閑話 きっかけ。~夏草 日向視点~
『首席の変人』、という噂というか呼び名が出始めたのは、二学期の後半、五度目の定期考査もその人物が全教科満点という有り得ない点数で、一位の欄にもはや見慣れたその名前を綴った頃だった。
例えカンニングしたって取れるレベルのテストじゃないし、できるとすれば模範解答を事前に入手してそのローブの下あたりに貼り付けるぐらいのものだが、それでも全教科入手するとかそれはもう彼女ではなく学校側に問題があると思う。さすがに管理が杜撰すぎるだろう。
それによくテスト前後に他の人が彼女に質問する姿を見かけるが、参考書や授業でやっているものと違う独特の解釈や解き方の時があるものの、分かりやすいと評判、らしい。
正直“首席の”がつく前から変人って噂が流れてるような、いやそれ以前にあの耳付きローブで顔の半分が隠れているような人に近付こうなんてするはずないから、彼女に関する評判はほとんど友達から聞いたものだ。僕自身はこれまで彼女と関わったことは一度もない。でも、成績は彼女の実力であろうことは疑っていない。最近はやけにカンニングを疑い続ける先生とかのせいで、テストの日は彼女が調子を崩しているのを見る度に可哀想になる。
そんな彼女が変人、と呼ばれるのはその見た目以外にも理由があると思う。個人的には変人よりも自由人と言った方が似合うのではないかと思うけれど、約束事はきっちり守る性格だと誰かが言っていたから、やっぱりただの自由人ではなくて、謎の行動原理で動く変人なんだろう。その約束事というのも、彼女が必ずと断言したものに限るらしいし。
話を聞けば聞くほど、関わり合いになりたくない人物だった。ただ変人なのでなく、見た目さえ除けば一見常識はずれな人間とは分からない程人当たりが良く良識を持っているというのもまた、それに拍車をかけた。その不釣り合いさが一層気味が悪いと言えば語弊しかないけど、こう、未知のものに遭遇した感じになる。
彼女は少なくとも表面上は僕に対して興味を示していなかったから、近寄る事すらほとんどないのが救いか。
……そう安心していた時期が僕にもありました。
「よろしくねぇ」
他の女子達の甘ったるく纏わりつくようなのとは違う、からからと陽気で、けれど思わずどきりとさせられる“艶”を孕む声。間延びしたそれによろしく、と小さく返せば、彼女はうん、と特に気にした様子もなく前の席の椅子をひっくり返して向かい合うようにして座った。
前のHRの時に伝えられた、ペアでの発表。
ペアを自由に決めるように伝えられた直後、僕の元に複数の女子が凄まじい形相で向かってきた瞬間に先生が急遽くじで決めると変更したのだ。良い判断だったと思う、葵のクラスでは喧嘩になったらしいから。
で、そのくじ引きで彼女とペアになったということだ。
「テーマ何が良いとかある?」
「あっ、えっと……そっちは何が良い?」
当然のようにすぐに話しかけられて、つい質問に質問をそのまま返すという生産性の欠片もない行動をしてしまった。
だって話したことなんてあるかどうか怪しいぐらいだ。少なくとも記憶上はない。なのに気まずさも、事務的な堅苦しさも感じさせない、日常会話のテンションで話しかけられたんだ。馴れ馴れしいとかじゃなくて、単に緊張していたこっちからすれば驚く。
他人任せのような発言をしてしまった僕に彼女は僅かに首を傾げる。
「んー、七番は検索ワードはぱっと浮かぶけど他と内容が完璧に被りそうだし、三番は漠然としすぎてねぇ。八番あたりが対象さえ決めたら後は楽そうだよねぇ」
ゆったりと紡がれる声は、当然だけど今まで遠くで聞いていたものよりも随分クリアで、思っていたよりも、綺麗だった。喧騒から切り離されたみたいな不思議な静けさがあって、今まで聞いたことのない響きを持っている。
「……うん?」
その声に聞き惚れていると、何も返さなかった僕に疑問を持ったのか、黒板に向けていた顔をこちらに向けてまた僅かに首を傾げた。その訝しむ声からして、可愛く見せようと振る舞っているというより、単純にそういう癖なのだろう。
「あーっと、それなら八番にしよう、うん」
「八番ね。じゃあ対象は何にする―?」
それにも言葉に詰まっていると、彼女はすぐに幾つか候補を挙げていく。
何と言うか、彼女は話が上手い人だった。
勿論発表の準備をしているんだから話が盛り上がるという意味ではなくて、彼女はとんとんと話を進めていくのだ。進め方が早いのもあるし、彼女は存外博識らしく、普段日常生活で使わないテーマなのに例とかを簡単に挙げていくから、分からなくて話が詰まるということがない。本とか、よく読むのかな。
……そういえば、一度朝にゲームをしているのを咎められた時に最新版の『校則集』にそれを禁じる項目はなかったとかで先生を言い負かしていた気がする。確か……鎌をかけようとしたのか、『校則集』で禁じられていたと言った先生に対して、割とガチトーンで『ゲームするために更新する度に一週間かけて確認してるんだむしろ該当する文章探して持ってこい』みたいな内容を言っていた。
ちゃんと敬語だったけど、その声音は心の底から相手を軽蔑しているのを隠そうともしていなかったのを覚えている。いっそ悲し気で、それでいてぞっとする恐ろしい声だった。
「……ん、じゃあレイアウトも決まったし、次の時間までに資料集めしよう。で、次の時間に書きこんで貼って終わりね」
「わぁ……こんなすぐに終わりそうなの初めてだ」
「まぁかなり手ぇ抜いたしねぇ。お望みなら時間ギリギリしっかりプランも用意できるよ~?」
「いやいいです」
「あっは、だよねぇ」
くすくすと、楽し気に口角を上げて笑う姿は、あどけない。緩く弧を描いた口許が、控えめだけど快活な声が、顔が見えないという不気味さを和らげている。
どこをとっても不思議な子だ。いつも着けているローブは勿論、他の女子よりも低めの声や、長袖から覗く肌からはどことなく人間味が感じられず、その仕草は一つ一つが相対する者の目をやけに惹きつける。
彼女は集中すれば周りが見えなくなるタイプなのか、さっき残り時間でできるとこまでしよう、と言って作業を始めてから、僕が彼女をじっと見ていることに気付いた様子はない。もしくは奇異の視線に慣れているのか。すっと背筋を伸ばして、静かに手を動かしている。彼女の右手からさらさらと流れ出てくる字は、教科書みたいなかっちりした文字じゃないけれど、ああ何だか“らしい”なと思うような、続けやすく崩した癖も含めて綺麗なものだ。
ふいに、彼女が下を向いたまま首を僅かに傾げた。その数瞬の内に気付かれたのだろうか、なんて考えて焦って、でも彼女がシャーペンをくるりと細長い指先で弄んだから、違うのか、と何故かほっとして、そのまま身動ぎだけして彼女を見ていた。何をかは分からないが、考えているらしい。さらに彼女の首が傾いでいって、はずみで、はらりと、ローブにしまわれていたらしい髪が零れた。
彼女に驚くだとかの反応はなく、ただ音を立てず、丁寧にシャーペンを置いて。
「……ぁ」
吐息と変わらない、もうそもそも出したか怪しいほどの、小さな声が洩れた。
……彼女はただ、落ちてきた髪を、耳にかけただけだというのに。……情けない話だけど、たったそれだけの仕草に、ものっすごくどきどきした。
「ん?」
まさか声が聞こえてしまったのか、彼女が顔を上げたから、慌てて視線を下に落とした。すぐに、彼女もシャーペンを持ってまた文字を書き始める。シャーペンを持つ指は、細長くて、すっと白い。
さっき髪をかけたときにちらりと見えた耳も、白かったな。
本当に、さっきのは凄く、色っぽかった。
少ししたら先生から号令がかかって、取って来た紙とかを一つに纏めて片付ける。気付いたら彼女は大方を片付けていて、ちょっとびっくりした。
「じゃあねー」
「あ……ねぇ、待って」
「ん、どうしたの」
立ち上がって、借りていた椅子を元に戻しながら彼女は僕を見る。
「えっと……何でそんなに勉強頑張るの?」
「……んん?」
前々から気にはなっていたことだ。ここで満点なんて恐ろしい点数をとるには、真面目に授業を聞くだとか、ちゃんと宿題をやるだとかの次元ではない努力が必要なのだ。定期テストよりも頻繁に行われる小テストを重視するこの学校は、定期テストは“満点という天井を作らないため”に難易度が異常に高く設定されてる、みたいなのを初等部からいる人に聞いたことがある。
それを全て満点だなんて、良い点数を取ろう程度のやる気では到底できない。
「ほら、テスト、いっつも成績良いから」
「凄いねぇ、知ってたんだ」
「逆に知らない方がおかしいと思うよ」
「そうかな? んー、まぁアレだよ」
にっこりと、唯一見える口許が大きく弧を描く。
「できないよりは、できた方が良いでしょ」
冗談っぽく、けれどそれがただの冗談ではないと分からせるに充分な含みを持たせた声。
またね、と手をひらりと振って背を向けた彼女に、それ以上の追求することなんてできはしなかった。




