から見せる捌きをよく見ておけ」


 俺は一歩、前へ踏み出す。襲いかかってくる数千の蔓。その一本一本が俺の魔力を求めて牙のように鋭く変化している。


 俺はバフを精密な触覚と肉体加速に極限まで集中させた。修行で得たバフに頼らない反射神経に、再起動した加速バフを上乗せする。


 視界が止まる。スローモーションになった世界の中で、俺は流れるようにナイフを振るった。


【究極の調理】:空素の千切り。


 それは攻撃ですらなかった。俺にとって強情な筋を持つ巨大な肉を解体する作業と同じだった。蔓が魔力を吸い取ろうとする接点をナイフの刃先で弾く。吸い取られる寸前の微かな魔力の振動を逆利用し、蔓自身のエネルギーで自壊させる。


 シュババババッ! という風切り音とともに襲いかかる蔓が次々と調理済みの端材のように細切れになって地面に落ちていく。


「な、なんなの今の? 見えなかった……ただのナイフで魔食蔓を圧倒するなんて!」

「蔓の繊維の流れを読めば切る必要すらない。ただ解くだけだ」


 俺は一歩も立ち止まることなく、泉の中央に座する夜明けの真珠茸へと辿り着いた。


 目の前の真珠茸はまるで生き物のように脈動していた。これほど高純度の魔力を秘めた食材は、普通の収穫方法では一瞬で霧散してしまう。


 俺は物質の浸透圧制御を指先に集中させた。


「ここからが本当の調理だ。食材を殺さず、その鮮度を永遠に固定する」


 俺は茸の根元に触れ茸内部の魔力圧と、外界の荒れ狂う魔力圧の差をミリ単位で調整していく。茸が「まだ土の中にいる」と錯覚するように、指先から微かな魔力を流し込み偽の土壌環境を作り出す。


 虹色の光が一瞬強まり、次の瞬間、茸は静かに俺の手のひらへと収まった。刹那、周囲を包んでいた魔力の嵐が嘘のように凪いだ。


「完璧だ。劣化はなし。最高鮮度の夜明けの真珠だ」


 俺が茸を専用の魔法保冷箱に収めると、ミカがへなへなとその場に座り込んだ。


「……信じられない。あの裂け目を無傷で突破して、しかも真珠茸をこんなに簡単に。お兄さん、あんた、世界中の料理人を失業させる気?」


「まさか。俺はただ聖域を元に戻したいだけだ」


 俺は立ち上がり遠くに見える灰色の森の方向を見据えた。手元には伝説の食材。そして体内には修行で得た絶対的な自信がある。


「戻るぞ。これからこの食材を使って森を救うための『浄化と覚醒のテリーヌ』を仕上げる。王都の魔導師団に俺たちの料理を叩き込んでやるんだ」


「はい!」


 リナの力強い返事とともに俺たちは裂け目を後にした。俺の脳内ではすでにテリーヌの完成図が、黄金色の数式となって組み上がっていた。


 世界樹の苗木を救い、森の生命力を爆発させる。それは史上最強の料理人にしか作れない、生命を再定義する一皿になるはずだ。

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