第15話
同じ頃、王都では——。
王宮の奥、王太子の私室では、盛大な宴が開かれていた。
王太子ユリウスは、ふかふかのソファに身を埋め、葡萄酒の杯を片手に、取り巻きの貴公子たちと戯れていた。隣には、桃色の髪の婚約者ミレーヌが身を寄せている。彼女は新調したばかりの赤いドレスを纏い、首には大粒のルビーの首飾りを光らせていた。
「ユリウス様ぁ、この首飾り、本当に似合っていますかしら?」
「ああ、よく似合っている。お前のためなら、国中の宝石を買い占めてもいい」
ミレーヌは、可愛らしく頬を染めた。
だが、その目の奥には、計算高い光が、ちらりと走った。
部屋の隅で、給仕の青年が、そっと眉をひそめていた。
テーブルの上には、食べ切れぬほどの料理が並んでいた。南方から取り寄せた果実、北方産の希少なチーズ、王家の厨房でしか作れぬ凝った菓子——そのどれもが、半分も手をつけられぬまま、冷めていく。
ここ数ヶ月、王太子の私室での宴は、日ごとに派手になっていた。
国庫からの出費も、比例して膨らんでいた。
「それにしても、最近は、つまらぬ話ばかりが耳に入るな」
ユリウスが、だるそうに呟いた。
「つまらぬ話、と申しますと?」
取り巻きの一人が、媚びるように問う。
「北の辺境だ。グレイウルフ卿が、なにやら功績を立てたとかで、騒がしい」
「ああ、あの銀狼卿ですか」
「疫病を治めた、とかいう話だろう。たかが辺境の疫病だ。それのどこが、王都で話題になるようなことか」
ユリウスは、不機嫌そうに杯を煽った。
だが、それも無理はなかった。この数日、王都の貴族たちの間で、ある噂が駆け巡っていたのだ。
——北の辺境で、銀糸病の特効薬が作られた。
——作ったのは、ローゼンベルク侯爵令嬢らしい。
——銀狼卿が、自ら雪山に入って薬草を採取したそうだ。
——婚約破棄されたあの令嬢が、今や北の聖女と呼ばれているとか。
噂は、尾ひれをつけて広がっていた。
ローゼンベルク侯爵令嬢——王太子が、一度、婚約破棄したあの女。彼女が、自分の捨てた場所ではなく、より遠い辺境で、華々しく活躍している。その事実は、王太子のちっぽけな自尊心を、じりじりと刺激していた。
「ユリウス様?」
ミレーヌが、不思議そうに彼を見上げた。
「あの方のこと、お気になさいますの?」
「気になどするものか」
ユリウスは、即座に答えた。
「だが——少々、癇に障る」
「まあ」
「余が捨てた女だぞ。それが、辺境で偉そうに振る舞っているというのは」
ミレーヌの目が、細くなった。
彼女もまた、あの女の噂には、不快な感情を抱いていた。婚約破棄されたというのに、悲しむどころか、むしろ自由を謳歌している——そんな女が、王都の話題をさらっているのは、許しがたいことだった。
「ユリウス様」
彼女は、甘えるように、彼の腕に寄り添った。
「あの方を、王都へ呼び戻してはいかがですの?」
「なに?」
「侯爵令嬢の身で、辺境の武人に嫁ぐなど、本来許されぬことではございませんか。ユリウス様が王太子として、お止めになるべきですわ」
「……ふむ」
「あの方はきっと、ユリウス様に未練を残しておいでですわ。一度でも婚約者として召されたのですから、ユリウス様のお側に置いて差し上げるのが、むしろ慈悲というもの」
ユリウスの目が、ゆっくりと光を帯びた。
愚かな男だった。
自分が捨てた女の、本当の気持ちを理解していない。アンジェリカが自由を手に入れて、新しい場所で輝いている——その事実を、彼は認めたくなかった。
認めたくないから、彼女を、また「王太子が情けをかけてやる女」の位置に戻したかった。そうすれば、自尊心は満たされる。
「そうだな」
ユリウスは、頷いた。
「あの女を、王都に召還しよう」
「まあ、素敵ですわ」
「ついでに、銀狼卿にも、きつく釘を刺してやる。侯爵令嬢を勝手に囲うなど、王家への不敬に等しい」
彼は、杯を空け、立ち上がった。
「書状を用意させよう。正式な召還状だ」
ミレーヌは、満足そうに微笑んだ。
だが、その頃、王宮の別の場所では——。
王妃エレオノーラが、疲れた顔で、報告書を眺めていた。
机の上には、財務長官からの報告書が山積みになっていた。どれも、王太子ユリウスの「私的支出」に関するものだった。赤い印で囲まれた数字は、国庫の容量を超え始めていた。
そして、今朝届いたばかりの報告書——王太子が、またアンジェリカを召還しようとしている。
王妃は、深いため息をついた。
「あの子は、何も学ばなかったのね……」
彼女は、侍女を呼んだ。
「ローゼンベルク侯爵に、内々に手紙を書きます。あと、グレイウルフ卿にも」
「畏まりました」
「それから——王太子の財政を、もう一度、厳密に調査するように、財務長官に伝えなさい。今度は、表の帳簿だけではなく、裏も」
「裏も、でございますか」
「ええ」
王妃の顔には、母としての情ではなく、王妃としての冷徹な決意が浮かんでいた。
「あの子は、近く、何か取り返しのつかないことをしでかす。その前に、手を打たなくてはね」
同じ夜。
北の辺境、グレイウルフ城の高い塔の上で、ディルクハルトは一人、遠く南の空を見つめていた。
風は冷たかった。冬は、日ごとに深まっていた。
彼の手には、王都から届いたばかりの、父侯爵からの手紙があった。ローゼンベルク侯爵が、密かに、王都の不穏な動きを知らせてきたのだった。
「……来るか」
彼は、静かに呟いた。
その灰青色の瞳は、どこまでも冷たく、鋭かった。
「——ならば、受けて立つまでだ」
冷たい北風が、彼の銀灰色の髪を、ひと房、さらっていった。




