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閑話 きっかけ。~菊屋 聖視点~

 僕は放課後、たまたま図書室から運動場を見下ろしていた。

 そこには、僕の同級生の松原と、妙な耳のついた、沈む直前の夕陽を思わせるような色のローブ?を着た女の子がいた。どうやら、松原がその子のローブを欲しがっているらしい。

 もう区分の仕方によっては高学年に分類される年なのに、松原は幼稚園児みたいに我儘で、乱暴だ。無駄に大柄で、力が強いから他の子も逆らえなくて、より一層彼の我儘を増進させているようだ。

 ここは二階だから松原の大声は何とか聞こえるけど、もう一人の子が何を言っているのかは、全く聞こえない。ただ、嫌がっているのは分かった。


「これ! 寄越せって言ってんだろ! さっきから生意気なんだよッ」


 松原は怒鳴ると左手にローブを掴んだまま、右手で相手の頬を殴った。殴られた少女はよろめきもせずに、一瞬浮いたフードを深く被り直す。それが松原の癇に障ったのか、彼はもう一回殴った。二度も殴られた彼女の頬には、赤い血のようなものが見える。

 一呼吸置いて、彼女がゆっくりと松原の方へと近付く。それは僕にも、彼にも予想外の行動で、呆気に取られていると。

 彼女は大きく手を振り上げ、自分のローブを掴む手を叩き落とした。

 彼女の力は意外と強いようで、松原はバランスを崩して、尻餅をついていた。叩いた本人は松原を見ずに、叩いたのと反対の手で自身の頬をごしごしとこすった後近くの手洗い場へ向かい、さも汚らわしいものを触ったかのように、何度も、何度も手を洗った。

 彼女が手を拭いて松原の元に戻るころには、松原は近くの女の先生を呼び、泣きながら何かを訴えていた。松原の話を聞き終えたらしい先生は、キンキンと耳につく不快な声で、彼女を叱り飛ばす。

 違う、違う。彼女は、悪くないのに。悪いのは、松原なのに。どうしてあの先生は、彼女の話を聞かないんだ?

 彼女もそう思っていたらしい。

 唐突に、先生の身体が、運動場を横切って飛んだ。


「······へぁあああぁあ!?」


 松原の間の抜けた、悲鳴交じりの声が響き渡る。それを聞いて校舎から出てきた大人達を見て、彼女は煩わしそうにローブの耳部分をいじっている。

 しばらくすると、どこかで見たことのある男の人が出てきた。彼を見たことはほとんどなくて、一体彼が何者なのか、思い出せそうで思い出せない。


「聖」

「······えっ、尊?」

「何してんだよ」

「えっと、下で、松原が問題起こして······あ、尊はあの人が誰か、分かりますか?」


 幼稚園からの幼馴染みの尊は、僕が指し示した人を見て、目を細めた。彼の特徴を伝えると、誰のことか判別できたらしく、ああ、と頷く。


「学園長だよ。よく分かんねぇけど、ここで一番偉い人。つか松原って、お前のクラスの? 何したんだ?」

「下にいる女の子を殴ったんです。それで女の子がやり返したら、先生達が色々やって、こうなってます」

「何か女の方引っ張られてってるけど、完全に女が悪者にされてね?」

「ええ、それで······」


 心配なんです、と言う前に、誰かが尊を呼ぶ声に遮られる。

 どうやら、尊を探していたようだ。


「桐生、お前学級代表だろ。学級代表は、二十分に六年の教室に集合だぞ」

「マジかよ! 悪い、聖、先帰っといてくれ」

「あ、はい、分かりました」


 尊が呼びに来た人と共に走り去っていくのを見届けてからまた運動場の方へ目を遣ると、そこには誰も残ってはいなかった。

 少女は、どこに行ったんだろう。もう帰ったのだろうか。それとも、職員室に呼び出されたのだろうか?


「······あの子は、悪くないのに······」


 先生が、それを理解してくれると良い。いや、理解してくれるはず。

 そう思おうとするけれど、ついさっき、彼女を理解しようとすらしなかったあの女教師を目の当たりにして、すぐ無条件に信じられるほど僕は大人を素晴らしいものだとは思っていない。

 大人だって、人によっては、僕や尊の顔が好みだと言って、追いかけまわしてくる人もいるんだ。

 子供より力が強いだけで、子供より落ち着いた人が多いだけで、全員が全員、話の通じる人間だというわけじゃない。

 でも、僕に何かできるわけでもない。


「······あら、菊屋くん。まだいたの? そろそろ、図書室を閉めるからね」


 隣の部屋から出てきた図書の先生に言われて、僕は慌てて荷物を持って外に出た。どうしよう、と適当にうろうろするけれど、何かやれることが出てくるはずもなく、仕方なく下足に向かう。

 その途中で、女の人と男の人とすれ違った。二人とも走っていたけれど、特に女の人の方が全力疾走していて、僕にぶつかったのにも気が付かないぐらいだった。

 あの人達は、一体誰なんだろう。何をしに来たんだろう。

 段々と不安になってきて、確かめるために二人の後を追いかける。それでも子供の足で追いつくことはできなくて、何とか男の人が奥の角を曲がったのだけ確認して、後はがむしゃらに走る。

 角を曲がる直前に疲れて走れなくなって、半ば諦めながら角を曲がると、男の人が、角から少し歩いたところにある部屋に、入ろうとしていた。バレないように、角から顔だけを出して様子を(うかが)う。

 彼が部屋に入った瞬間、部屋から飛ばされたらしい女の人が後ろ向きに彼にぶつかった。当然支えきれずに、男の人は尻餅をつく。

 女の人のその勢いは、僕が数分前に、見たばかりのもので。


「あの子だ」


 荒い呼吸と共に、呟いた。

 あの子が、部屋にいるんだ。

 あそこはどこなのだろうと扉の上を見て、僕は目を見開いた。


『執務室』


 漢字を読むことはできない。でも、あそこに学園長がいるのだということは、入学したときにした学校探検で説明された。

 そこにいるということは、職員室に呼び出されるよりもまずいことだと分かる。


「アヤ、お前、お母さんに何をしたんだッ」


 男の人が女の人に手を貸して立たせながら、部屋の中へ怒鳴る。それに誰かが答えているのが聞こえたが、何と言っているのか、どんな声なのかすらもよく分からない。

 男の人の発言からして、二人は多分、彼女の両親なのだろう。彼らは立ち上がると、ひどく怒った様子で部屋に入って行った。ドアが開け放たれたままの部屋からは、二人の怒鳴り声が聞こえてくる。何と言っているのかは聞き取りづらいけれど、これ以上近付いたらバレそうで、とても近付けない。

 ふいに、二人の声が止んだ。しんとしているおかげで、男の人でも女の人でもない、別の人が話している声が聞こえた。相変わらず何を言ってるのかは分からないけど、その声が止むと、また別の声が聞こえてきた。こちらは、学園長の声らしい。

 数秒して、あの子が部屋から出てきた。こっちへ向かってきている。

 焦って、来た道をまた走って戻った。下駄箱まで行って、靴を履き替えてそのまま隠れる。あの子が一、三、五年生なら、もう一か所ある下駄箱に向かうだろう。

 下駄箱から廊下の方を見ながら待っていると、彼女の姿が見えてきた。どう見ても彼女は六年生じゃないから、二年生なんだろう。彼女の頬には大きな絆創膏が貼られていて、遠目にも赤い染みができているのが分かる。

 彼女は靴を履き替えると、退屈そうにその場に立っていた。両親を、待っているんだと思う。

 しばらく僕も彼女も、驚くほど何もしなかった。でもこのまま帰るのは、何だか気が引けた。というか、出口から出たら、いやでも彼女の目につくだろうし······。


「······あの、け、怪我は、大丈夫、ですか······?」


 散々悩みに悩んだ結果、勇気を振り絞って、話しかけることにした。

 知らない女の子から話しかけるのはよくあるけれど、知らない女の子に話しかけるのが、こんなに緊張することだとは思わなかった。

 心臓が、凄くばくばく鳴っている。

 急に話しかけられた彼女は、まるで僕がここにいることを知っていたかのようにゆっくりとこちらを見て、微笑んだ。


「ええ、慣れていますから」


 年下の子のものとは思えない口調、表情。女の子にしては低い、だけど一切不快感を与えない声が、脳にじんわりと広がっていく。

 年相応のはずの見た目さえも、その異様に白い肌が、より一層彼女を異質なものに見せる。


「な、慣れてるからって······そんな」

「私も殴って来た人貼り倒しましたからねぇ。お互い様です」


 大人びている中に僅かにあどけなさの残る声で、彼女はくすくす楽しそうに笑う。無邪気なその笑い方は、声のせいか、『可愛らしい』というよりも、『綺麗』だ。


「でも、本当に、痛くないですか?」

「もう、触っても大丈夫なくらいです。······ああ、ごめんなさい、お母さんと、お父さんが来てるみたい」


 彼女はふっと視線を逸らすと、一気に冷たくなった声で、そう言った。

 ぞくり、と一瞬背筋が凍った。こんなにも冷たい声は、今まで聞いたことがなかったから。


「あ······それじゃあ、さようなら」

「はい、バイバイです!」


 下駄箱越しに手を振った彼女に僕も振り返して、出口から出ていく。校門まで歩きながら下駄箱の方を見ると、遠ざかっていく彼女の元へ、さっきの男の人と、女の人が駆け寄っていくのが見えた。

 あの人達は、知っているのだろうか。彼女が、自分達をひどく冷たい声で呼んだことを。

 見知らぬ他人に対するものの方が、暖かみがあると思えるほどだったことを。

 親をそんな声で呼ばなければならない彼女に対してか、親だというのに子にそんな声で呼ばれるあの人達に対してか、可哀想になんて思いながら、僕は薄っすらと頭の隅で考えていた。

 自分の親を、赤の他人未満の存在と割り切って、どうしようもなく冷たい声で呼んだ彼女の姿が。

 やけに、綺麗だったと。

よし! 二個目のルート、終わり! 全く手をつけていない、夏休みの宿題。夏休みが終わるまでに、頑張って半分くらいは······終わらせたいな!


あ、あとぶっちゃけると、このお話、学園長視点の閑話と同じ日のことです。

こんな風にする気なかったんですけど、三千文字ぐらい書いていたお話の、そもそもの前提が既存の設定と矛盾することに気付き、ゼロから書きなおした結果こうなりました。

後悔も反省もしていません。

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