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箱庭の幸せ  作者: いさ
城壁の町
4/10

おわりのはじまり

崩壊の足音



【人物】

ノルン・アンシュッツ:養父から牧師を継いだ。姉夫婦と同居している。

セルジュ・アンシュッツ:アンシュッツ家に婿入りした。実家の鍛冶場には毎日通って働いている。

ソレイユ(レイユ):セルジュの息子。六歳。名付け親はノルン。

 初めて見たそれはとても小さくて自分の手ですら容易く捻り潰せてしまいそうに脆く。まだ目も開かず白い布の中で落ちつかな気にもぞもぞと動いていた。

 怖々手を伸ばすと掌にすっぽり収まってしまうくらいに小さな手が、力なく指先を掴んだ。


 まだ、自分の名前すら知らないその子は……。


***


「ノルン、おはよ!」

「うぐっ」


 元気のいい声と共にドアを開け放ち全身で飛び込んできた小柄な身体の、それなりに破壊力のある一撃をみぞおちに受けて衝撃と鈍痛で目が覚めた。そのまま息も出来ずに蹲っていると、二三何か言う声がして(聞き取るだけの余裕は無かった)毛布を引き剥がされる。

 心地よい朝の無情な闖入者は天使の微笑みで顔を覗き込んで「おはよう」と繰りかえす。見慣れた朝の光景だった。

 ただちょっと、今日のは入った箇所があまりにも凶悪だったけれど。


「おはようレイユ。もう、ちょっとでいいから……穏やかに起こしてくれないかな」


 肘だか膝だかの強打を受けじんじんするみぞおちを押さえながら訴えるが、子供は全く何にも判っていない顔で首を傾げた。態々説く気にもならなくて、上身を起こしベッドの上に乗り上げたソレイユの黒髪に手櫛を通す。子供特有の柔らかさを備えたそれはノルンの持つものとはかけ離れた色で、くすぐったそうにしながらもじっとこちらを見上げている猫のような瞳もまた然り、だ。

 ボーン、と。客間に置かれた振り子時計が時刻を告げる。父が気に入っていた古めかしいそれは本来よりも少し早く合わせられていて、未だじゃれついていたソレイユがぱっと身を起こした。


「あっ僕鐘を撞きに行かなくちゃ」


 そう言ってぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。まだ少しぼうっとする頭でソレイユの科白を反芻して、


「うわ、やば……!」


 わたわたと毛布を跳ね除け飛び起きた。

 寝癖でぐしゃぐしゃになった髪はひとまずそのままに、書棚の横に備えられた机まで走り重厚な装丁の本を開いてページを繰る。昨夜半分寝ぼけながら書いた自分のメモを確認して該当するページに挟み大急ぎで身支度を整え、聖書とメモと、そして聖職者の立場であることを示す黒い上着を引っつかみ部屋を飛び出した。


「よう、お目覚めか?」


 長年鉄と火を相手にし続け皮膚が厚くなった手と人のいい笑みがトレードマークの男は、慌てた様子で駆けて来た青年を見てからかうように言った。じろ、と不機嫌そうな灰色の視線で睨まれ笑みを引っ込める。

 あたふたとタイを締め質素な色のベストに袖を通すのを何となく目で追う。まだ僅かに幼さの残るくすんだ銀髪の青年は今や男の妻の実家である教会を継いで、一人前に牧師などやっているが、出会った当時は碌に喋れもしない浮浪児であった。

 あのチビがよくぞここまで育ったな……と、年寄り臭い感慨に耽りかけたが、その横顔には焦りだけでなく濃い疲労の色も見つける。セルジュはまたか、と眉をひそめた。


「また寝てないのか?」

「ちょっと夢見が悪かっただけ」


 大丈夫だと言って義弟は軽く笑う。そして必要なのはむしろ心構えの方だと付け加えた。人前に出るのが苦手なのは幼少の頃からちっとも変わっていない。

 十字を切り聖書片手に朝食を流し込む。毎日曜日の奮闘から、彼は行儀よりも効率をとったようだ。ただし、行儀にうるさい姉がいない時に限るが。


「ノルン、今日の予定は?」

「午後から町長さんとこに呼ばれてるから、そっちに行ってる」

「また会議か……無茶しすぎて身体壊しちゃ元も子もないぞ」

「仕方ないよ。かなり、厳しい状況みたいだし」


 苦笑混じりに肩を竦めるノルンをセルジュは複雑な心境で眺めた。

 自分より十も年下の青年が町の命運を背負わなければならないとは、惨い時勢になったものだ。

 指導者の立場にありながら若年だからと言う理由で町会議では殆ど発言権も無く、一刻も早く町民を避難させるべきだと言う主張も碌に聞いてもらえないのだと言う。きっと歯痒くて仕方がないに違いないが、セルジュにはノルンを助けてやれる力は無い。如何に人望が厚くても、セルジュは一介の鍛冶屋に過ぎないからだ。

 答える代わりにノルンは紅茶に口をつけた。異国じみた容姿と着込んだ黒い服が相まって元より白い顔が一層やつれて見える。日夜火の傍で仕事をするセルジュにすればいっそ病的とも言えるくらいに顔色が悪い。

 無理も無い。混乱を招くからと市民に伏せられた町の現状と日一日と迫る災厄を前に何も対処できない自身に苛立っているのに、数十分後にはそれを押し隠して教徒に聖書を説かなければならない。その重圧がノルンにのしかかっているのだろう。身内だからこそここまで情報を明かしてくれているが、きっとセルジュやイリスも知らない重石を抱えているに違いない。

 無力だ。自分も、ノルンも、もしかしたらここに住む誰もが。

 その時、厳かな鐘の音が冷えた空気を振るわせた。もやの名残が沈む休日の通りに落ちて朝を告げる。


「九時きっかりだ。偉いね、レイユは」


 重くなった空気を払うように、ノルンが話題を逸らした。


「あの気質は間違いなく母親譲りだろうよ」

「うん、本当に」


 鐘撞きの役目を始めた頃は塔の階段で転んだり、寝過ごして老爺にお説教を喰らったりと色々とやらかしていたが、生来の生真面目さがあってか直に仕事のコツを会得して今では毎朝楽しそうに駆けて行く。

 重苦しい金属音も可愛い甥っ子が張り切って鳴らしているのだと思うと、しっかりしろと励まされているように聞こえる。

 誰もが不安を抱えている中、指導者の自分が気弱になっていては皆の心配を煽るだけだ。外面だけでも気丈にしていなければ。

 空になったカップを置き席を立つ。緊張からくる苛立ちは大分和らいでいた。

 

 離れの礼拝堂へ続く道を朝の冷えた風が吹き抜けていく。正面から風を受けて目を瞑った。その風に紛れるようにして真っ白な少女が横を通り過ぎたが、振り向いても後には朝露に濡れる植え込みが揺れているだけだった。


***


 頭の上を棘をふんだんに含んだ声が飛び交っていく。低く唸るようなものから喧しい変に高いものまで何人分もの声は皆一様に追い詰められた焦りと苛立ちを含んで殺気立っていた。

 そんな中、殆ど傍聴に近い状態で押し黙り平行線を辿る討論の輪の端に座っている自分は、酷く惨めだった。


 今は乱世の世だ。領土を巡って各地で戦争が頻発している。敗走する自国側の軍を追う隣国の軍がもう近くまで迫っていた。この町はその進路のすぐ近くにある。万が一自国が持ち直したとしてもこの町が略奪の標的にされるのはほぼ確定事項で、議論の中心は町を財産を守ることに固執する貴族と町の守備を(と言うよりは自分の邸宅を)固めると言い張る町長を含めた町民代表とのいがみ合いになっている。

 埒の明かない諍いにうんざりした者達_主に警備兵の頭や教職人、若手の商人など_は傍観を決め込んで議題を放り出している。認めたくはないが、実質ノルンもまたそんな中の一人だ。

 当初は市民を避難させよと主張したのだが、権力の前には叶わず議論されもしないまま捨て置かれてしまった。

 町長達の言い分はこうだ。町を空っぽにしてしまえば略奪は徹底的に行われ、一度避難しても民は戻る町を失い路頭に迷う。だから町を守るために残すのだ、と。

 ノルンに言わせれば家などまた建てれば済むことであり気候には恵まれたこの地方だ。一冬さえしのげば彼の故郷のようにすぐさま命を落とすほど厳しい土地ではない。だからむざむざ侵略されることが判り切っている町に非戦闘員を留めるなど具の骨頂であった。

 しかし貴族侯爵は「一人が逃げ出せば皆がその後に続く。結局は全員共倒れである」と言い切った。その裏で自分の妻や娘を逃がす算段をつけているのだから……呆れてものも言えないとはこのことだ。


 いっそ彼らのようにエゴに走ってしまえればどれだけ楽だろうか。ノルンだって本音を言ってしまえば町などどうでもよかったのだ。姉夫婦と甥と共に戦乱を避けて逃げ延びてしまいたかった。戦いなどまっぴらごめんだ。血を見るのすら、本当は厭で堪らないと言うのに。

 鬱々とした葛藤を押し込め、ノルンはただ思案する。


 ……どうしたらいい。どうすれば皆を死なせずに済む。

 父さんがいてくれたら、侯爵達を黙らせることも出来ただろうか。

 やはり、僕では駄目なのだろうか。


 席に腰掛けて黙っているしかない自分が悔しくて不甲斐無くて、つき詰まるところはいつも同じだった。

 掌に血が滲むほど拳を握り締めても鬱憤は一向に晴れない。堂々巡りをする思考を断ち切るために目を瞑って冷たい机の天板に額を押し付けた。


「……おい、大丈夫か?顔が真っ青だ」


 同じく聞き手に徹していた若者が眉根を寄せて耳打ちする。


「……平気です」

「には見えないけどな。気持ちはわからないでもないが……」


 街の警備隊隊士である彼は敵を迎え撃つことには賛成していたが、市民を避難させようとした点に於いてはノルンと同意見だった。

 周りの若年者と同じように眉間にきつく皺を寄せた彼は、忌々しそうにエゴを振りかざす父親を睨んで小声で、しかしはっきりと言い切った。


「でも、逃げたら駄目だぜ」

「…………」


 非情な現実を真っ向から受け止めるように、諍いの中心部をぎっかと睨み据える彼の声は覚悟と自負を孕んでいた。

 諦め、受け止めざるを得ない現実などこの世に掃いて捨てるほどあるだろう。それでも諦めることなど出来ない。大好きな姉が、支えであった義兄が、何より小さなソレイユが死ぬと言う現実なんて絶対に受け入れられなどしないのに、皆を守る力はノルンにはないのだ。

 未だ進展しない議会のただ中で、彼はまた今日も日暮れを告げる鐘を聞いた。


***


 教会の天井近くに嵌められたステンドグラスは昼の間は柔らかな光を取り込んで日光のカーテンを形どる。

 見ようによってはいたく幻想的な光景は、初めて見た時それこそあの窓から何かが舞い降りてくるのではと思ったほどだ。しかし灯りを閉ざした今、神々しさを演出していたステンドグラスは低い明度の下、色をなさず月光の幕を静かに垂らしている。特に何をするでもなくそれを眺める青年は自嘲めいた冷笑を浮かべ上を仰ぐ。青白い光を受けた青年の目は虚しさを湛えて濁っていた。

 この数週間というもの、胸のうちにわかだまる虚無感をいかんともしがたくて無人の薄暗いの礼拝堂で一人佇んでいることが増えた。荘厳な空気を漂わせる教会の、夜の姿は昼のそれと大きく異なり薄ら寒い不気味ささえ孕んでいる。その代わりと言うのはおかしいが、ノルンが抱える虚無とよく馴染んで気持ちが落ち着くのだ。

 窓から差し込む月光が最低限の明度を礼拝堂に提供するので完全な闇ではなく、まるで深い水の中にいるような不思議な静けさをかもし出していた。

 今までは気にも留めなかった礼拝堂の意外な一面に魅せられて以来、ノルンは夜更けも近いこの時間に感情を冷却するためにここへ通うのだった。

 生涯未だかつて一度も、水底など行ったこともないが。




 一昨日の夕方に老いた靴屋が皺の一つ一つに不安を刻み込んだような表情で零した。

 昨日の昼過ぎに街で行き会った婦人が何気なく言った。

 今日の礼拝の後、大きな本を抱えた少女が焦げ茶色の瞳に不安を湛えて尋ねた。


『町が焼けたらわしらは何所へ行けばいいのか』

『この町は安全なのでしょうか牧師様』

『神は我らをお救いくださいますのでしょうか』


 そんなこと……僕に分かるもんかと叫びそうになるのを必死で堪えて笑顔で言った。


『神は祈る者を見捨てたりはしませんよ』


 そう言葉にする度、舌を切り落としてしまいたいと思った。或いは唇を縫い合わせてしまいたかった。二度と、嘘なんて吐けないように。


 どれだけ祈っても、縋っても叶わないものがこの世にごまんとあることを僕は身をもって知っている。その上で虚実に溢れた定型句を言わなければならない。聖職者と詐欺師は、ある意味似たもの同士なのかもしれないと思った。


『失いたくないんだ』


 繰り返した願いはきっと誰にも届かずに夜に溶けて消えるだろう。

 そして僕は明日もまた不毛な議論の渦中に身を置いて。

 自分の無力を呪ってここへ通うんだろう。


 神を祀るこの場所で。

 神ではない誰かに祈るだろう。


 その終焉はきっと……そんなに遠くない。

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