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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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第26話

 王家の発表から、三日が経った。


 王都中が、この話題で持ちきりだった。元王太子の廃嫡、ファルケ男爵家の取り潰し、そして——北の辺境伯との婚約が正式に承認された、侯爵令嬢アンジェリカ。


 新聞ともいうべき王都の瓦版には、連日、彼女の名前が躍った。


 「疫病を治めた北の聖女」


 「銀狼卿の婚約者」


 「王太子の愚行を、証拠とともに暴いた才媛」


 ——半年前、衆人環視の中で婚約破棄された彼女が、今や、王国中で最も尊敬される令嬢の一人に、躍り出ていた。



 社交界は、大騒ぎだった。


 かつて、アンジェリカを「行き遅れ」「変わり者」「王太子に捨てられた哀れな娘」と嘲笑していた令嬢たちは、手のひらを返したように、彼女に擦り寄ろうとし始めた。


 ローゼンベルク侯爵邸には、連日、お茶会や晩餐会への招待状が山のように届いた。


 「ぜひ、お話を伺いたく」


 「是非、一度、ご来訪をお願いしたく」


 「かねてより、お姉様と親しくしたいと思っておりました」


 アンジェリカは、それら全ての招待を、丁重に断り続けた。



 ある朝の食卓で、ローゼンベルク侯爵は、娘の机の上に積まれた招待状を見て、苦笑していた。


「お前のもとに、これほど招待が来るのは、初めてではないか」


「本当に、驚きましたわ」


 アンジェリカは、紅茶のカップを置いて、微笑んだ。


「三年間の王妃教育の間、社交界では皆様に『可愛げのない令嬢』と呼ばれておりましたのに。——人間というものは、不思議でございますわね」


 ディルクハルトは、食卓の向かい側で、黙って葡萄酒を口に運んでいた。


 彼の灰青色の瞳には、わずかに冷たい光が、宿っていた。



「アンジェリカ」


「はい?」


「受ける必要はない」


「もちろん、受けませんわ。このままでは、北へ帰ることすら、ままなりませんもの」


 アンジェリカは、くすりと笑った。


「それに、今のわたくしに擦り寄る方々は、わたくしが疫病の中で泥まみれになっていた時のことを、お知りになりませんもの。わたくしが本当に欲しいのは、そういう時にも傍にいてくれる方の、ご友情でございますわ」


「……」


 ディルクハルトは、何も言わず、ただ、彼女をじっと見つめた。


 その瞳には、愛おしむような、穏やかな光が、差していた。



 しかし、全ての招待を、完全に無視することは、できなかった。


 王家から、近く、貴族院で正式な婚約承認の宣誓の場が設けられることになっていた。それに先立ち、高位貴族家からの一連の公式行事への出席は、避けられないものがあった。


 侯爵も、こう諭した。


「全部断るのは簡単だが、お前が北へ帰ってから、グレイウルフ家への嫌味として跳ね返る可能性もある。いくつかは、必要なものだけ、こちらから選んで出席しておいた方が、良い」


「お父様の仰せの通りですわ」


 アンジェリカは、頷いた。


「ただし——選ぶのは、わたくしの基準で、よろしいですね?」


「ああ、好きにすれば良い」



 彼女が選んだ招待は、三つだけだった。


 一つは、王妃主催の、新しい王太子の就任を祝う内輪の茶会。


 もう一つは、宰相家の、若い後継ぎの婚礼披露宴。


 そして最後の一つは、ローゼンベルク侯爵家の旧友である、老公爵夫人の誕生日を祝う小さな集い。


 どれも、派手な社交界イベントではなく、真に恩義があるか、或いは筋を通すべき相手との場であった。


 彼女が、擦り寄り組の招待状を、一枚残らず、丁寧な「お断り」の手紙で返していったことは、瞬く間に王都中に広まった。



 茶会の一つで、ある令嬢が、アンジェリカに声をかけてきた。


 かつて、王立学園で、アンジェリカを「本を読んでばかりの、陰気な女」と陰口を叩いていた令嬢だった。今、彼女は、これ以上ないほどの愛想笑いを浮かべて、近づいてきていた。


「あら、アンジェリカ様! お久しゅうございます!」


「……ごきげんよう」


 アンジェリカは、穏やかに応じた。


「わたくし、ずっと、アンジェリカ様と親しくしたいと思っておりましたの。でも、殿下のご婚約者であらせられた頃は、恐れ多くて、とても——」


「まあ、そうでしたの」



「ねえ、お姉様と呼んでも、よろしいかしら? わたくし、ぜひ、グレイウルフ領のお話を、詳しく伺いたいわ」


 令嬢は、猫撫で声を出した。


 アンジェリカは、扇を優雅に開いて、微笑んだ。


 そして、穏やかに、しかし、はっきりと答えた。


「わたくし、記憶力が、少し曖昧でございますの」


「え?」


「あなた様のお名前、今日、初めて伺うような気がいたしますわ。学園でお会いしたこと、ございましたかしら?」


 令嬢の顔が、見る間に、真っ赤になった。



 アンジェリカは、微笑みを崩さぬまま、続けた。


「もし、わたくしを、以前からご存知でございましたら——婚約破棄された半年前に、一言でも、お声をおかけくださっても、良かったのではなくて?」


 令嬢は、言葉を失った。


「本当に親しくありたい方は、わたくしが輝いている時ではなく、土の中にいる時にこそ、手を差し伸べてくださる方ですわ」


 アンジェリカは、扇を閉じた。


「あなた様の、これからのご幸福を、陰ながらお祈りいたしますわ」


 そう言って、彼女は、優雅に、その場を去った。



 茶会から戻る馬車の中で、ディルクハルトが、短く言った。


「——お前は、容赦がないな」


「まあ、そう見えましたかしら」


「見えた」


「ですが、わたくしは、あの方の顔を、本当に、覚えておりませんの」


「……」


「学園時代、わたくしは本ばかり読んでおりましたから」


 ディルクハルトは、少しの間、彼女を見つめていた。


 それから、耐えきれぬように、低く笑った。



 ローゼンベルク侯爵は、その話を聞いて、娘のことを誇りに思った。


 擦り寄ってくる者を、見事にいなし、しかし、決して下品には振る舞わず、優雅な棘で、相手を静かに退ける——それは、長年の王妃教育を受けた彼女の、真骨頂だった。


 侯爵家は、この一件で、むしろ格が上がった。


 「侯爵令嬢アンジェリカ」の名は、社交界で、今や一種の威圧感を持って語られるようになっていた。安易に近づけば、痛い目を見る——そう、みなが悟っていた。



 王都滞在の最終日、アンジェリカは、静かに父の書斎を訪ねた。


「お父様」


「おお、アンジェリカ」


「明日、北へ、発ちます」


 侯爵は、しばらく娘を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「そうか」


「少しの間、お別れですわ」


「うむ」


 彼は、娘の肩に、そっと手を置いた。


「お前が、幸せに暮らしていることが、わしには、何よりの贈り物だ」


「お父様……」


 侯爵は、優しく微笑んだ。


「——行きなさい。お前の居場所は、もう、あちらにある」


 父の許しを受けて、アンジェリカは、深く、深く、頷いた。


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