12 侵入者と眼鏡の少女
目の前で起こった光景に、俺は一瞬、思考が停止した。
不可視の食卓結界。物理的な防御と魔力的な探知遮断、両面で完璧なはずの俺の結界を、目の前の少女は転がり落ちるという、あまりにも物理的であまりにも予想外の手段で突破したのだ。
ログハウスの扉の前で尻もちをついた少女は、茶色の髪を乱し顔を上げて俺を見つめている。大きな丸眼鏡は彼女の横の床に落ちている。その瞳は驚きに満ちていて、どこかぼんやりとして見えた。
外からは騎士隊長の叫び声が聞こえてくる。
「なんだ今のは? 誰か木の中に消えたぞ!」
「隊長! 魔力探知にはなにも反応しませんが、確かに人が木の裏へ消えるのを見ました!」
俺は素早く判断した。この少女をここで捕まえて外に出せば結界の秘密がバレる。しかし中に匿えば、この平和な空間が乱される。
少女は慌てて立ち上がろうとするが、足がもつれまた尻もちをつきそうになった。ドジにもほどがある。
「あ、あの、ごめんなさい! わ、私、迷子で……その、ここに家があるなんて!」
俺は咄嗟に少女の腕を掴み、そのままログハウスの中へ引き入れた。そして創造したばかりの扉を魔力で完全に閉鎖する。
「静かにしろ! 騒ぐと外の奴らに居場所がバレる」
少女は目を丸くして俺のエプロンを掴んだまま固まってしまった。
俺は少女をリビングの椅子に座らせ外の様子を探る。結界は正常に機能しているようだ。騎士隊長たちはまだ外で騒いでいるがすぐに立ち去るだろう。
「まずは君の身元を聞かせてもらう。どうやってこの森の奥に、そしてこの家に入ってきた?」
少女は少し落ち着きを取り戻したが、まだ瞳は不安に揺れている。床に落ちた眼鏡を指差した。
「わ、私は……その、エルフと人間のハーフで、王都の学院で植物学を研究しているリナと申します。迷子の理由は……山道を歩いていた時に珍しいキノコを見つけて、追いかけていたら転んで……」
少女――リナは語尾が小さくなっていく。ドジっ子属性が予想以上に強烈だった。
「この家に入れたのは本当に偶然なんです! ここに大きな木があると思って転がり込んだら急に……扉が!」
正直に話しているようだった。敵意も魔力も感じない。ただの極度の方向音痴の学者だ。
俺は少し呆れつつも彼女の無害さを確信した。そしてふとリナの視線が俺のキッチンの隅に置かれた、今日の朝食の残りの皿に向けられていることに気づいた。
「それにしても……この家……すごくいい匂いがします。なにか甘くて爽やかな……でもその奥に、とても力強い命の香りがするような」
俺は驚いてリナを見た。彼女が言っているのは俺が朝食で飲んだ感覚の饗宴ドリンクの残り香だ。
「匂いだけでわかるのか?」
「あ、すみません。眼鏡眼鏡」
リナは慌てて床の眼鏡を拾いかけ直した。丸眼鏡の奥の瞳は一気に知的さを増したように見えた。
「私は研究のために薬草の香りや成分を嗅ぎ分ける訓練をしています。そのせいか匂いだけは普通の人の数十倍も鋭敏なんです。特に植物や加工された成分の匂い……この部屋の匂いは私が知っているどの成分とも違う。まるで植物の命がそのまま香っているような」
俺は全身に鳥肌が立った。
リナ俺の【究極の調理】スキルが引き出した、食材の生命力を匂いとして嗅ぎ分けている。これまで誰も気づかなかった、俺の料理の真髄をこの少女は一瞬で見抜いたのだ。
俺はリナをまっすぐ見つめた。
「植物学の研究をしていると言ったな。この森になにを探しに来た?」
「私は『薬草の成分を加熱しても破壊せずに抽出する方法』を研究しています。薬効成分は熱に弱く、どうやっても抽出率が上がらないんです。先生からは『それは魔法の領域だ』と言われていますが、どうしても諦め切れなくて」
リナの瞳には研究への純粋な情熱が宿っていた。俺は思わず笑みがこぼれた。
――それは魔法じゃない。究極の調理だ。
まさに俺のスキルが解決できる、彼女が追い求めている課題だった。俺のスキルは熱や圧力を自在に操り、成分を破壊せずに最高の状態で抽出・融合させることに特化している。
そして彼女の異常なまでの嗅覚は、俺の料理の最高の鑑定士となる。俺が調理の際に見落とした、微妙な風味や成分の変化を、彼女は正確に教えてくれるだろう。
ドジっ子で眼鏡で嗅覚チートの植物学者。
この少女こそ俺の最高の食卓を彩る、理想の仲間になるかもしれない。俺の静かなスローライフを守り同時に最高の探求を続けるために。
「悪いけどすぐには王都へ戻れない」
リナは再び不安な顔になった。
「えっ?」
「外には君を捜している人間がいる。このログハウスの存在を知った以上、俺も君を簡単に帰すわけにはいかないんだ」
俺はキッチンの作業台を指差した。
「その代わり君が探している成分を破壊しない抽出法。俺がそれを料理として教えてやる。可能なら君の嗅覚で俺の料理を、この世界の誰も到達できない最高の高みへ導いてくれ」
俺は最高の笑顔で少女に手を差し出した。
「しばらく究極のスローライフを一緒に楽しんでみないか?」
リナは少しの間、俺と後ろの完璧なキッチンを交互に見つめた後、ドジな彼女らしく少し手を滑らせながらもしっかりと俺の手を握った。
「はい! あ、あの、ご迷惑をおかけしますが、よろしくおねがいします!」
こうして俺のログハウスでの静かなスローライフに、予期せぬ、そして最高の仲間が加わることになった。外では騎士隊長たちが諦めて引きあげる音が聞こえていた。
俺の食卓はさらに賑やかになりそうだ。




