特別な事情
ローラは静かに俺を見つめ、問いかけた。
「特別な事情……もし、この時計があなたか、私の家族、つまり私たちの両親の遺品だったらどう?」
その言葉で、ローラの意図がはっきり見えてきた。
「もちろん、それは“特別な事情”になるな。
困難で手間がかかった修理だったとしても、このような事実は、お客様への裏切りどころか、時計への向き合い方がより真摯だと受け取られるはずだ」
「君の考えはこうだろう。
仕事としては、この腕時計に手をつけることはできない。
だが――“家族”なら問題ない。
つまり……マイケルにやらせる、ということなんだな?」
ローラは静かに微笑んだ。
「そう。クーガー、あなた最近メンテナンスの仕事も増えてきて、うちにもう一人社員が欲しいって言っていたでしょう。
マイケルなら、その役割に“はまる”可能性があると感じたのよ」
「しかし、マイケルにはその“動機”がそんなに強いわけじゃないんじゃないか?
父親の時計を修理するために時計職人になるなんて……
物語であったとしても、発想が飛躍しすぎだし、都合がよすぎるんじゃないか?」
ローラはくすっと笑った。
「じゃあ、あなたが時計の修理職人になった動機はどうだったの?」
不意を突かれたような問いだが、ローラは続ける。
「多くの人はね、仕事を含めて生き方を決めるときに、映画や物語みたいな強い動機や願望で道を選んでいるわけじゃないの。
ほとんどの場合、目の前に現れたいくつかの選択肢の中から、自分が”より良い”と思えるものを取捨選択していくだけ」
ローラは静かに視線を落とし、言葉を重ねた。
「私たちはエレナ、マイケル親子と家族でもなければ、特別に親しいわけでもない。だから私たちがするべきことは、“時計を直せる可能性”という選択肢を提示することだけ。
それをどう選ぶかは――彼女と彼が決めればいいのよ」
ローラの言う通りだった。
俺たちが何かを犠牲にしてまで、この腕時計を修理する理屈のほうが立たない。
もし修理するのなら――“自分たちで”やるしかない。
マイケルが本気で望むなら、俺のもとで修業するしかないのだ。
「ただね……動機と言えるかはわからないけれど、それらしい話を、クロフォードから聞いてきたわ」
ローラは少し声を落として続けた。
「あの腕時計の持ち主――エレナ夫人の夫、ジョナサンというらしいんだけど。
あの災害で直接亡くなったわけではないらしいの。
大火災の最終局面で、鎮火のために“真空解放”を決断し、実行した人……だったそうよ。
そして、その後の後始末をしている最中に、行方不明になったって」
俺は言葉を失った。
あの火災では、まだ火の回っていない区画に生存者がいたという。
それでも、コロニー全体を守るためにジョナサンは真空解放を選んだ――。
ローラが続ける。
「クロフォードも当時そのコロニーにいて、ジョナサンと知り合いだったらしいの」
そうか……だからマイケルは、クロフォード社長のもとで働いているのか。
「クロフォードも、最初はなかなか事情を話してくれなかったんだけれど……エレナが腕時計をうちに持ってきたと聞いたら、マイケルのことも教えてくれたわ」
ローラはそこでふっと息を吸い込み、声を落とした。
「マイケルは前の職場で事故を起こしたらしいの。
エアロックに人がいるのに、真空解放をしてしまいかけたって。
中にいた人は助かったけれど、何週間か入院することになったそうよ。
マイケルだけのミスじゃなくて、組織全体の問題でもあったらしいんだけれど……
彼は、自分の行動を“父親が昔行った真空解放”と重ねてしまったみたいなの」
ローラの言葉が胸に重く沈んだ。
だから、マイケルは逃げるように会社を辞め、母親のもとへ戻ったのだろう。
そして、昔から家族ぐるみで縁のあったクロフォードの会社に、なんとか自分の居場所を作っている――そういうことか。
ローラは続けて、「見つかった腕時計が、使われていない居住区で発見されたこと。
その中にはエレナ宛の手紙が入っていたらしい、ということも教えてくれたわ」
あの腕時計に刻まれた傷やゆがみは、大火災の災害対応の中で生じたものなのだろう。
どれほど過酷な現場だったのか――時計をひと目見れば、俺には痛いほどわかる。
「エレナはね、私たちにあの腕時計を“本当に動かしてほしい”と思っているわけじゃないのかもしれないの。
あの腕時計を動かそうとする、その行為そのものを通して……マイケルの“止まった時計”を、もう一度動かすきっかけにしようとしているんじゃないかしら」
ローラはそこで少し間を置き、静かに続けた。
「さっきも言ったけれど、私たちはあの親子と特別に親しいわけじゃない。
だから私たちが今考えている提案は、あくまで“可能性”という選択肢を親子に提示するだけ。
それで十分じゃないかしら」
そうかもしれない。
俺たちの会社は、いずれ社員を一人雇いたいと思っていた。
だが、腕時計の修理をしていることは大っぴらにしていないから、人の当てがなかなか見つからない。
そんな中で、たまたま事情を理解できる若者が現れた。
そして、俺たちは彼をスカウトした。
受け入れるか、断るか――それはマイケル自身が決めればいい。
それだけで十分なのだ。
「わかったよ、ローラ。君の言うとおりだ。俺は難しく考えすぎていたんだ。
この腕時計は、職人である俺たちには仕事として請け負って修理はできない。
でも――”君なら修理できる。俺のもとで修業すれば”という一言で、十分なんだな」
エレナ夫人が最初に時計を持ち込んでから二日後、俺とローラは、夫人とマイケルに店まで来てもらった。
腕時計の状態について説明するためだ。
俺はまず、エレナ夫人に向き直って口を開いた。
「この腕時計の状態を確認したところ、ケースに歪みが見られました。
修復が“不可能”というわけではありませんが、費用や手間、そして時間を考慮すると……私のほうで修理をお引き受けすることは難しいと判断しました」
ローラは少し悲しげな表情を浮かべながら、そっとマイケルのほうへ視線を向けた。
その様子を見たマイケルは、母を気遣うように口を開いた。
「単純に……費用面で無理なんでしょうか」
「費用面だけ、というわけではありません」
俺は静かに首を振った。
「先ほどもお伝えした通り、作業工程そのものに、あまりにも手間がかかりすぎるのです。
残念ながら、私たちが“仕事”としてお受けできる状態ではない……ということなのです」
そこでローラが、柔らかく言葉を継いだ。
「よろしければ、この時計を修理に出そうと思われた理由を……もう少し詳しくお聞かせいただけますか」
エレナ夫人は、どこから話せばいいのか迷っているようだった。
その沈黙を埋めるように、マイケルが口を開いた。
「この時計は……二十年前、コロニー3で大火災が起きたとき、火災対応にあたっていた父がつけていたそうなんです。
僕はまだ小さくて、その頃のことはよく覚えていないんですが……」
そこでエレナ夫人が、引き継ぐように静かに語り始めた。
「夫――ジョナサンは、この機械式の腕時計を、百年以上経った時代でも動かし続けていることを、とても誇りにしていました。
だから……どうしても、もう一度動いているところを見たかったんです」
ローラはその言葉を優しく受け止め、そっと問いかけた。
「本当の目的は……それだけですか」
エレナ夫人は、どう言葉を選べばいいのか迷っているようだった。
その沈黙の中で、マイケルは一瞬ためらい、視線を落とした。
そして、決心したようにゆっくりと口を開いた。
「母さん……。
僕は、父さんがコロニー3で“真空解放で鎮火した”ってことを、前の会社に入ったときに初めて知ったんだ。
母さんは、僕が事故を起こして帰ってきたって聞いて……この時計を修理に出して、僕のことを何とかしようと思ったんじゃないか……」
エレナ夫人は、マイケルの言葉を聞いて、何かを決心したように静かに語り始めた。
「マイケルが私のもとに帰ってきて、ほどなくして……この腕時計がコロニー3の古い居住区で見つかり、私のところへ届けられました。
その時計には、私宛の手紙が添えられていました。
中身は損傷が激しく、すべてを読むことはできませんでしたが……私とマイケルへの謝罪と、マイケルをよろしく頼む、という部分だけはなんとなく確認できました」
そこで夫人は、そっとマイケルのほうへ視線を向けた。
「マイケルは勤めていた会社で……夫と同じようなことをしかけてしまったのでしょう。
夫が完全に立派だったとは言いません。
でも、この時計がもう一度動くところを見せれば……マイケルが少しでも前に進めるのではないかと思ったのです」
マイケルは、どこか悲しげな、それでいてどうしていいのかわからないような表情を浮かべていた。
ローラは、三人の言葉をそっと受け止めるように、柔らかく問いかけた。
「“前に進む”というのは……どういうことなんでしょうか」
エレナ夫人は少し考え込みながら答えた。
「前に進む……? そうですね、少しでも前向きに生きていく、ということでしょうか……」
マイケルも続けるように口を開いた。
「過去のことを忘れて、新しいことに挑戦する……ってことなのかな……」
ローラは二人の言葉を静かに聞き、ゆっくりと首を振った。
「私は、そうは思いません。
“前に進む”というのは、過去を忘れることではなくて……過去を受け入れることだと思うのです。
つらい思いも、嫌な出来事も、全部を自分の中に取り込んで、それでも生きていくこと。
それこそが、私たち人間が何千年も続けてきた歩みなのだと思うのです」
俺も続けて口を開いた。
「この時計には、ジョナサンさんの思いが深く刻まれています。
それがエレナさんやマイケルにとって、どれほど大切なものか……よくわかります。
ですが――職人として言わせてもらうなら、この状態の時計を修理することは、できないのです」
エレナ夫人は小さく息をつき、「そうですか……やはり難しいのですね」とつぶやいた。
その隣でマイケルは、どうすればいいのか分からないような表情を浮かべていた。
そこで俺は、静かに言葉を続けた。
「ただし――確実に動く保証はできませんが、この腕時計を修理する“方法”はあります。
この時計は……マイケル、君が修理するんだ」
エレナ夫人とマイケルは、一瞬何を言われたのか理解できないように、驚いた表情で俺を見つめた。
マイケルは慌てたように首を振りながら言った。
「いや……修理って、僕には無理ですよ。
こんな細かいもの、触ったこともないし……クーガーさんにしかできないんじゃ……」
ローラが続けた。
「実は今、うちの社員を一人探していたんです。
マイケルさんなら、ちょうどいいんじゃないかなって思って」
マイケルは困ったように眉を寄せた。
「いや……腕時計が好きか嫌いかで言えば、どちらかと言えば好きですけど……。
でも、クーガーさんみたいに詳しいわけじゃないし、腕時計職人になれって言われても……正直、ピンとこないというか」
「気持ちはわかるよ」
俺は穏やかに言った。
「もし俺が逆の立場だったら、きっと混乱してると思う」
するとローラが、いたずらっぽく俺のほうを向いた。
「マイケルさん、クーガーがどうして腕時計職人になったか……知りたくありませんか?
この人、機械仕掛けの腕時計が特別好きだったわけでもないし、職人になりたかったわけでもないんですよ」
俺は思わずたじろいだ。
――その話を今するのかよ。
そう思いながら、ローラから顔をそむけてしまった。
マイケルが不思議そうに尋ねる。
「それは……一体どういうことなんですか?」
ローラは俺の肩を軽くつつきながら言った。
「ほら、あなた。言いなさいよ」
ああ、もう……仕方ない。
最初からこれを言わせるつもりだったんだろう。
俺は観念して口を開いた。
「好きな女の父親が時計職人だったんだよ。
その女性に気に入られたくてさ、特に興味もなかった腕時計の世界に飛び込んだだけなんだ」
マイケルが目を丸くした。
「その女性って……もしかしてローラさん?」
ローラは肩をすくめて笑った。
「この人、どんくさいところもあるんだけどね。
でも、一生懸命さだけは本物だったから……まあ、一緒になってもいいかなって思ったのよ」
俺は苦笑しながら続けた。
「俺が時計職人になった理由なんて、そんなもんだ。
君よりよっぽど、立派な理由なんてないさ」
ローラは穏やかに微笑みながら言った。
「エレナさん、マイケルさん。私たちには、あなた方を前に進ませる力なんてありません。
でも……少しだけ“選択肢”をお渡しすることはできます。
マイケルさんが、ここで時計を修理するという目標を持つことで……もしかしたら、自分の中に何かを見つけられるかもしれません」
エレナ夫人は驚いたように俺を見つめた。
「いいのですか……クーガーさん。マイケルを、あなたに任せても」
マイケルは黙って考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「もし……働き始めるとしたら、いつからなんですか」
「もちろん、今からだ」
俺は即答した。
「クロフォード社長には、もう許可を取ってある」
そして、マイケルに向き直る。
「この時計は、君が“直せる”と確信するまで手をつけるんじゃないぞ。
それに……修業は厳しいぞ!」
ローラがすかさず笑いながら口を挟んだ。
「よく言うわよ。あなた、しょっちゅう泣き言言ってたくせに」
その言葉に、ローラが笑い、俺が苦笑し、エレナ夫人とマイケルもつられて笑った。
張りつめていた空気が、ようやく柔らかくほどけていった。
………
それから十年がたった。
マイケルが、いよいよあの時計に手をつけるらしい。
昨日、彼は少し照れくさそうに言った。
「師匠、ついに部品が全部そろいました。
明日から……あの時計に手をつけます。
師匠は黙って見ていてくださいよ」
俺は肩をすくめて返した。
「頼まれたって手伝ってやらないよ」
そして今日、店の奥の作業台で、マイケルは静かに工具を並べている。
十年前と同じように不器用で、十年前とは比べものにならないほど頼もしい手つきで。
あの時計に向き合う背中は、もう迷っていなかった。
俺は、ふと、あの時計を覗き込んだ。秒針が少し動いたような気がした。




