ゲオルギウスの塔
ゲオルギウスの塔は村の自慢だ。
隣の村のよりも、その隣の村のものよりもずっと高い。町にはもっと高い塔があると父は言っていたが、ジョルジョは町へ行ったことがないので確かめようがない。
塔は村の真ん中の礼拝所の裏手、少し小高くなったところに建っている。村に塔は一つしかないので、村人はただ“塔”とだけ呼ぶ。礼拝所も村のほとんどの家も山の石を積み上げてできているのに、塔だけは継ぎ目のない灰色の壁で、まるで一つの大きな岩から削り出したように見えた。壁はおそろしく分厚く、ところどころに開いた窓は子どもの頭がやっと入るくらいでしかない。内側にある途方もない階段を登っていけば天辺へと出られるが、そこには何もない。囲いも手すりもなく、屋上が空に突き出しているだけだ。
危ないからと村の子どもは登ってはいけないことになっていた。そうは言っても村の子どもたちなら誰でもこっそり塔に登ったことがあって、もちろんジョルジョもそうだった。屋上の縁には怖くて近寄れなかったが、落っこちないように床に腹ばいになって首だけ伸ばすと、村の家々の屋根も羊の群れも、谷を下ってゆく道も、みな小さく見える。ただ北の雪を被った山々だけは大きいままだった。
ゲオルギウスの塔は千年も前にローマ人が作ったのだと祖父は炉端に座って語った。
「昔は竜がもっとずっと多くいたんだ。空を見上げれば竜が見えたくらいに」
「空が暗くなるくらい?」
「さあな。そこまでは多くないだろうさ。それでな、暴れる竜からローマの街を守るために、ローマの兵士があちこちに行って、あちこちに塔を建てた。竜を撃ち落とすためにな」
「どうやって竜を撃ち落としたの?」
「わからん。どうやってやったのかは知らん」
「しらないの?」
「ああ。千年も前のことだからな。いいか、ジョルジョ。あの塔は“ゲオルギウスの塔”だろ。聖ゲオルギウス様は悪い竜を退治した。竜を撃ち落とすための塔だから“ゲオルギウスの塔”なのさ」
「ゲオルギウス様」
「そうだ。お前の名前はゲオルギウス様から拝借したんだ。お前の守護聖人だぞ」
「ゲオルギウス様は塔で竜を退治したんだね」
「いいや違うぞ、ジョルジョ。塔で竜を倒したのはローマの兵士だ。ローマの兵士が塔で竜をたくさん撃ち落としたから、今は竜があんまりいないんだ」
それでも祖父は大きな竜を見たことがあると言った。これは祖父の自慢で、暇さえあれば何度でもジョルジョに聞かせた。
ジョルジョの父は祖父が大きな竜のことを話す度に言った。
「爺さんが見たのは、町にいる公爵様の竜だろ」
公爵様の竜というのは、公爵の領地の町から町へ、使いや書状を乗せて飛ぶ伝令の竜だ。人を乗せて山を越えるのだから、それなりに大きい。
「いやいや、町の竜は竜の中でも小さい竜だぞ。ほんの小さいやつだ。火を吐くこともない。俺が見たのはもっとずっと大きなやつだぞ」
「遠くの空を飛んでるのを見たんだろ。大きさなんかわかりっこない」
「わかるさ。山の向こうの、尾根をまたぐぐらいだった」
「いやいや。尾根の向こうを飛んでいたんだろ。そんな遠くじゃ大きさなんてわかりっこないさ」
この繰り返しだ。母は笑って聞いていた。ジョルジョも笑った。
そんなジョルジョの村に隣の村から知らせがきた。隣のその隣の村が、竜に襲われたのだと言う。
やってきたのは隣村の牛飼いの倅で、走ってきたから顔を真っ赤にしていた。
「牛を一頭、攫っていったんだ。足で掴んで攫っていった」
「誰か抵抗しなかったのか」と村長が訊いた。
「したそうだ。猟師たちが弓で矢を射かけたけど、ぜんぶ鱗に弾かれちまった。それで竜が怒ったらしくて、暴れて尻尾で何人も弾き飛ばした。それから火の息を吹きかけて家を三軒燃やして、山の方へと飛んでいったそうだ」
「どのくらい大きかった」と誰かが訊いた。
「俺は見てないが、うちの村でも飛んでくのを見たやつが何人もいて、翼を広げたら村の礼拝所がすっぽり隠れるぐらいだったと」
男たちが礼拝所を振り返った。礼拝所は思っていたよりずいぶんと大きかった。入り口の扉の上には、馬に乗った騎士の装いの聖ゲオルギウスが槍で竜を突く画が彫られている。その竜はゲオルギウスの馬の足元で犬ほどの大きさしかなかった。
晩には、羊飼いも息を切らせて山から下りてきた。
「竜だ。とてつもなく大きいやつだ。尾根に沿って飛んでいった」
「どっちへ行った?」
「北だ」
羊も牧羊犬も怯えてしまって動かなくなって、仕方なく自分だけ村まで下りてきたという。
祖父は「ほらな」とジョルジョに言った。
村の男たちは礼拝所に集まった。どうやって村を竜から守るか相談するためだ。
「弓じゃだめだ。鱗で弾かれる」
「槍は」
「飛んでる竜に槍が届くか」
「ありったけの鍋を集めて、叩いて音で追っ払うってのはどうだ」
「竜は熊じゃないぞ」
「牛と羊をどこかへ隠すか」
「どこへだ」
「いっそ村ごと町へ逃げよう」
「町が百人も二百人も入れてくれるわけがない。畑はどうするんだ。冬の蓄えはどうする」
どうしようもない。
男たちの話合いは夜更けまで続いた。
ジョルジョは寝床に入っても眠れなかった。祖父はとうに鼾をかいていたが、母は炉のそばで繕い物をしながら、ときどき手を止めては戸口のほうへ目をやった。窓の隙間から礼拝所の明りがまだ点いているのが見えた。
ようやく外で足音がして、ジョルジョは寝床を抜け出した。母よりも先に戸口へ走った。
戸を開けると父が立っていた。後ろには夜空よりも黒い、塔の影がそびえていた。
「ジョルジョ、まだ起きてたのか」
「話合いはどうなったの?」
父は首を振った。
「どうにもならん。あれも駄目。これも駄目。逃げるところもない。同じ話をぐるぐる回ってるだけだ」
父の言い草に、まるで粉挽き小屋の水車みたいだ、とジョルジョは思った。
「早く寝ろ」
「ねえ」
「なんだ」
「ローマ人みたいに塔で竜をなんとかできないの?」
「塔で?」
「だって、塔は竜を撃ち落とすために建てたんだって、おじいちゃんはいつも言ってる」
「塔か」
父は振り返って塔を見上げた。しばらくの間。
「あなた?」と、奥から母が呼んだ。
父は返事をしなかった。そのまま踵を返して、まだ明りの点いたままの礼拝所へと戻っていった。
父が帰ってきたのは、それからずっと後のことだった。その時にはジョルジョはもう眠ってしまっていて、礼拝所で何があったのかは、朝になって隣の家のマルコおじさんが大声で話しているのを聞いて知った。
「塔だ」と誰かが言ったのだそうだ。
「塔がどうした」
「ローマ人は塔で竜を撃ち落としたんだろう。年寄り連中がいつも言ってるじゃないか」
男たちはその意見に雷に撃たれたようになったらしい。
「そうだ」
「俺たちには塔があるじゃないか」
「ここいらのどの村の塔よりも高い塔が」
「だがどうするんだ」
「どうやってやればいい」
「それは……」
「わからないなら、わかるやつに訊けばいい。町の代官なら知ってるかもしれんぞ。あるいは公爵様ならなんとかしてくれるかも」
マルコは最初に塔のことを思いついたのは自分だった気がすると言い、村長は自分だと言った。父は黙って麦の粥をすすっていた。
町の代官への使者が立てられた。使者となったのはマルコおじさんで、いちばん上等の上着を着て、意気揚々とロバに跨がって谷を下っていった。四日して戻ってくると、満面の笑みで告げた。
「代官様はな、すぐに公爵様に報告しよう、と請け合ってくれたぞ。よく知らせてくれた、と褒めてくれた。俺の手を握ってだぞ」
代官は優秀だと評判だったし、村の誰も会ったことも姿を見たこともなかったが、公爵も民草に篤い名領主であるとの噂もあった。
「そうして、代官様はその日のうちに、公爵様のお城へ使いの竜を飛ばしてくださったんだ」
「竜で?」
「ああ、公爵様の伝令の竜だ」
「マルコおじさん、公爵様の竜を見たの?」とジョルジョは訊いた。
「ああジョルジョ、おじさんは見たよ。代官の館の裏に竜舎があってな、鞍をつけて、使いを二人も背中に乗せて庭から飛び立っていった」
「大きかった?」
マルコは両腕を広げてから、それでもまったく足りないというふうに首を振った。
「馬なんかよりもずっと大きかった。飛び立つときの風で、俺は尻餅をついたぐらいだ」
みなが笑った。
ジョルジョの後ろにいた祖父は鼻を鳴らした。
「ふん。小さいやつだな」
「人が二人も乗っているんだぞ」と父が言った。
「いや、小さいやつだ」と祖父は言った。
しばらくして、村へと公爵が寄越した竜退治の一団が、馬に跨がって貂の毛皮のマントを靡かせた代官を先頭にやってきた。長い槍を持って煌びやかな格好の傭兵団、いろいろな職人たちとたくさんの荷馬車、そしてもじゃもじゃと白い髭をたっぷり蓄えた年寄りの学者だ。学者は黒い長衣に変な帽子を被っていて、まるでお話の中の魔法使いのようであった。公爵様の都にある修道院の人だという。坊さんなのに髭を剃らないのは変わり者の印だ、と父は言っていた。うしろには、やはり黒い服の若い助手たちが本や巻物の詰まった箱を背負って付き従っていた。
こんなにたくさんの見知らぬ人間をジョルジョは見たこともなかった。馬車からは丸太や鉄の棒や、何に使われるのか見当もつかない道具が次々に下ろされていき、村はずれの牧草地にはいくつもの天幕が男たちによって張られた。
学者はまっすぐに塔の下へ歩いていって、継ぎ目のない壁に右手を当てて、長いあいだ天辺を見上げていた。なにかぶつぶつと呟いているようであった。ジョルジョにはその様子が、ときどき谷の下から巡ってくる司祭が、礼拝所で唱える祈りの姿に似ているように思われた。
学者は塔の天辺にローマ人が使っていた古代の機械を再び据え付けるつもりだった。
ねじりバネの弩砲。大人の身長ほどもある大きな銛を撃ち出す機械だ。
ジョルジョの祖父の知らなかった、ローマの兵士がどうやって竜を撃ち落としたのかという秘密、古代帝国の叡智の神髄である、機械のなんたるかを学者は知っていた。
晩になると村の男たちは礼拝所に集められ、代官の隣に立った学者が計画を説明した。
「公爵様の傭兵が運んできた攻城用の弩砲を、塔の上に据えられるように作り変える。ローマの書物に書かれておる形にだ。そして、竜は牛や羊、それから荷馬車を好む。村の外にこうした囮を繋いでおく。竜がそれにかかったところを、塔の上から撃つ」
「村の外まで、ほんとに届くんですか」と村長が訊いた。ほかの連中もうんうんと頷く。
「無論、届く。高いところから撃てば、そのぶん遠くへ届く。この塔からなら、村のまわりのどこにでも狙いをつけられる。ローマ人がこの場所に塔を建てたのは、そういうわけだ」
男たちはどよめいた。祖父は腕を組んでしきりに頷いている。
「ただし」と学者は言った。「竜は火を吐く。もし撃ち漏らせば、竜は怒って村に火をかける。だから皆が隠れる穴が要る」
翌朝から、村の男たちは傭兵とともに、炎の息から逃げるための塹壕を村のあちらこちらに掘り、職人たちは学者が描いた図面に合わせて木を削って金具を取り付けた。学者の助手たちは図面と水平器や測り縄を持って職人のあいだを回って、寸法が違うと言っては削り直させた。塔の上には櫓と滑車が組まれて、出来上がった部材が次々と持ち上げられていった。
何日かして、学者がまた村の者を集めた。今度は女たちだった。
「弩の大きな力はねじった綱から生まれる。綱をきつくねじって、それが戻ろうとする力で銛を飛ばす。つまり綱がいちばんの肝となる」
「その綱をあたしらが編むんですか」と誰かが訊いた。
「いや、編むのは職人がやる。だがその材料がいる。あなたがたの髪だ」
女たちは顔を見合わせた。
「女の髪が一番良い。馬の毛よりも牛の腱よりもだ。よくねじれて、よく戻る。ローマの時代もそうしたのだ。ある町が敵に囲まれたとき、町の女たちはみな髪を切って弩の綱にした、と書物にもある」
しばらくは誰も何も言わなかった。それから、村長のおかみさんが一歩前へ出た。
「長さはどれくらい要るんですか」
「長ければ長いほどいい」
その晩、ジョルジョの母は祖母の形見の鋏を出してきた。
腰まであった栗色の髪を、母はうなじのところでばっさりと切った。切った髪を三つ編みのまま布にくるんで、翌朝、職人の親方に手渡した。
「頭がすごく軽い」と母は笑った。「首から上がどこかへ飛んでいきそう」
ジョルジョも父も母の短い髪から目をそらした。なんだか他の女の人のような気がしたからだ。
「またすぐに伸びるわ」と母は言った。
羊飼いのところの娘が、切った髪を胸に抱いて家の裏で泣いているのを、ジョルジョは見かけた。彼女は春が来たら隣の村へ嫁ぐことになっていた。
学者の世話をするのはジョルジョの家の仕事だった。村長の家の次に広い家だったからだ。村長の家には代官が、代官が町へと帰ってからはその副官が泊まっていた。助手たちは村のあちこちの家に分れて泊まった。
ジョルジョは学者へ食事の麦粥を運ぶ重要な任を自ら請け負った。父は「学者の先生のことは絶対に邪魔するんじゃないぞ」と何遍も言い聞かせた。
はじめのうち、学者はジョルジョが話しかけても返事をしなかった。紙に何かを書きつけているか、分厚い本を読んでいるかで、ジョルジョのことは目にも入らないようだった。
それでもジョルジョは尋ねた。毎日尋ねつづけた。
「それは何?」
「……設計図だ」
「何が書いてあるの?」
「弩の弓の反りの具合だ」
「どうして女の人の髪が必要なの?」
「村で手に入りやすく、ずっと強いからだ」
「竜はどこから来るの?」
「山からだ」
「山のどこから?」
「それは知らん」
「学者なのに知らないの?」
学者は羽ペンを置いて、はじめてジョルジョの顔をまともに見た。
「よいか。学者というのはだな、知らないことを知らないと言える者のことなのだ」
「うちのおじいちゃんも、どうやって竜を撃ち落とすのかは知らないって言ってた。うちのおじいちゃんも学者なの?」
学者は髭の奥で、ふん、と鼻を鳴らした。それが笑ったのだと、ジョルジョにはあとになってわかった。
またある晩には、ジョルジョは公爵の都のことを尋ねた。
「都には竜はいる?」
「いる。公爵様の竜舎には何十頭とおる。伝令の竜だけではない。重い荷を運ぶための竜も、公爵様ご自身がお乗りになる竜もいる。都で空を見上げれば、たいていどこかを一頭は飛んでいる」
「塔はある?」
「ある。この村のよりも高いのもあるし、低いのもある。数えたことはないが、数えきれんほど建っておる。わしは十年は都に暮らしているが、まだ登ったことのない塔がいくらでもあるぞ」
ジョルジョは学者の言葉に目を丸くした。
ある日、学者はジョルジョを塔の上へと連れていった。
階段をゆっくりと登りながら、ジョルジョは壁を拳で叩いてみた。
「これって石じゃないよね」
「そうだ。石ではない。石灰と砂と、火の山の灰を混ぜて練って固めたものだ。ローマ人はこれで塔も橋も、ローマの街の大きな丸屋根も造った」
「でも、村の誰も作れないよ。石工のおじさんも」
「この村だけではない。今は誰も作れん。作り方が伝わっておらんのだ」
「窓が小さいのは?」
「竜の吐く火が入ってこないようにだ。壁がぶ厚いのも同じだ。竜が火の息を吹きかけても、中にいる兵士は焼けることがない」
学者は足を止めた。壁に一枚だけ、灰色ではない本物の石の板がはめ込まれている。表面には、ひっかき傷のような筋がいくつも並んでいた。
「文字だ。ローマ人の文字。この塔を建てたローマの軍団の名前と、その指揮をとった男の名前、そして兵士たちの名前が刻んである」
学者は一つずつ千年前の文字を指でなぞりながら読み上げた。学者の口から漏れるのは礼拝所のミサで司祭様から聞くのに似た響きだった。途中で学者の指が止まる。
「ゲオルギウス」
「聖ゲオルギウス様?」
「聖人のことではない。この塔を建てたローマの将軍の名前だ」
「千年前の将軍」
「そうだ。村の連中はこの塔が“ゲオルギウスの塔”と呼ばれるのは、竜退治の聖人にちなんだ名だと思っておるようだが、そうではない。ゲオルギウス将軍が建てたからゲオルギウスの塔なのだ。お前とおなじ名前だな」
ジョルジョは石板に顔を近づけた。千年前の文字はやはり引っかき傷のようにしか見えなかった。
「ねえ、ぼくの名前も書ける?」
「ああ、あとでな」
屋上に出ると、もう弩の骨組みは出来上がっていた。まわりに機械の枠があるおかげで、ジョルジョは腹ばいにならなくても済んだ。
学者は屋上の床を指した。ところどころに四角い穴が穿たれ、そのまわりに大きな円を描くように溝が走っている。
「この穴はローマ人が機械を据えた痕だ。この穴に脚を差し込み、こっちの溝に沿って機械を回して向きを変えた。この塔に囲いがないのは、囲いがあっては機械をぐるりと回せんし、下に狙いがつけられんからな」
新しい弩の脚は、千年前の穴にぴたりと差し込まれていた。
その晩、約束通りに学者は紙の切れ端に炭でジョルジョの名を書いてくれた。ジョルジョは毎晩、それを寝る前に眺めては指でなぞって覚えた。
ある時、ジョルジョはこう訊いた。
「機械ってなに?」
「人の代わりに力を出すものだ。人では引けない弓を引き、人では届かないところへ矢を届かせる」
「すごい」
「そうだ。すごい。だが機械はただでは動かん。馬と同じだ。秣をやって、蹄を整えて、毛を梳いてやらねば、馬はすぐに駄目になってしまう。機械も同じだ」
「機械も餌を食べるの?」
「油を食う」と学者は真顔で言った。「弩の綱にも金具にも毎日油を差してやらねばならん。油が切れれば綱は干からびて、そのうちに切れる。金具は錆びて回らなくなる。毎日、塔へ登って、具合を見てやらねばならん」
ジョルジョはしかと頷いた。だが学者は窓の外の塔に目をやって、ひとりごとのように「とはいえ……油も塔も高いからな」と言った。
その晩、学者はジョルジョの父と母に言った。
「この子は町へやってもよいかもしれぬ。読み書きを覚えさせれば、きっと物になるだろう」
「町へ、ですか」と父は言った。
「わしの知っている修道院がある。口を利いてやってもいい」
「ですが……」
「急ぐ話でもない。考えておきなさい」
父は困ったような顔をしていて、母は短い髪を何度も撫でつけていた。
ジョルジョは寝床の中で、都のたくさんの高い塔とその上を飛ぶたくさんの竜のことを考えながら眠りについた。
幾日かの後、塔の弩砲がついに完成した。
村の男たちが傭兵たちから弩の操作法を学んだ。巻き上げ機の回し方、銛の装填法、照準の合わせ方、引き金の外し方。そして油の差し方。
「油は毎日差せ」と学者は言った。「毎日だぞ」
「わかってますよ、先生」と村の男たちは答えた。学者はそれ以上は彼らに何も言わなかった。
試し撃ちの日には村中が塔の下に集まった。ジョルジョの父を含めて四人の男が巻き上げ機にとりつき、顔を真っ赤にして取っ手を回した。ぎりぎりと、木と綱の軋む音が塔の上から降ってきた。ローマ人は巻き上げも人力ではなくて機械の力を使っていた、と学者はジョルジョに教えてくれた。だが、そこまで機械を再現するには何年もかかってしまうから公爵の許しがでなかった、と学者は残念がっていた。
傭兵の団長が手を挙げて、振り下ろした。
音は思っていたよりもずっと小さかった。ばん、と乾いた音がして、それから空を裂く、ひゅううう、という長い音が追いかけてきた。銛は谷の向こうの、荒れ地に立てた藁束の的のすぐそばに突き立った。
しばらくは誰も何も言わなかった。それから塔の上で誰かが叫んで、それからみんなが叫んだ。傭兵たちは羽根飾りのついた帽子を放り上げていた。
祖父も叫びながら、ジョルジョの肩を掴んで揺さぶった。
「ほらな! ほらな! ローマ人はこうやって竜を撃ったんだ」
「おじいちゃんは知らんって言ってたくせに」
「だが、今、知ったぞ!」と祖父は言った。
村の男たちが交代で更に三発の銛を発射できたのを見届けると、公爵が寄越した一団は村を去った。
「次は隣の村へ行くんだそうだ」と父は言った。「あそこの塔はうちのよりずっと低いのにな」
学者は去り際、馬車の上からジョルジョの頭に手を置いた。
「町の話は、代官を通して知らせる」
ジョルジョは頷いた。
馬車がゆっくりと進み出してから、学者は一度だけ塔を振り返った。
結局、塔の弩砲が竜を撃つことはなかった。
ジョルジョの父をはじめ、村の男たちは午後になると塔へ登っていって弩の練習をした。はじめのうちは毎日、そのうち二日に一度、そうして気が向いたときになった。長い階段を上り下りするのは骨が折れたし、畑の仕事も家畜の世話もあった。
油も貴重だった。村では採れないから、谷の下まで買いに行かねばならず、あれほど言われたのにも関わらず、機械に油を差すのは毎日のはずが三日に一度になり、週に一度になった。
ジョルジョもときどき男たちと一緒に登った。子どもは塔に登ってはいけないなどと、もう誰も言わなかった。ある日、綱に触ると、乾いてざらざらしていた。
「油は?」
「この前やった」と父は言った。
「でも先生は毎日って」
「毎日毎日差していたら油がいくらあっても足りんよ」とマルコおじさんは言った。
そうして冬が来る前には弩砲は壊れてしまった。
久しぶりに男たちが巻き上げ機を回していたら、ばちん、と嫌な音がして、右の綱が弾けた。木の枠が裂けて、腕木が外れて屋上の縁から下へ落ちていった。
男たちは礼拝所に集まった。
「直せそうか」
「無理だ。俺たちじゃあそこまで精密に削れん。綱だってどうやって撚り合わせてあったのかわからん」
「代官に知らせるか」
「知らせてどうする。公爵様の弩を壊してしまいました、って馬鹿正直に言うのか」
「怒られるかな」
「怒られるどころか牢獄送りかもしれん」
「だいたい最後に油を差したのは誰だ」
「俺じゃない」
「俺もちがうぞ」
誰も何も言わなくなった。
「……竜も来ないしな」と誰かが呟いた。
村の女たちの髪はまだまだ短いままで、もう一度切ろうと言い出す者は居なかった。
塔の弩砲はそのまま放って置かれた。
ついに竜がジョルジョの村を襲うことはなかった。
羊飼いは「竜は山の向こうに帰ったんだろう」と言っていた。
祖父は「あれはまた来る」と言っていた。
父は竜について何も言わなかった。
次の次の冬が来て祖父が死んだ。
学者からの知らせは来なかった。春になってジョルジョは一度だけ父に訊いた。
「さあな」と父は言った。「あの先生も町の代官様もお忙しいんだろう」
それきりだった。それから何年かして公爵が代替わりしたという話が流れてきた。
ジョルジョは村から出ることなく、年老いていった。
あの竜はなぜまた来なかったのだろう、とジョルジョはときどき考える。きっと山の向こうで、竜は機械を操る誰かに撃ち落とされたのだろう。その人たちは油をたっぷり機械に差すことを忘れなかったに違いない。
塔の上の壊れた機械は、雨と風にさらされて少しずつ形を失っていった。綱はほつれて、鳥たちはそれをついばんで巣に運んでいった。
だが、塔は崩れることなくそびえ続けている。
そうして炉端に座ったジョルジョは孫たちに、村の塔は古代ローマ人が千年も昔に建てたもので、塔には竜を撃ち落とすための機械が据えられていた、と何度も語って聞かせた。
「どうやって竜を撃ち落とすの?」
「大きな弩で大人の背丈ほどもある銛を撃ち出すんだ」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとだとも。銛は谷の向こうの荒れ地まで飛んでった」
「竜にはあたった?」
「いや、竜は来なかった」
「ふうん」
孫はつまらなそうな顔をした。
それでもゲオルギウスの塔は今も村の自慢だ。
これから千年の後もきっとそうだろう。




