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68 再始動の咆哮、そして森を蝕む灰色の静寂

 三日間に渡るスキル封印。それは俺にとって単なる魔力の休息以上の意味を持っていた。今朝、俺が清流のほとりに立ち、朝日を浴びた時に感じたのは、かつてないほどの身体の透明感だった。バフという増幅器を使わず、包丁の重み、火の爆ぜる音、食材が焼ける匂いの微かな変化を五感だけで捉え続けた三日間。俺の肉体という器は、かつてないほど強固に、そして精緻に磨き上げられていた。


「アキトさん、準備はいいですか? 今の冒険者さん、立っているだけで空気が震えているみたいです」


 隣でリナが少し緊張した面持ちで俺を見上げている。静かに頷き意識の深淵にある門に手をかけた。これまではここから魔力を力任せに引き出していた。だが今は違う。


【究極の調理】:再同期。


 心の中で呟くと同時に体内の魔力回路が一斉に発火した。しかし衝撃はない。以前なら暴れ馬のように駆け巡っていた強大な魔力が、今は血管の一本一本、細胞の一つ一つに吸い込まれるように完璧に収まっていく。


「……これは?」


 視界が切り替わる。心の静寂が全方位に展開された瞬間、俺の脳内に流れ込んできた情報の解像度は以前の比ではなかった。川を流れる水の分子がぶつかり合う振動。数百メートル先の木々の葉が光合成を行い、微かな熱を発する様子。そしてリナの心臓の鼓動。それらすべてがまるで整理された楽譜のように俺の意識に配置されていく。


 俺は傍らにあった落雷で立ち枯れた大木に手を置いた。スキルは発動していない。ただ研ぎ澄まされた肉体とバフが同調した感覚のまま、腰の調理ナイフを横一閃に振るった。


 ――パキィン!


 硬い乾燥した木材を断ち切ったとは思えない、氷を割ったような涼やかな音が響く。次の瞬間、巨大な幹が静かにズレ落ちた。切断面は鏡のように滑らかだ。細胞を一つも潰さず、ただ分子の結合をなぞるように切り裂いた証拠だ。


「基礎が磨かれればバフの効果はここまで変わるのか?」


 俺は手のひらを見つめた。これなら王都の魔導師団がどんなバフ無効化の結界を張ってこようと、その結界の隙間を、この精密な技巧でこじ開けられる。確信があった。


 再始動した俺の感覚が、すぐに一つの異物を捉えた。心の静寂が描く森の地図の中に、ぽっかりと穴が開いたような空白地帯がある。北西、およそ二キロ先。そこからは生命の鼓動も、風のせせらぎも、何一つ聞こえてこない。


「リナ、ギン、行くぞ。森の様子がおかしい」

「え? はい!」


 俺たちはギンの先導で森を駆けた。バフを全開にしている今の俺にとって、この程度の移動は呼吸をするのと変わらない。だが目的地に近づくにつれ、俺の鼻を突いたのは、料理人として最も嫌悪すべき匂いだった。


「……砂の匂いだな。いや、これは生命の成れの果てだ」


 辿り着いたそこには地獄のような光景が広がっていた。数日前までは深緑の葉が茂り、魔力の芳醇な香りが漂っていた原生林。それが今では木々は灰色に変色して立ち枯れ、地面の草花は触れるまでもなく砂のように崩れ落ちていた。


「なに、これ……アキトさん、森が死んでる?」


 リナが震える声で呟き、枯れた幹に手を伸ばそうとする。


「触るな!」


 俺は即座にリナの腕を掴み引き寄せた。物質の浸透圧制御を応用し、周囲の空間を流れる成分を分析する。最悪だ。


「これは自然現象じゃない。大魔力吸引陣の痕跡だ。誰かがこの一帯の魔力だけでなく、生命力そのものを根こそぎ奪い取ったんだ。だから植物は腐る暇もなく、ただの灰になったんだ」


 俺は怒りで奥歯を噛み締めた。王都の魔導師団。奴ら俺のバフを封じ込めるために、森全体の魔力を枯渇させるという暴挙に出たのか? 俺という獲物を引きずり出すためだけにこの豊かな聖域を犠牲にする。それがあいつらのやり方なのか?


「俺のキッチンを勝手に荒らすんじゃねえよ」


 刹那――虚無に包まれた森の上空から、なにかが猛スピードで落下してくるのを感知した。


「伏せろ!」


 俺はリナとギンを抱え爆発的な脚力で後方に跳んだ。ドォォォォォン! 落雷のような衝撃とともに灰色の砂が舞い上がる。土煙の中から現れたのは奇妙な格好をした少女だった。


「いたたたた。やっぱり、この魔力真空地帯じゃ、浮遊魔導具の出力が安定しないなあ。計算外だわ、ほんと」


 現れたのは茶髪のショートヘアにゴーグルを頭に乗せた少女だ。背中には自身の身体よりも大きな革製の背負い袋、手には見たこともない魔導具を握っている。


「誰だ、お前は。王都の手先か?」


 俺はナイフを逆手に構え、バフの出力を戦闘モードに切り替えた。空気の圧力が一変し少女の顔から余裕が消える。


「あわわわわっ! 待って待って! 敵じゃないってば! 私はミカ。大陸中を駆け回るフリーランスの食材ハンターだよ! ていうか、あんた、すごいね! その魔力の密度、まるで歩く特級食材じゃん!」


 ミカと名乗った少女は恐怖よりも好奇心を優先させたような瞳で俺を凝視した。


「食材ハンターだと?」


「そう! それと情報屋も兼業してるの。王都の連中がこの森でエグいことを始めたって聞いてさ。ちょっとした取引をしに来たんだよ」


 彼女は手際よく背負い袋からボロボロの地図と奇妙な計器を取り出した。


「単刀直入に言うね、お兄さん。王都の魔導師団は今、この森の心臓部にある世界樹の苗木に陣取ってる。そこに魔力枯渇のドレイン・パイルをぶち込んで、森の生命力を吸い上げてるんだ。目的は一つ。あんたのバフの源泉である森の魔力をゼロにして完全に無力化すること」


 リナが悲鳴に近い声を上げる。


「世界樹を! そんなことしたら、この森だけじゃなく、この地方全体が死んじゃいます!」


「だよねぇ。でもあいつらには関係ないみたい。ターゲットさえ捕まえれば、あとはどうでもいいんだよ」


 ミカはニヤリと笑い俺を指差した。


「ねぇ、お兄さん。あんた、料理人でしょ? それもただの料理人じゃない。だったらこの死の呪いを上書きしちゃうような料理――作ってみない?」


「料理で浄化しろと言うのか?」


「そう! 杭を抜くだけじゃ苗木に溜まった死の残滓は消えない。内側から生命力を爆発させて毒を押し出すしかないんだ。それには普通の魔法じゃ足りない。五感を刺激して魂を揺さぶるような生命の味が必要なんだよ」


 ミカの情報は俺の心の静寂に深く響いた。嘘はない。そして俺の料理人としての魂が、その挑戦に熱く反応していた。


 俺のバフを封じるために森を殺すというなら、俺はその森そのものを最高の食材に変えて、奴らの作戦を根底から食い破ってやる。


「ふふ……面白い。王都の連中に料理人の怒りがどんなものか教えてやる」


 俺はナイフを収め、ミカに向き直った。


「ミカと言ったな。その苗木を救うために必要な最高純度の食材の場所を知っているか?」


「もちろん! そのために来たんだから! でも場所はかなり危険だよ? 森の最深部、魔力が逆流してる聖域の裂け目」


 俺はリナとギンを見た。二人の瞳には恐怖ではなく、俺への信頼と、森を取り戻したいという強い意志が宿っていた。


「次の料理はただの食事じゃない。浄化と覚醒のテリーヌだ。森に眠る古の菌類と枯れかけた植物から抽出する魔力の核を融合させる。王都の連中が死を撒くなら、俺たちはそれを食い止め塗り替える」


「はい、アキトさん! 私たちのキッチン、絶対に取り返しましょう!」


 俺たちの新しい戦いが始まった。これまでの逃げるための調理ではない。居場所を守り、この森という大きな恵みを救うための聖域防衛戦だ。


 俺の指先には三日間の修行で得た精密な技巧と、再起動した強大なバフが完璧な調和を保って宿っている。


「さあ、調理開始だ」


 俺の声が灰色の静寂に包まれた森に生命の咆哮となって響き渡った。

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