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王妃教育も社交界も、全部うんざりです  作者: 小林翼


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22/30

第22話

 参内の日の、午後。


 王都の空は、薄曇りだった。微かに湿った春の風が、石畳の通りを撫でていた。


 アンジェリカは、深い緑色のドレスを身に纏っていた。控えめながら、上質の絹地に、銀糸の刺繍が控えめに施されている。首には小ぶりの真珠を一連。髪は高く結い上げ、母の形見の髪飾りを挿した。そして——左手の薬指には、銀細工の婚約指輪が、深い青の光を放っていた。


 派手ではない。


 だが、一目で、格を伝える装いだった。



 ディルクハルトは、濃紺の正装を纏っていた。


 辺境伯としての公式の礼装である。肩から斜めにかけた銀の綬、胸には銀狼の紋章。背筋は真っ直ぐに伸び、腰には儀礼用の長剣を佩いていた。無骨でありながら、押し出しの強い威厳が、全身から滲み出ていた。


 二人が、侯爵邸の玄関で並び立った時——。


 ローゼンベルク侯爵は、深く息を吐いた。


「——絵のように、お似合いじゃ」


 その声は、父としての、心からの祝福だった。



 馬車で王宮に向かう道すがら、アンジェリカは、ディルクハルトの手をずっと握っていた。


 彼の掌は、いつも通り、温かく、硬かった。


「……緊張しておるな」


「少しだけ」


「怖いか」


「いいえ」


 彼女は、はっきりと首を振った。


「怖くはございませんわ。ただ、——少し、哀しいのです」


「哀しい?」


「殿下のことが、ですの」


 ディルクハルトは、黙って、彼女の手を握り返した。



 王宮に到着すると、案内役の侍従が、二人を謁見の間へと導いた。


 長い廊下を歩く間、左右の壁には、歴代国王の肖像画が並んでいた。


 アンジェリカは、懐かしかった。この廊下を、何度も、何度も、歩いた。婚約者として、王妃教育を受ける生徒として、将来の王太子妃として——そのどれもが、今では、遠い過去の自分だった。


 謁見の間の扉が、重々しく開いた。


 二人は、堂々と、中へ入っていった。



 広間の奥、玉座に近い位置に、王太子ユリウスが立っていた。


 隣には、婚約者ミレーヌが身を寄せている。彼女は、見るからに派手な真紅のドレスを纏い、首には大粒のルビー、耳にも、指にも、胸にも、これでもかと宝石を光らせていた。


 両端には、貴族たちが居並んでいた。ざわめきが、広間に満ちていた。


 そして——玉座には、国王陛下が座していた。


 その隣に、王妃エレオノーラ。さらにその下に、宰相、財務長官、貴族院議長——国の中枢を担う者たちが、勢揃いしていた。


 ユリウスは、それに気づいて、明らかに狼狽えていた。



「——ローゼンベルク侯爵令嬢アンジェリカ、並びに、グレイウルフ辺境伯ディルクハルト、参上いたしました」


 侍従が、よく通る声で告げた。


 アンジェリカとディルクハルトは、玉座の前まで進み、深々と礼をした。


 国王が、低い声で口を開いた。


「……よく、参った」


「ご尊顔を拝し、光栄に存じます」


「辺境伯よ。此度の参内、大儀であった」


「御前に出る機会を頂戴し、恐悦至極にございます」


 ディルクハルトは、短く、しかし揺るぎない声で応じた。



 アンジェリカは、顔を上げた。


 半年ぶりに見るユリウスは、すっかり憔悴していた。頬はこけ、目の下には濃い隈が浮かび、かつての覇気はどこにもなかった。彼の瞳は、焦点の合わない、どこか虚ろな光を湛えていた。


 彼女を見ても、彼は、最初、気づかなかったようだった。


 やがて、ゆっくりと、彼の目に、焦点が戻ってきた。


「——アンジェリカ」


 彼は、震える声で、彼女の名を呼んだ。


「戻って、きたのか」


「いいえ、殿下」


 アンジェリカは、静かに答えた。


「ご挨拶に、伺っただけでございます」



 ユリウスは、よろめくように、一歩、前に進み出た。


「頼む、アンジェリカ。戻ってきてくれ」


 彼の声は、情けなく、震えていた。


「俺は——俺は、間違っていた。あの日、あんなことを言うべきではなかった。お前こそが、俺に相応しい妃だ。ミレーヌは、すぐに側室にする。だから、頼む、戻ってきてくれ」


 広間に、ざわめきが走った。


 ミレーヌの顔色が、真っ青になった。


「ユ、ユリウス様……?」


「黙れ」


 ユリウスは、彼女を振り返りもせずに、冷たく言い放った。


「お前のせいで、余は、こんな目に遭っているのだ」



 ミレーヌの可憐な仮面が、一瞬で剥がれた。


「なんですって……?」


「お前があの女を王都に呼び戻せと言ったから、こんなことに——!」


「そ、それは殿下がお望みになったのでは——」


 醜い言い争いが、玉座の前で始まった。


 居並ぶ貴族たちは、呆然と、それを見つめていた。国王は、深いため息をつき、王妃は、静かに扇で目元を覆った。


 アンジェリカは、ただ、哀しげに二人を見つめていた。


 この人たちが、どうして、このような姿に成り果ててしまったのか——そう、思った。



「殿下」


 彼女は、静かに声をかけた。


 ユリウスが、はっとして、彼女を見た。


「わたくしは、殿下の元には、戻りません」


「アン、アンジェリカ——」


「わたくしは、既に、グレイウルフ辺境伯ディルクハルト様の、婚約者でございます」


 彼女は、左手を、胸の高さに掲げた。


 薬指の青い宝石が、広間の光を浴びて、深く、厳かに輝いた。


「この指輪は、グレイウルフ家の代々の妻に、受け継がれてまいりましたもの。わたくしは、亡きお母上様から、直接に、受け継がせていただきました」



 広間に、静寂が落ちた。


 貴族たちは、皆、その指輪を見ていた。歴史ある名家の正式な婚約指輪は、いかなる言葉よりも雄弁だった。それは、単なる「婚約」ではなく、「グレイウルフ家への家族としての迎え入れ」を意味していた。


「殿下」


 アンジェリカは、もう一度、静かに言った。


「わたくしは、もう、殿下の婚約者だった頃のアンジェリカでは、ございませんの」


「……」


「どうか、殿下も、ご自分のなさったことを、——きちんと、思い出してくださいませ」


 ユリウスは、膝から崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。



 国王が、重い声で、告げた。


「アンジェリカ・ローゼンベルク嬢」


「はい、陛下」


「王太子ユリウスが、貴殿に為した無礼、王として、深く詫びる」


 広間に、さらに、深い沈黙が降りた。


 国王が、謝罪する。それは、王太子ユリウスの事実上の否認を意味していた。


 ディルクハルトが、アンジェリカの腰にそっと手を添えた。温かく、力強い支えだった。


「陛下、恐れ入ります」


 アンジェリカは、深々と礼をした。


 彼女の翡翠色の瞳は、静かで、澄んでいた。


 ——これで、ようやく、終わらせられる。


 胸の中で、彼女は、そっと呟いた。


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